導入のことば

 

 平成五年七月、母が転移ガンによる脳梗塞で他界。残された父が書き綴った自叙伝の自費出版の製本を待てずして…。

 その父も、生来の気短の性格からか十一月母の後を追った。

平成十七年は両親の十三回忌である。法事も追悼の手段であることは古来よりの風習であるが、父の「遺書」ともなった自叙伝を世間に公開するのも一法かと考え、原書を起こし直し原稿を作った。

 達筆だった父は、原稿用紙を前に自筆で認めていたが、当時パソコンでのワープロ操作に慣れていた私の勧めで、渋々ワープロ専用機の購入を決意した。(昭和四十年頃、奉職先の渋川市立工業高校では、当時としては珍しかった汎用コンピューターを導入し、父が扱いを押し付けられ、悪戦苦闘した時の記憶からか、パソコンには抵抗をし続けた…)

 今の高齢者にも当てはまるが、キーボードへの違和感は強く、機械の操作を覚える以前で右手人差し指一本で文字を見付け回るのが精一杯。伊勢崎に居を構えている私がたまに渋川の実家に行けば、ワープロ講習会が始まり、孫達の相手もそっちのけだったと記憶する。

 実家に父が残したフロッピーはあるだろうが、既に妹夫婦が居住し十数年…行方も定かではないだろう。(第一記録方式が異なりパソコンに移植するにも、コンバーターはあるものの完全復元は困難である)

 父の遺伝?ではあるまいが、文書書きは好きであり、手慰みに本から原稿を作り直す手段に打って出た。(既に私も孫を持つ身、時間は充分にある)

 

 読めない難しい漢字、変換の不統一などあるが、敢えて原文通りとした。

 ワープロに不慣れな父の、努力の痕跡として…

 

   平成十六年五月

            長男 敏 記

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    目  次

 

 はじめに

 

一青春日記

 

  一桜の花が散っていた

  二天網恢々疎にしてもらさず

  三たかが実習されど実習

  四思案の果てに

  五女ごころ

  六大森でのこと

  七夜這い

  八寮の女達

  九乱闘事件始末記

  十試射の日は雪だった

 十一戦争の前と後と

 十二零れ話しあれこれ

   1邂  逅

   2機上射撃

   3薩摩守

   4団  欒

 十三それから

 

二赤城の山が呼んでいた

 

  一開拓入植

  二見合い顛末記

  三諸行無常

  四祭りばやし

  五任侠の里

  六縁は異なもの

  七友あり遠方より来る

  八金  策

  九台  風

  十エピローグ(人間万事塞翁が馬)

 

三デモシカ先生奮戦記

 

  一三つ子の魂百まで

  二故郷の町は待っていた

  三デモシカ先生ご乱行

  四熊さん先生宿縁に驚く

  五熊さん先生大いに弁ずる

  六猫にカツブシ熊にサケ

  七自動車との出会い

  八ポンコツ車が走った

  九渋川市の誕生と実業高校設立運動の再燃

  十市立工業高校の設立決まる

四息子の添え書き

 

  一本編誕生の秘話

  二文字通りの「反面教師」

  三せっかちな父

 

 あとがき

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  妻に捧ぐ

   わが紅の青春日記

             荻原 広

 

 はじめに

 何回目のことであったか… 「紅(くれない)会」(桐生工専造兵科一期生同窓会)が東京ニュー目黒荘であった。

 その時

 「この紅会で(思い出の記)なる各自の回顧録を収録し、我々の苦しくも輝かしい青春時代を子々孫々に伝えてはどうか…?」と言う提言があった。

 集まった面々はこの提言に反対する理由も無く、全員が往時の“思い出”を一文に託し小冊子を作ることになった。私もその時は漫然と…この妙案に賛意を示したものである。

 さて、投稿するに当たって…一体何をテーマにして書いたらよいやら思案した。だが我が青春には、子々孫々に語り継ぐべく自慢話は何一つ思い浮かばず、長考・嘆息することしばしであった。

 不図、入学当初の光景が浮かんだ。それは世紀の奇人西田巳四郎ドイツ語教授の授業風景であった。その思い出を脳裏に描きつつ“桜の花が散っていた”と題して寄稿したところ思わぬ反響があって。妻も駄文を読んで大いに笑った。そして「続きを書いたら…」と言う。

 一年のうち十二月から四月半ば頃まで、冬の寒い間は道楽三昧の油絵の筆は手にしない。つまり日がな一日することもなく炬燵の番人なのである。この際、頭の老化防止にと、妻の勧めもあり、ワープロなる文明の利器を購入して“思い出の記”を綴ることにした。

 既に脳神経の老化は始まり、キーを叩く指は思うように作動せず、日に原稿用紙三枚分仕上げるのがやっとであった。仕上がった誤字・脱字だらけの原稿を校正するのが妻の仕事でもあった。

 その妻が平成三年六月、不治の病魔に犯され、手術・入院することになった。病床にあっても妻は原稿を読み、それに朱筆を加えることを楽しみにしていた。妻が小康を得て退院後も、原稿の仕上げは二人三脚であった。そんなある日

 「原稿が出来上がったら自費出版にしたら?。その本を読んでみたい…」と言う。その言葉に誘われて、私の古希の前祝に…何となくその気(製本する)になった。平成五年六月二日(小生六十九才の誕生日)おのが半世紀の自叙伝を脱稿した。

 同月十三日、突如妻は脳梗塞で倒れた。七月九日…楽しみにしていた製本を待たずして不帰の人となった。

 題名を敢えて…「妻に捧ぐ…わが紅の青春日記」としたのもそんな所以である。なお「紅(くれない)の青春」としたのは紅が造兵科のシンボルカラーであり、我々の青春はまさに戦中・戦後にかけて紅の燃ゆる血をたぎらせたからである。

 

  平成五年七月 霖雨

               荻原 広

 

 

 

 

 

 

   青春日記

 

    一 桜の花が散っていた

 

 昭和二十年は、わが国がかって経験した事のない「敗戦」という、空前絶後のビッグ・イベントに遭遇した年である。

 この年の九月某日、未来への絶望にひしがれて、何とも名状しがたい混迷の最中、造兵科第一期生は桐生工専を卒業した。

 思えば、戦火は太平洋に拡大し、いよいよ風雲は急を告げる十八年の春、多感な若者たちは国土の不滅を信じ、神風を疑わず、ひたすら勝利あるのみを信じつつ希望を秘めて入学したはずである。

 “国破れて山河あり、城春にして草木深し…”というが、あれから四十有余年の星霜が流れ去った。経済大国へと大きく変貌を遂げた今日の世相を、また今日、相見える旧友の変容した姿を、あのとき誰が想像したであろうか。

 しばしタイムトンネルで昔に戻り、往時を回想してみよう。

 

 桐生工専時代の忘れえぬ思い出の一番手は、何と言っても教官西田巳四郎と、ドイツ語である。巳四郎師がこの世に存在していること自体が奇抜であったし、ドイツ語を履修しなくてはならぬことが異常に思えた。そのドイツ語を巳四郎師から習うのであるから印象は未だに強烈である。

 学校の正門をはいると、円形の池を隔てて古風な二階建ての本館が見える。受験雑誌の学校紹介写真に掲載される建物である。

 本館の西橋に階段式になった教室がある。この教室は一般教養学科専用のもので、ドイツ語教師巳四郎の舞台であった。四月の初め、入学早々ドイツ語の時間のことであった。小生は教室東側の一番窓寄りで、前から四段目か五段目の机に席を取った。履いていた朴歯の下駄を通路に置けるので都合が良かったからである。

 開かれた窓越しに桜の老木が花びらを散らしていた。

 ドアが開いて、巳四郎師が痩軀をかがめて、上目づかいに入ってきた。何を思ったか、いきなり階段を上がってこちらに来るではないか。

 小生の横で止まると腰を屈め、小生の下駄を抱えあげ窓から抛り出した。やおら踵を返し教卓に戻るのだがその間、無言であった。

 巳四郎師は、ミイラになった河童が鼻眼鏡を掛けたような顔をしていて、その顔が時々含み笑いをするので、何とも気味が悪い。

 やがて、名簿の順に点呼が始まる。それは、単に出席を確認するためだけのものではない。これはと思う相手には得意の毒舌を浴びせ、畏服させてしまう常套手段なのである。たとえば…

 「オギハラ君!」としわがれた声で呼ぶ。

 「ハイ…」と、小生。

 「君の出身校はどこかね?」その声は意外に慇懃である。

 「シブ中(渋川中学の意味)です」至極神妙に返事をする。

 「フン…」いくぶんせせら笑った顔が急に上目使いになり、眼鏡越しにキラリと光ると

 「東京の渋谷かね…、あそこの卒業生なら優秀だ」意地の悪い皮肉である。

 「いいえ、群馬の渋中であります」いくぶんヤケ気味になって堪えると

 「馬鹿者め!この山猿めが!。何故渋川中学と言わんのか。渋川中学出身者は皆、劣等生ばかりだ、君も今のうちに諦めたらどうかね…」など吐き捨てるように言うのだ。

 巳四郎師の毒舌は一級品である。名物教師の所以はこれにある。

 「勝手にほざけ…」と、腹の中で苦笑しつつ、小生は花びらのゆくえを横目で追っていた。

 以来、巳四郎と、ドイツ語と、小生の腐れ縁は一年間つづくことになる。波乱万丈の後日談は他の教官殿の追悼を含めて、次回に述べる。

 

 

 二 天網恢々疎にしてもらさず

 

   1 はじめに

 

 昭和十七年の春、桐生工専機械科を受けて予想通り完敗した。

 「君が上級学校を受験するなど笑止千万なこと…万に一つの合格はありはせぬ」と当時のクラス担当から、断定的に宣告されたほどの己が実力からすれば、当然の結果であった。

 引かれ者の小唄ではないが、理数系が不得手であった小生にとって、何がなんでも工科系の学校でなければならぬ、という悲願があった訳ではない。親の希望もあり、たまたま手近なところに桐生工専があったからで、当時の世相からすればやむを得ない成り行きであった。

 されど、その頃の浪人学生は身の置き場が狭く、現在のように気楽なものではなかったのである。

 戦火は拡大する一途を辿り、いよいよ泥沼にはまって抜き差しならず、まさに国は存亡の危機にあった。庶民はひたすら「欲しがりません、勝つまでは…」を掛け言葉に、耐乏の生活を強いられていた時世なのである。

 それ故に浪人学生は、まことに肩身が狭くまともに外出もはばかられたのである。

 時に、桐生工専には聴講生制度なるものがあり、浪人には有難い格好の隠れみのであった。小生の此処での一年間の体験は、良きにつけ悪しきにつけて、我が生涯に多くの影響を及ぼし、かつ、思いがけぬ転機ともなった。

 「人間万事塞翁が馬…、人間の禍福はまさにあざなえる縄の如し…」であった。

 昭和十八年度から桐生工専に造兵科が新設されることになった。小生、進んでこれを希望し、どうにか入学することを得た。

 兵器製造に関する専門知識と技術を修得するための学科であると…理解すればよい。

 過去の小生の生き様を知るものには(自ら好んで造兵科を選んだ事に対して)意外なことと訝しむ声が囁かれたものである。

 それについて釈明するには、中学生時代の、自慢にもならぬ己がプロフィールを紹介せねばならない。これも若き時代の思い出の一齣として書き留めることにする。

 小生の父親は地方の一官吏として、勤務地を転々とした。その都度転校を余儀なくされ、小学校が一年置きに都合三回、中学も富岡中学から渋川中学へと二校に亘った。こうしたたび重なる環境の変化も性格を変える要因になっていたかもしれぬ。

 中学に入ったのは昭和十二年で支那事変が勃発した年である。世相も戦争一色に彩られ個人の意思は目に見えぬ糸で縛られて、自由の空気が逼塞しつつあった。

 中学の三年頃までは成績もまあまあで悪い方ではなかった。が四年になってから、ずるずると低下し、五年生の後半には墜落寸前の低空飛行であった。その年の二学期の某日、校長室に呼び出されて三日間の家庭謹慎処分の宣告を受けた。

 処分の理由は実に勝手な学校側の言い分であった。理由なるものを要約すると…

一軍隊を誹謗するのは、極めて非国民的であること。(配属将校に反抗し、教練をサボったことに対する罰則であった)

二思想に偏向が認められ、ストライキを煽動する恐れがあること。

三急激な学業の不振、これは、前二項に起因するものである。

三の項目は大した問題ではない、小生より下の者だって何人かいる筈なのだ。然も、一と二の件は、事実を過大視するもので全くの濡れ衣である。当時の学校教育界がいかに軍部の鼻息を伺い、生徒の思想に過敏であったかが知れようというものである。小生の中学時代は、暗く疎ましい獄中生活に等しいものであった。友人との交わりは別にして…。

 「そんな、物騒な過去を背負ったお前が何故、造兵科を志望したのか?」の問いには

 「俺は、反戦論者ではない。人並みの愛国心は持っている。赤紙(召集令状)が来れば戦場にも喜んで行く…ただし天皇の為にじゃない、国の為にだ…」と。さらに続けて、こうも言うだろう

 「俺は去年機械科を受けて振られた。同期の連中と顔を合わせるのは気が進まぬし、造兵科には先輩がおらぬ。古人の教えに曰く“鶏頭となるとも、牛後となるなかれ”とな」

 かくして、昭和十八年四月、海のものとも山のものとも分からぬ…正体不明の造兵科一期生となる。格好よく、時代の花形スターの誕生と言っておこうか。

 

   2玉と石と

 

 難関を掻い潜って、此処梁山泊こと桐生ヶ丘に集まりたる壮士五十と余名、いずれが英雄・豪傑か眼光燦とした多士済々の面々である。が、紅顔の目の輝きは、よく観察すると深浅、厚薄それぞれにバラツキがあった。

 「さぁ…、やったぞ。俺の本番はこれからだ!」と、明日を見つめる颯爽たる男の顔と

 「あぁ…、やっと峠を越えたか…後は野となれ山となれだ」と、越し方を振り返りつつ安堵の胸をなで下ろす男の顔と様々であった。

 前者の目は現役組(例外も多し)に多く、身に付けた者が何となく新鮮に映る。後者のそれは浪人組(勿論全てではない)で頭の頂から足の先までが何となく古色蒼然としていて、多少品位に欠けるがそれなりの貫禄がないでもない。

 つまり玉石混淆の集団なのであった。いずれが玉でいずれが石か、その証はいまのところ分からぬ。半世紀後の判定を待たねばならぬから。金剛石も磨かずば…であるが故に。しかしながら、この時点では前者が玉組、後者が石組と見なすことには誰も異存ない筈である。

 寄るところに玉で(この玉は悪玉)、相身互いの仲間が集まって屯することは、昔も今も同じである。その集団が品位に欠け、貫禄のありそうな浪人組の寄り合いだとすれば、愚連隊も五十歩百歩であった。

 ―閑話休題―

 小生の回想録には、芝居における二枚目は滅多に登場しない。小生を含めた悪役か、脇役が主役である。それがため、造兵科の品位を汚し、或いは沽券にかかわるといった、誤解や批判を招かぬよう、改めて誇り高き造兵科の実像を記録に留めて他日の証とする。

 我が造兵科は一学年・一学級だけで、一握の集団に過ぎぬ。だがこの集団は山椒の実の如く、小粒ながら一騎当千の兵が犇く精鋭部隊であった。名実共に他の科に勝るとも劣らぬと、自負して憚らぬ。

 だが造兵科も玉と石の混合である。玉が陽なら石は陰である。陰陽が無かったら実像の正体は不明である。名画・名作も陰と陽の絶妙なコントラストの描写から生まれる。下手な理屈だが玉は石の存在で輝き、造兵科の実像も鮮明になる。さて、自画自賛の弁はこのくらいにして話を元に戻そう!

 小生の住居は当時伊勢崎にあった。通学はもっぱら国鉄駅から汽車によるものであった。中学の時から着古した、色の褪せた詰襟の学生服を身にまとい、腰に薄汚れた手拭を垂らし、朴歯下駄の音を鳴らして通学する学生姿は、その頃それ程珍妙なスタイルではなかった。その中に一人蓬髪で無精髭を生やした男があった。すれ違う女子学生はわざと顔をしかめて、その男を避けるようにして通り抜けたものである。―この男…ありし日の己自身の姿である。

 今秋の対科マッチ(対抗戦)に備えて、応援団長らしい貫禄と威厳を誇示するために、それが終わるまで頭髪と髭の手入れは一切放念のこと…というクラスの約定に従ってのものだ。食事のとき、口唇にまつわる髭が邪魔で物を食べるのに難儀をしたものである。また、鏡に写る己が顔を眺めて

 (このむさ苦しい顔が、俺の顔か?…)可笑しくもあったが、情けなくもあった。

 お陰で、通学途上での彼女たちとのロマンスには無縁であった。以来、誰言うともなく小生を指して“鐘馗”と呼んだ。

 造兵科にその人ありといわれた“仁王”の異名を持つ男の登場願わば造兵科一座の舞台の幕が開かぬ。その男、栃木の産にして姓は笛木、名は大三という。

 身の丈五尺七寸三分?筋骨逞しく容貌魁偉(本人は美丈夫と思っているらしい)であるが、よく見るとこの男の顔には髭というものがない。顔面は朱を掃いたように赤く、さながら寺の山門に佇む仁王様と見まがうこと請合いである。

 鐘馗と仁王と、両者いずれも浪人組で、初年兵だけの小部隊にあって、他科の連中の目には胡散くさい古参兵と写ったに違いない。

 校庭の敷地の北限に民地との境界を仕切るポプラ並木があり、その並木を背にして一棟の平屋建て校舎があった。木造で粗末なものであった。この周辺一帯の建物は電気科の領分で、同じような舎棟が点在していた。その一隅を造兵科の製図室として間借りし、クラスの本拠(ホームルーム)に当てていた。対科マッチの作戦本部も此処にあった。

 或る麗らかな春の日の昼休み…、裏のポプラ並木の木陰で、休息の一服を満喫しながら

“雲は行く行く遥かに…コンロン越えて…”

と、音色にも情感を込めて口ずさむ男がいた。この男の名を加藤郁郎(現須永)といい、赤城山の山麓に産した生粋の上州男である。

 彼の席が名簿順で、中に長田剛を挟んで近接していたので、同じ浪人組の誼みもあり放埓三昧な行動を共にしていたものである。

 彼は一見、黄昏の閻魔様の如く相手を威圧する厳めしい風貌であるが、根は陽気で、不思議な社交術を持つ男であった。上州弁丸出しに語る冗舌は巧みで、屡々周囲の爆笑を誘った。

 この回想録を語り進める都合で、もう一人の名脇役の登場を願っておこう。

 この男優の名を黒須洋三(現山本)と言い、大阪は天王寺中学の出身である。茫洋とした殿様面をしたボンボンで大器晩成を誇りとする我が石組のホープである。彼はさすがの加藤も呆れるほど向学心に欠けていて、諸事おおらかにして拘りというものがない。「アレ(女)のほうが忙しくて、どうも勉強には手が回らんのやへっへっへっ…」と、こともなく言い切る大物学生である。

 彼のことを“くろす”をもじって“エロス“とよぶ所以である。彼の人格に相応しい渾名である。

 

   3 灯火苦しみの候

 

 善戦・苦闘した対科マッチも終え、周囲の山の緑も色褪せ、紅葉に変わる頃になると、日ごろ大器晩成を壮語していた石組の面々にとっては秋風が身に染みて、甚だ気の重い季節の到来である。灯火まさに苦しみの候であった。諸行無常がこの世の習いなら、因果応報も浮世の掟である。

 一場教授の物理と紅露教授の金属材料の講義室は電気科の建物であった。その建物の位置とか場所の特定は出来ぬが、多分同じ教室であったような気がする。紅露さんの物静かな口調で、燻し銀のような講義は未だに感銘に残っている。(鋼の平衡状態図やマルテンサイト、オーステナイト等々の組織)の説明など丸で馬の耳に念仏であった。代返を頼み講義をサボタージュしたことは一度や二度ではなかった。今になって後悔することしきりである。

 二学期も末に近いある日の、一場教授が演ずる物理の授業風景を覗いてみよう。

 教室は百名ほど収容できる広さがあろうか、三人掛けの長机と長椅子が配置されてあり学生は思い思いの座をしめていて、名簿順による指定席ではない。何故ならば、教卓に近い前部には玉組が多く顔を揃え、そして教壇から遠い後部に石組のお歴々が陣を構える構図であった。

 教室内は意外に静寂である。玉組は講義に耳を傾け、粛々とノートを取るが、石組の多くは首を垂れる者、頭を机に伏せる者あり、静かなること林の如しであった。黒須は悠然と心地良さげなる寝息を立てていた。

 さて、壇上の一場教授は大柄で、反るが如くに背を伸ばした姿勢は、なかなか端麗である。体軀を九十度、つまり窓側に向かって立ち彼の視線は窓ガラスに写る白雲の去来を追っていた。髭の剃り後が青々した横顔はふっくらと豊かで、布袋様の風貌であった。

 その口唇からこぼれるお言葉は厳かであるが石組の者には難解を極めた。小生には般若経の唱妙であった。

 ふと、読経の声が止んだ。布袋様が後姿をこちら側に向け、つまり黒板に向かって、白墨をつかみ取るや黒板上に何やら方程式を書き並べた。何処かでお目にかかった式である。布袋様はこちらに向き直り、やおらポケットから紙片を取り出した。その紙片には数名の名前が書き込まれていた。一瞬教室内が緊張した。呼び出されたのは、小生と加藤と黒須その他二、三名であった。いずれも大器晩成組である。此の者達は前に出て、黒板上の式に「解答を示せ…」というのである。

 当然のことながら、その者達茫然自失の体で壇上に佇んだまま、張り子の達磨よろしく手も足も出ない。自分の席に戻るまでの間、僅か数分であったが、かなり長い時間拷問に掛けられていたように感じたものであった。授業終了後、案の定教官室に呼ばれた。

 一場教授の部屋は機械科本館の二階にあった。窓辺に秘書嬢が背を向けて座っていた。彼女は薊貞子と言い、毎日同じ汽車で通う顔見知りの娘であった。

 教授の机の上に数枚のテスト用紙が人待ち顔に並べられてあった。それは数日前に済んだばかりの物理のものであった。(ドッペル効果の理論)に関する証明問題、その他であった。なんと、それは先ほど黒板に示された式と同じものではないか。

 そして、目の前に突きつけられた答案用紙には黒々と解答が書いてあり、まさしく己のものであった。

 天網恢々疎にして漏らさず…。万事休すとはこのことであった。

 「これはカンニングだな?」と、もの申さんばかりに布袋様の半眼が眼鏡のなかでうすら笑っていた。小生は黙して頷くのみであった。しばし沈黙のうちに…

 「追試ですか?」と尋ねべきか、思いあぐねたが

 「否、追試などはせぬ…。当然0点である」と、断定的に宣告されてしまっては、もともこもないと思いなお黙然と俯いていると

 「君の努力点を買おう。まぁ落第しない程度の点でな…」と布袋様の口唇から有難いお言葉がこぼれ給うた。此のときばかりは鐘馗の目にも涙で、全身から力が抜け落ち、深々と頭が下がった。

 秘書嬢の肩が細かく揺れ動いた。向こう向きで見えない顔が「クックッ……」と笑いをかみ殺しているように。

 あぁー、これから通いの汽車の中で彼女と顔が合った時の切なきことよ。

 この時は、加藤や黒須は一緒ではなかった。…二人はただ出来が悪いだけでカンニングはしなかったのかも知れぬ。今度あったら聞いてみよう…。

 

   三 たかが実習、されど実習

 

 製図と実習、これは工業学校の必須科目である。頭脳よりも四肢を使う体験的な学習であるから、日頃、難解を極める一場教授の物理、紅露教授の金属材料に呻吟してる石組の面々にとって、ホッと息の抜ける時間であると…おもった。

 小生は、小学生の頃より図画や工作は得意であった。ところが、見ると聞くとは大違いであった。

 時の経過と共に、自分の認識の甘さと、生来からの実習への…不適応性…を思い知らされることになる。

 その頃、製図は既に初歩の段階を終えて、作題は(不確かな記憶であるが)多分軸受けであった。円弧の多い、かなり実践的な機械部品であった。各自銘々の進捗度は一様にはまいらぬもので、既に完成に近い者がいれば、未だ半分道中でもたつく不器用な連中もいた。

 製図専門の教官は長谷川教授であった。彼には胸に持病があった。裏なりのマクワ瓜のような青白い顔色であったが、屈託のなさそうな柔和な人柄であった。

 この頃になると、教授は始業時に点呼を済ませると、早々に教官室に戻り、終業時に再び現れるまで滅多に姿を現すことはない。従って製図の授業は自由時間同然であった。

 談笑あり、鼻唄あり、あちらこちらで狼煙の如く煙草の煙りが上がる始末であった。こんなとき、突然…

 「あぃやー、しもーッ…」と、部屋の騒音をかき消すかのごとき嬌声が上がった。そして、それが

 「こりやぁー参ったなぁー。参った、参った…」という呻きの声に変わった。

 加藤が手にしたカラス口の先から墨がポトリ…彼の図面上に滴下してのである。それがまた鳥の糞模様に見事に広がったのである。加藤の大袈裟な仕草に、思わず周囲から失笑と喚声があがった。

 墨入れの段階で修正不可能な失敗は、再び初めからやり直しである。此のような時は提出期限に間に合わぬこともありうる。その場合、当然ペナルティーが科せられる。たとえば、一日遅滞する毎に、マイナス五点…という具合に。

 この様な事態に颯爽と登場し、ピンチを救う正義の味方があった。田中愈御大その人である。

 田中は和歌山の耐久中学の出身で、桐生工専に入るまで二年間程、どこぞの会社で実務を体験したという…。同じ関西の浪人、黒須とは比べ者にならぬほどの苦労人であった。

 なるが故に、彼の製図や実習での機械の扱いは本物であった。製図の多少の失敗や墨入れの汚れは、安全ガミソリで綺麗に修正してしまうのである。加藤はじめ彼に救われた者は何人かいた筈である。

 機械科の本館に並行して、その西側に実習工場があった。実習工場は間口が広く、奥行きの深い、飛行機の格納庫のように天井の高い建物であった。天井には動力を伝える回転軸がガラガラと回り、その回転軸から幾条ものベルトが垂れ下がり、旋盤などの工作機械に連結していた。

 一年生の実習項目(内容)は大きく分けて、鍛造(かじ屋)、手仕上げ、機械仕上げ(旋盤・フライス盤その他)であった。クラスを四つに分けて、十二、三名の班を編成し、一定の周期でローテーションして全実習項目を体験するようになっていた。

 小生のグループには田中や加藤もいた。結構なる組み合わせであったが名簿順に区分けられているので文句の付けようもない。

 どの作業も初めて体験するもので、未知との遭遇に興味津々であった。それも最初のことだけで、中でも鍛造と旋盤には手を焼いたものだ。己の意のままにならず初めから最後まで悪戦苦闘の連続であった。

 鍛造の最初の作品はケガキ針であった。一塊の鉄片かっら細い竹箸状に、鍛冶屋仕事で伸ばし、一端を篦状に他端を針のごとく尖らせる。炉で加熱し赤くなった鉄をハンマーで、トンテンカン、トンテンカン叩きながら細く丸く仕上げるのである。

 担当助手が班の連中を集めて作業の手順の説明を始めていた。小生はたまたま、ケガキ棒の中央に捩りを付けるべく材料を炉の中に入れて加熱していた。やむなく、せっかく赤くなった材料を引き出して側にあった冷却槽のなかに突っ込んだ。ジュッ!と音がした。その音を耳にした助手は、小生を振り返り口を尖らせて怒鳴った。

 「馬鹿者!何で今焼きを入れたのだ!焼きが入ったら次のヤスリの仕上げが出来ないだろうが…、仕上がった段階で針の先端だけに焼きを入れることを、今説明したばかりではないか、君は聴いていなかったのか…」

 「はい…仕掛けた仕事があったものですから…つい」小生は焼きの入るのをしらなかった…いや、聴いていなかったのである。

 旋盤はロクロと同じ働きをする機械である。鋼の丸棒から円筒型や複雑な球面をした形状のものまで作り出せる万能な機械である。それだけに使いこなすまでにはかなりの熟練を要する。

 バイト(刃物)の先端は前後左右に移動する。その操作を人間の両手で行うのだから厄介なのである。交感神経の鈍い者には使いこなせぬ代物である。

 旋盤加工の提出作品は糸瓜の形をしたノブ(握り取っ手)であった。

 小生がバイトで削り出す作品は何れも異形で、局面が凸凹になり、まるで芋虫か意味不明な芸術作品であった。

 小生が芋虫と格闘している間に、田中は実に見事なノブを二つも仕上げていた。その一つを小生は貰い受けて提出作品に替えたのである。

 「でもなァー君、これ寸法が少し違ごうとるんや…」と、彼は独特の関西弁で言った。

「なァ〜に、構うもんか…俺の芋虫と比べりゃ、格段の差だがな…」と、答え、哀れなる我が芋虫と見比べて莞爾としたものである。

 製図はさておき、実習ではいろいろとお世話になりました。田中先生様…。

 

   四 思案の果てに

 

 奇人、西田巳四郎師の痛烈の面罵で幕をあけた昭和十八年度は、つまり造兵科の一学年は皮肉にも、師との再度の対決で閉幕することになった。このくだりについては、この項の終盤で述べる。

 眼鏡を掛けたミイラ先生こと巳四郎師のドイツ語、難解を極めた布袋様こと一場教授の物理、屡々講義をサボらせてもらった紅露さんの金属材料…等々、済んでみると今は只々懐かしい思い出として蘇るのみである。

 こと学問に関しては、自慢できるものが何一つ無く、多くを語る資格を持たぬ哀れな小生である。だがこの一年は、己が生涯で青春のすべてを凝縮した三百六十五日であった。まさに、青春の紅の血をたぎらせたドラマがそこにはあった。

 戦時体制下の状況にあることも忘れて、水道山から西ヶ丘公園に通じる樹間の小道を

     “妻を娶らば才たけてー見目麗しく情けありー

        友を選ばば書を読みてー六分の侠気四分の熱―…“

 声高らかに逍遥したことも、淡雪の如きうたかたの初恋に浮き身をやつしたことも、毎日のすべてが青春であった。

 そしてまたこの間に、百年の知己と、その友情に邂逅しえたこと、…このことは何物にも替え難い収穫であった。男子の本懐―これに極まる。

 この掛け替えの無い友人も、何人かこの世を去った。茂木民雄もその一人である。

 ここに、彼の往年の日のエピソードを回想し、彼を忍びつつ永遠の冥福を祈る。

 伊勢崎を南に少し離れたところに馬見塚という集落がある。彼の生家はそこである。そこから伊勢崎両毛線駅まで凡そ五キロの道程を、彼は自転車を漕いで通学していた。伊勢崎駅から通う造兵科生は小生と彼と二人であった。

 彼は太田中学の出身で現役から入学を果たした。従って彼は同僚ながら通学年暦は小生の後輩であった。

 彼は、真新しい朴歯下駄を履き、庇の長い油で光った帽子を阿弥陀に被り、当時流行のタイ(紐状の帯)で括った本を肩に掛けて、いかにも蛮唐なスタイルであった。が、その顔は初々しい紅顔の美少年であった。

 初めの頃の彼は、無精髭に、くわえ煙草のひねた無頼学生であった小生に一歩距離を置いていた。人の前を歩くことはせず、控えめで好感の持てる男であった。

 気安く声を掛け合い、肩を並べて歩くようになるまでさほどの日時は要らなかった。玉組の彼が石組に変身するのも時間の問題であった。もともと彼は石組の素質のある男で、偽玉であった…のかもしれぬ。

 昂然と煙草を吹かすようになり、撞球場にも通うようになった。音痴の彼が臆面もなく古い流行歌や軍歌に蛮声を張り上げたこともあった。

 そんな彼がある日、思い詰めた顔で小生に恋を打ち明けたものである。一見屈託のなさそうに見える彼も、また人の子であった。胸の痛みに悶々とした日々に耐えかねて、頼もしい先輩と見て相談をかけた…ことになる。

彼の腹の中は凡そ読めた。多分恋文の代作依頼の件である。既に加藤(現須永)に関わって失敗しているので、

 「ラブレターの代作なら断るぜ…」と、一応先手を打っておいてから

 「いったいこの俺にどうしてくれというのだ?手紙の件は駄目だ、恋文には真心がねぇと…相手に通じぬものなんだ。美辞麗句を連ねたところで女心は釣れるものじゃない」と。これは、加藤が小生に零した言葉の受け売りである。

 「その相手の女はお前さんに気があるのか?」失礼ながら聞いてみた。

 「ウン、多分あると思う…未だ口はきいたことはねぇけど…そんな気がするんだ」紅顔に血の気をのぼせて首を傾げながら如何にも困惑の体で言ったものだ。

 日頃の彼らしからぬ様子にほだされてか、先輩の貫禄の見せ場と考えてか、翌日小生秘蔵の艶文を彼に渡し、こう言った。

 「これは、俺がある女に心で書いたものだ。だから他人には通用しない、参考になるなら使ってくれ…」と。

 その後、どんな結果でおさまりが着いたものやら…遠い昔のことで記憶がない。(俺だって、そんな昔のことなんか忘れてしまったさ)と…茂木も天国とやらで苦笑しているかも知れぬ。

 卒業以来三十年ぶりに彼と再会した。東京で造兵科のクラス会があった時、なんとかいう建設省の会館であった。その時に見た彼は玉が完全に風化して岩石に変貌していた。飲む、打つ、買うの三拍子揃った、立派な親分の貫禄があった。それ程に逞しく思えた彼が突然倒れ、昭和の歴史と共にこの世を去ったのである。

   … 合 掌 …

 さて、瞑想から物語を現実に戻そう。

 “初め良ければ終わり良しー”が真実なら、その逆もまた真実である。巳四郎師に泣かされて開幕したこの一年は、師に泣かされて閉幕することになった。

 その年の暮れであったか、その翌年の学年末のことであったか記憶は定かでではないが

 「君の進退について、とくと面談したいので、父兄同伴で○日○時に出頭されたい」と師から申し渡しがあった。

 巳四郎師とは入学以来、怨念あさからぬ仲で、ドイツ語は殊更に無視の姿勢をとっていたので、なんらかのしっぺ返しは、当然のことと覚悟はしていた。「父兄同伴にて出頭」には小生とあろう者が、些か動転した。同時に、なめた真似をするものだと憤慨の血が逆流したものだ。

 これも、彼得意のこけ脅しに違いあるまい、と思い当たると心頭の怒りも消え、苦笑に変わった。呼び出しを受けたからには、これをすッぽかすこともできぬ。さりとて親に、不肖の恥事を明かすほとも憚れた。思案のすえ、鶏卵を手土産にお伺いをたてることにした。

 家のものには内緒で、田舎の親戚を回って、できるだけの卵を集めた。数にして五十個ばかり集めた。巳四郎寮は桐生両毛線駅からさほど遠くない街中にあった。黄昏も深まり、空の残照も消えて星がまたたく凍てつくような寒い晩であった。

 寮は古ぼけた、旅籠風のしもた屋であった。玄関に立ち、対応に現れた書生(寄宿生)に来意を告げると、ニヤリと意味ありげな薄笑いを浮かべ師の待つ部屋に案内してくれた。心にくいまでに手馴れた物腰である。巳四郎師は、炬燵に深々と尻までもぐり、積み重ねた夜具に背をもたせ、仰臥の格好で客をむかえた。

 「尻の具合が悪いので、このままで失礼するよ」―痔が痛むのだ。彼は大痔主なのである。師の顔は、まさしく河童の干物であるが、眼鏡の中には例の鋭い光は無かった。

 「先日呼び出しを受けたものです、家族から渡された物で…」神妙に膝をたたんで、卵の包みを畳に置き、前に差し出した。

 「賄賂ではあるまいな?」師は皮肉に口をゆがめたが、目もとは笑っていた。

 「いや、卵です。寮生への差し入れと思ってください…」

 「それでは遠慮無く頂こう…。オーイ!誰かおらんか…」奥へ濁声を掛けると、くだんの学生が現れ、遠慮会釈もなく包みを持ち去った。全く手馴れた仕草であった。

 「君は出来の良くない、造兵科のオギハラ君だったな?」何用で来たのかと言わんばかりの、人を喰った挨拶である。父兄同伴のことは、おくびにも出さぬ。

 「ドイツ語の点数をなんとかして頂きたいと思いまして」小生も単刀直入に開き直る。

 「ふっふっ…、君の出来は悪いねー、点数はありませんぞ!マイナス三十点になっとる。マイナスの点を取るのも珍しい…よほど君は出来が悪い」 出来が悪いの連発であった。

 「??…」 何をとぼけたことぬかすか…と師の顔を見返すと

 「僕のテストはねェー、減点法なんだ。それでいくと君の場合は0点以下になる…分かるかね?ふっふっ…」

 全く人を子馬鹿にした笑いである。ここで理屈をこねてみたところで始まらぬ。目的は点数を稼がねばならぬのである。

 「そこをなんとか助けて頂けませんと…」

この際ひたすら低頭する。

 「何点欲しいのかね?…」「せめて、及第点を頂ければ有難く…」

 「欲がないねェー君は…、よし!卵に免じて八十点をやろう…ふっふっ…・」と、仇の首を討ち取った如く、嬉しそうに笑ったものだ。

 それ以来、不思議と巳四郎師への敵愾心が消え、ある種の親しみが沸いた。波乱万丈のこの一年も、どうやら無事に終わった。

  ―造兵科一年時の思いではこれにておしまい。

 

   五 女ごころ

     1

 両毛線前橋駅を北に向かって、電車道を辿ると商工会議所(現在の明治生命ビル)の四つ角と呼ばれた交差点がある。

 この四つ角を中心にして西に直進すれば県庁に突き当たり、チンチン電車の軌道に沿って北に向かうと渋川に至る。また、東方面には桐生、太田、伊勢崎に至る県道が通じていて、それぞれがバス路線である。さらに、六間通りの下り坂を北進すれば木暮の集落を経て、赤城山への登山道になる。

 戦争で焼ける前は、この四つ角には、路面電車や乗り合いバスの停留場があって、まさに交通の要衝であった。

 昭和十九年の三月も末に近い、ある日のことであった。

 空は一面に薄墨を垂らし込んだような、重く暗い雲に覆われて、冬の名残の雪が舞っていた。それゆえに、夕暮れには未だ早い時刻であったが辺りは宵闇が漂い、行き交う人影が朧であった。

 渋川方面行き電車の停留場に屯する朧なる人影の中に、軍服姿の男の横顔に見覚えがあった。

 [や・や・っ…T君ではないか!] 紛れもなくT君その人であった。彼は中学時代からの悪たれ仲間で、親友である。初めて目にする友人の軍服姿であった。

 思いがけぬ場所での奇遇に、一瞬声が詰まり相手の顔を互いに見定めあった。

彼のいる位置から数メートル離れた場所に、乗り合いバスの停留場がある。先程から彼の視線が捕らえていたのは、うら若き乙女であった。その娘は電柱に背をもたせ、街灯の黄ばんだ光でほの白い雪の中に、あやしく浮き出していた。

(Tはその娘に、一目見て好きになったらしい…だが、近付く決心がつかぬ…)と、小生には察しがついた。

彼女は、桐生か伊勢崎方面にバスで帰るらしい。

T君は束の間の休暇を得て、渋川の実家に帰省する途中であった。彼女が待ち受けていたバスが一足先に来れば、その瞬間にTの夢は淡雪の如く消えて終う…だろう。

[Tを伊勢崎の自宅に伴い、彼女の行く先も一緒らしいので、なんとか口説いて誘ってやろう…]と、小生咄嗟に思い決めた。

 “男の友情ここにあり”という意気込みが…ないではなかったが、“恋を取り持つ”ことの好奇心が勃然と湧き上がったからである。

 思いあぐねていたTにとっては渡りに船で、無論異存は無かった。果たして女のほうで誘いに乗ってくれるか、そのことが心配であった。Tの不安も同じで、ありありと表情にもそれが伺えた。男は度胸と当たって砕ける覚悟で、口説くしかないと思った。世のため人のためと思うからで、これが自分のことであったらとてもそんな勇気はない。

 その時なんと言って口説いたのか思い出せぬ。よっぽど緊張していたか、無我夢中であった。が兎に角も、同意を頂いたのである。

 彼女を真ん中に挟んで三人の足は、雪の中前橋駅に向かった。汽車で伊勢崎に帰ることは小生の予定であった。この予定に合わせて二人を誘った以上、切符は自腹を切らねばならぬ。

 汽車は通勤帰りの客で込み合っていた。客席には入らず、三人はデッキで語り合った。脇役の小生はなるべく口数を控えた。主役の彼にウッシ・ウッシと目でけしかけるのだが、当の“弁天様”を目の当たりにして目が眩んだのか、彼はひどく緊張の体であった。彼が話しかけない限り、会話は途切れがちであった。これからの筋書きをどう運ぶべきか、その思案で小生の頭は一杯であった。

 三者三様の思いを秘めた若者を乗せた汽車は汽笛の余韻をのこして無心に走る。伊勢崎駅に着いたときには、幸いに雪はやみ、小康を保っていた。

 恋を語るには、映画館がよい…と思いついたので、ためらうことなく大盛館なる映画館に両人を誘った。駅から映画館までは、およそ十五分の道程である。

 今の二人は、小生の意のままに動く操り人形であった。それゆえに、好奇心から買ってでたこの役も、もはや遊び心では済まされぬものとなり、いささか自責と後悔の念にかられていた。

 うら若き女性の対応を誤ると、それこそ男の一分が立たなくなる…ので。念のため、彼女の許せる時間と、帰りの手段を聞いてみた。あらまし、 [名前はS・玲子といい、住所は尾島町。伊勢崎駅から電車に乗り、十時までに帰宅できればよい…]ということであった。尾島町は東武伊勢崎線で三十分とはかからぬ。八時頃の電車に間に合うように映画館を出ればよい…と判断した。

 お互いの胸のうちを暖める糧はあっても、胃袋まで満足させる足しにはならぬ。そろそろ食べ物を補給しなければならぬ時間であったが、小生の懐具合も底をついていた。そっと、Tから軍資金を調達し、館内の売店で菓子パンを買い求めた。ささやかな夕餉であった。

 彼女は、うすうす今日の芝居の筋書きに感づいていた。そしてその芝居が、思惑どおりはこんだものやら、冷めた娘の表情からは判断することはできなかった。

 S嬢を駅まで見送って、二人が拙宅へ帰る道すがら、Tは

 「あの娘の気持ちが…俺にはわからない、話をしていても彼女には、心に響く感情の高まりが感じられないのだ」と、これまた冷めた声で呟いた。

 Tと彼女の会話を聞くとはなしに耳にしていたので、彼の呟きが何となく腑に落ちる思い出あった。Tの語る口調はどことなく生真面目で、良く言えば礼儀正しい。裏返せば固くて、艶がない。作用と反作用の法則に従えば、彼女の返事もまた、冷静なものにならざるを得ぬのではないか。

 「一度会っただけでお互いの気持ちが通じ合うなんて…少ないんじゃないのか?もう一度でも二度でも会って話し合ってみろよ、裃をぬいでさ…」

 「うむ…。そうしてみるよ。兎に角もう一度会ってみる…。彼女がな、お前の住所も教えろと言うから、此処の住所を知らせておいた…」と言い添えた。

 その晩、Tは小生の家に泊まった。

 

      2

 

 その後、この一件がどのように落着したのか不明のまま、時は経っていた。

 そして、再び花が咲き、散った。波乱多き一年も無事息災に終え、小生も人並みに次学年に進級していた。

 T君は軍務に服し、厳しい軍律とやらにしごかれているのだろう。月日のうつろいと共にあの夜の出来ごとは、いつしか脳裡から消えていた。

 昭和十九年半ば、この頃になると、学生達も安穏な生活を貪っているわけには行かなかった。戦局は混迷し、深刻な様相を見せていた。南方に伸びきった戦線は連合軍の反撃に遭って苦戦を強いられ、曾てのような、勇ましい戦果が聞かれぬ。アメリカ軍がサイパン島に上陸したというニュースのあったその六月、学徒勤労動員法により、我々造兵科も学び舎を離れ軍需工場に挺身することが決まった。小生の配属先は東京都大田区にある日立兵器大森工場であった。

 出陣を数日後に控えた、五月末の日曜日の午後。此処の地での最後の散髪に、行き付けの理髪店にでかけた。

 蓬髪を刈り無精髭を剃り落とし、見違えるが如くに変形した己が顔を鏡に写したとき、同じ鏡の中に映る窓ガラス越にもう一つの顔が写っていた。若い女の顔で、その双眸が小生をじっと見つめていた。

 (??…あの顔は…)忘れるともなく忘れていた、あのときの、S・玲子であった。その時の驚きと、名状しがたい困惑はどう説明すべきか言葉にならぬほどであった。夢でもみているのでは?とさえ思った。

 「あそこの立っている人、あんたのお連れさんですか?、さっきからあそこで…」と、床屋の親爺さんが聞いた。

 散髪が済んで、普段の俺とは別人のような…化粧品をぬりたくられた顔で女と対面するのがなんとも面はゆく、照れ臭い。

 彼女の姿、形は二月前の印象とは、まるで違ったもので、顔の色も冴えず白々しく見えた。思いがけぬ人と意外な所での対面に

 「よく此処がわかったね?…」いささか狼狽気味に聞いた。

 「お宅にお伺いして、お母さんから此処を聞きました…悪かったかしら?」彼女は顔を赤らめ細い声で聞き返し、首をたれた。

 「それにしてもよく俺の家が分かったね?」この問いには答えず、微笑で頷くのみであった。

 この辺りは日吉町といい、街の中心に近く、駅からは大分はなれている。T君が[家の住所を教えておいた…]と言っていたが、それにしても、他所の人が他人の家を捜し当てるのは、容易な事ではない。おそらく彼女も、付近に来て何度となく聞き尋ねたにちがいあるまい。そう思うと胸が熱くなった。

 彼女には、胸の中に思い余るものがあって、たまらずに逢いにきたのであろうし、小生もあれ以後の様子が知りたいが、街中で男女の道行きでは人目も眩い。一旦家に戻り、支度を整えて、広瀬川畔に彼女を誘うことにした。

 「気にはしていたんだが、その後T君とは…交際進んでいるの?…」道々、不躾と思ったが、気に掛かっていたことを先ず聞いてみた。彼女は沈黙したまま、白い顔を横に振った。

 「まだ逢っていないのか?」

 「いいえ、一度だけ前橋の敷島公園で逢いました。でも…その時に私は自分の気持ちを正直に、あの方に申し上げました…」と、悄然と語る彼女の声は、込み上げてくる感情の昂りを必死にこらえていた。返事の仕様も無く沈黙したまま後の言葉を待った。見かけによらず、“彼女は芯の強い女”に思えた。

 河原には一面に月見草の黄色い花が咲き乱れていた。果てしなく続く広瀬川の畔道を歩みながら、彼女は能面のような顔をあげて

 「Tさんは…とても立派な方だと思います…でも、あのとき私を誘ってくださったのはTさんでなくて、貴方ょ」と、怨嗟の口調でそう言い切った彼女の目が、(だから、一緒に付いて行ったのだ…)と訴えていた。

 男の友情だとか、義侠心などと勝手な御託をならべ、若気の悪戯に等しい好奇心から乙女心を弄ぶ結果と相成っては、ここいかように弁明したところで、もはや詭弁である。何も知らぬ彼女を惑わせた罪は消えぬ。

 「とんだお節介を焼いてしまったようで…申しわけない…お詫びします」このさい男らしく頭を下げて陳謝した。

 「あのとき、汽車に乗ってから直ぐに気がついたの…あなたの気持ちが、…でも私にはどうすることもできなかった…」しみじみと彼女は囁いた。あのときのことを思い出しているように。

 「疲れたろう?…どこか座って話そう、大分歩いたから…」彼女の気分転換のために、明るく声を掛けてから、土手の草むらに腰を落とした。やや離れた位置に彼女も、しょんぼりと座った。白鷺が一羽、目の前の川面に舞い降りた。

 「俺だって、あんたが嫌いじゃなかった。があの時はああするしか仕方がなかった…友のためによかれと思ってしたことだが、その話はよそう…済んだこと仕様がない、この後のことは成り行きに任せよう…それでいいね?」Tには申し訳ないが、こと、ここに至っては彼女にはそう言わざるを得なかった。能面のように白々していた顔に血の気がさし、彼女は大きく頷いた。憑ものが落ちたように双眸に今までみせぬ輝きが蘇った。

 だが、小生の胸の内はさっぱりとは晴れぬ。友を裏切った後ろめたさが疼くのである。ふたりの饒舌と沈黙は時を忘れて続いた。

 陽が西に傾き、赤城山の嶺が茜に染まる頃には、いつの間にか、彼女はにじり寄り、肩を寄せていた。

 男と女は奇妙で摩訶不思議な生き物である。昨日まで、否、さっきまで…まるで他人であった女が、昔ながらの友人の如く肩を寄せ合っているのである。

 「男女、七才にして席を同じゅうするべからず」と、のたまわれた…孔子の教えが身に染みて理解できた。

 生々しい女体と間近に接して座ったのは小生にとって初めてのことであった。それにしても、今になって何故に突然尋ねてきたのか?

 彼女は、小生が勤労学徒として、間もなく此の土地から離れる事を知っていたからであろうか…。

 そんな気がしたのである。

 

   六 大森でのこと

 

 東京で、長期滞留生活するのは二度目である。

 一度目は、昭和十六年の夏休み、約一月間滞在して予備校に通った時のこと。今回が二度目で、勤労学徒として三年振りの上京であった。まるで、近代版参勤交代であった。

 国電大森駅を下車、南口を出て目抜き通りを南に向かうと大森海岸に出る。徒歩で数分の途中左側に、我々が配属になった日立兵器大森工場があった。多分、現在の「いすず自動車」がそれであろう。

 この目抜き通りは、品川区と大田区の境界線で、海に向かって左側が品川区大井町である。だから、大森工場は正式には大井工場なのであろう。

 我々が寝泊りする寮は、海側とは反対側の山手にあった。駅の北口をでると、国電(当時は省線)と並行して池上通りが走り、その大通りを渡ると山手に通じる石段がある。かなりの急坂を二十メートルほど登り詰めると天祖神社につき当たる。ここを左折して(当時はまだ人家もまばらであった)起伏の多い狭い道をたどると、駅から十分くらいで寮に行き着く。山王寮といって日立兵器の社員寮で、木造二階建ての建物である。これが、我々が東京で生活する拠点であった。現在、この辺はすっかり様変わりして、道路は拡張され舗装は行き届き、高級住宅が密集し、当時の面影はない。

 ―これは余談であるが―

 造兵科が動員された先は、陸軍用兵器工場である我が日立兵器と、海軍用兵器を生産する大日本兵器工場の二つであった。夫々の工場に約二十人ずつに振り分けられた。

 そこで、どういう訳があったのか、陸軍関係の日立兵器への配属は、石組のなかでも悪役とか脇役と称される連中の顔が揃っていた。

 陸軍を海軍より格落ちと判断しての作為の選考か?それならそれでよい、俺たちにも男の意地がある…と、心密かに決するものがあった。

 さて、東京にきて寮に落ちつき、第一に果たしたことといえば、彼女(S・玲子という、此処に来る直前にひょんなことで知り合った、曰く因縁のある女…)に、安着の手紙を書いたことであった。別れの際、彼女と交わした男の約束であったからである。内容は、近況報告と、当地の住所と、いろいろ…であった。

 とかく、男やもめ同士の共同生活などと言うものには、彩と潤いがなく、殺伐としたものである。が、反面、淡白で放埓な生活も結構楽しいものだ。とある日、長身痩軀の異様な紳士が山王寮に現れた。眼鏡をした干物の河童こと巳四郎師である。現地授業と称して学生と一夜を共にする現地査察である。その夕餉の折、金の食器に盛られた一膳飯をご覧になって。

 「これはひどい!…君たちはハトポッポかね?」と、頓狂な声を発し、豆だらけの飯を睨めー

 「こんな餌で君たちを働かせるつもりか!けしからん会社だ…」老師は子弟のために、いたく憤激の様子を示し賜うた。そして

 「会社側に待遇の改善を申し入れる…」とも言っていた。その後、我々の食事が良くなったかどうか記憶がない。

 空きっ腹を抱えた我々にとって質より量であった。

 彼女に手紙を書いてから数日後に返事が届いた。その文面に曰く「慰問袋を送ったこと○○日の日曜日、○○時の電車(東武伊勢崎線)にて上京するから浅草雷門駅に迎えてほしい…」などと、細々と綴ってあった。

 文章の所々に変体仮名が交じるので甚だ理解に苦しむ。慰問品の中身に(?・・)意味不明のかな文字があり、品物が届くまでその実物は不明であった。

 その謎の正体は(たばこ)であった。彼女の心づくしの煙草も相部屋の悪連共の餌食となり、忽ちのうちに煙と消えてしまった。此のときばかりは、つまらぬ男気が悔やまれた。そのことがあって、彼女との逢引のことは部屋の連中には、委細内緒にしておくことにした。

 小生の日曜日は、よく浅草六区の映画館に出かけた。そして三本立てを上映する三流館に入った。エノケンやロッパの喜劇物、阪妻や嵐寛の時代劇、その他ポールムニやギャグニーなどのギャング物など手当たりしだいに見て回ったものである。その頃見た映画は未だに忘れない。藤田進の[姿三四郎]は三回も見直したものだ。

 そもそも寮生活なるものは小生にとって初めての体験であった。集団生活には寛容と協調が肝要でであり、生来が自由奔放にして、とかく、上司の厳命に反抗的であった小生は当初、いささか不安であった。仲間と生活を共にし、日が経つにつれて、それは無用な懸念であった。

 男同士の裸の付き合いには遠慮は要らぬ。まさに[同じ釜の飯を食った仲間]なのである。野暮たい男だけの生活の中には、ふとそこはかとない感傷が漂う。

 鳩ポッポの夕食が済むと、灯下に勉強を始めるもの、一人ギターを爪弾くもの、数人が一部屋に屯して放談に花を咲かせるグループ…など夜の様々な光景が展開する。

 グループの放談は…会社内の女の子の品定めに始まり、珍談、奇談、怪談の及んで、更に猥談に発展するのである。

 放談会の主役は笛木である。彼がしたり顔で弁ずる猥談は、むしろ珍談である。他愛の無い格好の娯楽であった。

 ところで、会社内での我々の勤務は?…というと、直接生産に携わる仕事ではない。経験と熟練を要する加工技術は、学校での実習とは訳が違うのである。生産管理・工程管理の助手か補助員といったところが、精々の役どころであった。小生の配属先は驚いたことに熱処理兼検査の部屋であった。

 学校での授業では一番サボった紅露教授の金属材料に関係の深い部所なのである。紅露教授の哀れみ深い顔が脳裏に貼り着いて、その顔が言った。

 「物は考えようです…人間万事塞翁が馬…という諺があります。実務で学ぶのが一番です…」と。かくして、小生は一念発起?することにした。

 日立兵器大森工場の目玉は、陸軍が世界に誇る、九二式重機関銃である。が、我が熱処理工場には、その光輝ある重機関銃の部品が持ちこまれることはなかった。

 もっぱら、陸軍の戦闘機(隼・鐘馗)の搭載用機関砲の砲身を熱処理加工するだけであった。

 砲身の熱処理は、高温炉内で約一〇〇〇度に加熱してから、冷却液に浸けて急冷するのである。この工程を焼き入れと言って砲身は硬くなるが、逆に脆さを増す。脆くては砲身の役には立たぬ。そこで焼きの入った砲身を再び四〇〇度位に過熱してからゆっくり冷却すると強靭なものに調質できる。この工程を焼き戻しといい、この様に使用目的にかなった材質に変える操作を熱処理という。諸君ご存知かな?

 つまり、小生の仕事はこの熱処理と、その結果の検査であった。

 砲身はたえず凄まじい高温と高圧にさらされ、その上正しい弾道を描く精度が要求される。それゆえに砲身の熱処理は厄介なのである。

 高温に加熱した砲身を冷却槽に入れて急冷する場合、全体を同時に、一様に冷却することは不可能である。砲身が容積を占める物体である以上、冷却液に触れる部分に僅少ながら時間の差が生じることになる。

 この僅かな遅速のために、焼き入れ後の砲身各部の金属組織に、微妙な変化が生じる。それゆえに、砲身全体をできる限り同時に、冷却する手段を講じなければならぬ…のである。

 冷却槽は広さ二坪、深さ一メートル程の長方形の浴槽で、中に鉱物油が張ってある。

 その手段というのは、浴槽の床面より一段高くなった中二階から、この浴槽に約四十五度の傾斜角で据えられた滑り台であった。

 加熱した砲身を、滑り台上でゴロゴロ回転させながら加速をつけて浴槽に転がし込むのである。名づけて回転投入式焼き入れ法とでもいうべき単純な仕掛けであった。

 それは何とも原始的なもので、ユーモラスな光景であった。この方法がベストであるとは思えぬが、当時にあってはやむを得ぬ窮余の一策であった…としか小生には思えなかった。これが日本の軍需工場の笑えぬ現実であった。

 かくの如くして熱処理を終えた砲身も完全無欠なものではない。品質のむら、微小ではあるが砲身の歪み(湾曲)が残るのである。

 微小の歪みといえども砲身には致命的な欠陥なのである。発射された弾の弾道が曲がり標的から逸れてしまうからである。

 従って、この歪を完全に矯正してからでないと、砲として使い物にならぬ。この矯正の仕方も時代がかったユニークなものであるが、これについては次回で述べる。

 機関砲として完成品になるまで、まだまだいくつかの難関をクリアしなくてはならぬ。

 その当時のわが国の機械加工技術は、職人芸の域を出ず、合理性にかけては欧米先進国に遠く及ばぬものであった。日立兵器にあって、小生が実際に見聞し、多少なりとも兵器の生産に参加した経験を通して(時に、関係者の恥部を曝すことにもなるが)他言無用の企業秘話を、追々に語りあかさぬばならぬ。

 昭和十九年も半ばを過ぎると、人の噂にも…東京が空襲でやられるかもしれぬ…と囁かれるようになった。

 既に、日立兵器大森工場も水戸(正しくは勝田)に工場疎開が決まっていた。新設なった勝田工場は、すでに稼動していて、戦闘機搭載用機関砲の生産が行われていた。その砲身のみが大森工場で加工されていたことになる。

 大森工場の主力である九二式機関銃の生産設備も近々のうちに移転を開始し、秋の半ばには完了する計画であった。

 その八月、我々桐生勢は先発隊として勝田工場に送り込まれることになった。兵站基地要員として格好の兵卒である…と折り紙を付けられてのことか。斯くして、東京での生活は足掛け三ヶ月で終わった。

 間近に水戸への出向を控え、東京の夜の最後の思い出に残そうと思い、ある月夜の晩、相棒と連れ立って大森海岸に遊んだ。

 海岸沿いには旧東海道(国道十五号線)が築堤の上を走り、ほど近くに鈴ヶ森があった。その昔、夜ともなれば人っ子一人通らぬ、寂しい場所であったあたりである。

 岸壁には幾つかの桟橋が架けられ、その橋杭には和船や、オールのついた小船がもやってあった。貸し舟もあった。

 相棒の一人は田中であったが、他の一人は誰であったか思い出せぬ。夜の海水浴はなかなか乙なものだと…三人の思いは一緒であった。防波堤に点る灯火と、遠くチラチラする漁火に、漆黒の水面は銀波と砕け、岸壁に寄せては返す芥や、汚濁した海水の色を覆い包んでいた。漂う異臭は何とも名状しがたい。その異臭は桟橋の突端でも大同小異であった。

 やむを得ず小船を借りて堤防近くまで沖合いに出ることにした。海苔の養殖用の棒杭であろうか点々と海面に突き立っていた。船のとも綱を杭にもやった。沖合いから眺める街の灯は、値千金の景観であった。

 山手山王の夜景も目の当たりに迫ってみえる。フルキンになった大の男が、三匹の河童の如く雀躍として、繰り返し繰り返し海中に飛び込んでは泳ぐのである。

 三十分も泳がぬうちに、夜の冷気は、さすがに骨身に染みる。急ぎ引き上げる段になって意外なことに気がついた。潮が満ちていたのである。船をもやった綱の結び目が波に洗われていた。結び目は潮水を含んで、解きほどくことが出来ぬほど固く締まっていた。

 三人がかわるがわる水面に顔を突っ込んで歯で食いちぎるのだが、それこそ歯が立たぬ。万策尽きて船を捨てて、遁走することにした。

 衣類を頭にくくり付け、近くの防波堤に泳ぎつき、ほうほうの体で逃げ帰った。が、後になって、気になること頻りであった。

 どう仕様も無かったとはいえ、逃げ帰った事実に若者の良心が咎めてならぬ…のであった。翌朝、深く謝罪すべく現場に立ち戻った。

 明るい陽光に晒された海岸の風景は長閑であった。船を繋いでおいた筈の沖合いに、その舟影が見当たらぬ。無事、船主の元に戻ったな?…と思い定めて、気を晴らした。

 これが東京最後の夜の思い出である。

 

    七 夜 這 い

 

 まるで厄介者を追い出すように…東京を追われた我々桐生組を待ち受けていた勝田工場の対応は、冷ややかなものであった。

 赴着早々の頃は、それでも…

 清澄な空気と、蕭々たる松籟に包まれて、心洗われる別天地と思えたものであるが、此処(勝田)での生活も日が経つにつれて、多感な若者には遣り場のない忿懣が次第に、胸深く鬱勃して抜き差しならぬものに変わっていった。

 我々に当てがわれた寮は一般の社員寮ではなく、道路一つ隔てて向かい側にある少年寮の一角にあった。先ず第一にこのことが気にいらぬ。これは寮の良し悪しではない。新参者には違いないが「君達は正規社員に非ず…」と言わんばかりの扱いが…である。

 勤労学徒の心意気と、桐生工専の面つの問題である。

 第二の問題は、就労の条件であった。我々に与えられた仕事は新工場の機械敷設工事であった。確かに我々は東京からの祖開組であるから、引っ越しに伴う移転工事は止むを得ぬ。が然し、もとより筋肉労働を厭うような柔な我々ではないが、一トン以上もある工作機械の移動と据えつけは、危険が伴う重労働には違いあるまい。

 一番切実な問題は、給食であった。時節柄、主食の大根飯は我慢せねばならぬ。惣菜は海のものが添えられ、東京のそれよりもましであった。惜しむらくは量が足りぬ。労働に見合うカロリーの不足である。

 空きっ腹ほど切ないものはない。「食い物の恨みは怖い……」ということも、「腹が減っては戦は出来ぬ」ということも、身をもって体験した。このことを会社側と談合すべく、数名の代表が総務部に押しかけた。

 談合の相手は人事課長の土屋?という男であった。東洋人ばなれの顔をした、長身でスマートな紳士であった。○○大学出身のエリート風が身について、風采の上がらぬ田舎学生など歯牙にも掛けぬ…そんな慇懃無礼な態度であった。

 上州弁丸出しの抗弁に、スマートな紳士の表情も幾分色をなして

 「とにかく、会社としては…君達だけを特別扱いにすることは出来ません、特別な仕事につきましては早急に検討します…、今日のところは、これで引き取っていただきます」 と言う。

 この日の談合は、結局物別れに終わったが、我々の不平不満が会社側に伝わった事は確かであった。

 かくなる上は、我々としても自衛手段を講じなければなるまい…と密かに期するものがあった。

 ―やがて芋泥棒の夜這いが始まることと相成る。

 当時の勝田は、松林と薄野の原野と農耕地のなかに日立の工場群が散在し、駅の周辺に僅かに街並みがあるだけで、静かな田舎街であった。

 日立兵器勝田工場もその一つで松の林側にあった。工場に隣接した寮の周りには概ね耕地されていて、少年寮の前が、たまたまサツマ芋畑であった。

 収穫の秋にはまだ早い時季であったが、芋の蔓は十分に延び、葉は地面を覆い隠していた。芋の甘味はうすいが手頃の大きさには育っている筈である。

 (瓜田に沓を入れず…)などと気取っていられる場合ではないので、我々は芋の盗み掘りを決行することにしたのである。

 特攻隊は三々五々、適当に間隔をおいて棚を潜って畑に侵入した。落花狼藉の跡を残さぬよう、腹這いになって、手探りで根元をさぐった。手応えのある奴だけを収穫して、堀跡は念を入れて土を戻した。

 斯くして、初回の盗み掘りは成果をあげたのである。だが、こんな悪事が何時までも続く道理がない。

 一回が二回と続くと、次第に良心の呵責が無くなり、息詰まるスリルも淡くなり行動が大胆不敵となるものだ。そして、遂に自ら墓穴を掘ることになる。

 ある日のこと、密かに監視の目が張ってあった畑に数人が、例の如く侵入したものだ。

 「オーイ!見つかったぞォー!」…遠くのほうで誰かのうわずった声が闇に伝わる。皆腹這いになっているので影は見えぬが、あちこちでガサガサと、葉ずれの音が波のように揺れ動く。

 小生の近くにいた加藤の悲鳴が聞こえた。捕まったのか…加藤の奴?一瞬小生も動転した。彼は芋の蔓に足を取られて、もがき、焦っていた。ほうほうの態で棚をくぐり抜け、寮の灯と反対の方向へ脱兎の如く駆け出した。

 その夜の収穫は、無論無かった。疚しさが心にあると悪事を見咎められた刹那、その驚きは恐怖に変わる。

 一件落着したかに思えたこの事件も、意外な波紋を残していた。

 工場の正門を入ると、その右手側に総務部の建物があった。木造二階建てのモダンな建物である。その玄関に総務部従業員用のタイムレコーダーが備えてあった。なぜか我々学徒も同じ扱いで、我々専用の下駄箱もそこにあった。下駄箱の蓋には銘々の名前が貼ってあった。カードと履物とで二重に我々の行動を監視している?と、勘ぐりたくもなる。

 通勤用の履物(下駄か草履)をそこで作業用靴に履き替えて現場に入ることになっていた。

 小生が現在いる工場は第一大隊と称し、目下、東京から移転しつつある九二式機関銃の生産に当てられる建物で、鉄骨造りの広大なものであった。

 太い松の幹枝を通して、相向かいに総務部の建物が見える。小生等の行動は彼らの視界の中にあった。

 ここで、日立兵器の工場組織の概要に触れて置こう。この工場の組織は総て軍隊式であった。

 重機関銃、連射式高射砲、戦闘機搭載用機関砲…など製造兵器別に工場棟が独立していた。夫々が第一大隊、第二大隊そして第三大隊と軍隊用語で呼称されていた。

 各大隊は大隊長を工場長として、以下中隊長、小隊長、分隊長…と命令が上位下達されていた。我々は、差し詰め見習い下士官というところであった。

 重機関銃の第一大隊は、本営が未だ東京大森にあったため我々の処遇は宙に浮き、身柄は取り敢えず総務部人事課の扱いであった。そんな訳で、直接の指揮・監督は人事課が握っていた。

 当工場の平面図と機械配置の明細図が渡されていたので、その図面通りに、指定の機械を所定の位置に運搬して据えつければよかった。重い機械の移動はコロをかい、テコを使っての原始的な方法であったから、夏場にはバテる労働であった。

 そんなある日、相棒の加藤が体調を崩してしまった。鬼の霍乱ではあるまいが、生きのいい彼に微熱が続いた。肋膜の疑いがある…ということで一時帰省することになった。

 それから数日がたって、うだるような残暑で、開けっぱなしの窓から流れこむ風も、徒に温風器の役にしかたたぬ、そんなある日…。

 ねじり鉢巻で、諸肌になって、くだんの作業をしているところへ、当時には派手にさえ映るスカート姿の女が、機械と機械の間をすり抜けるようにして遺ってきた。

 人事課の女の子である。電話の効かぬ現場であったから、業務連絡と称して時々現れるので、名前は判らぬが顔見知りの人であった。

 油と汗にまみれて、薄汚い髭面の男の半裸体を見て、最初、凝然たる体の彼女であったが、この頃では臆面もなく平気な顔で笑っているのだが…今の彼女にはそれがない。こちらの手が空くのを待って

 「夕方、仕事の帰りに、ちょっと人事課に寄って貰いたいそうです…あなたに」と彼女は、済まなそうに言う。

 「俺一人でかね?」

 「そうらしいわ…」彼女の発音にはこの土地特有の訛がなく、東京弁であった。

 「俺になにか…お説教があるのかなぁ…」この髭の男の上州弁は、些か、ぶっきら棒である。初対面の相手には抵抗があるらしい。彼女もそうであった。

 「さァー…どうかしら」彼女は一瞬ためらって、戸惑いがちな顔で言う。

 例の芋盗掘の事件以来、桐生勢の受けはあまり良くない。そのことで…俺一人が呼び出しを受ける筈がないが…と怪訝に思いつつ、兎も角帰り支度をして人事課にたち寄った。

 待っていたのは、くだんの紳士こと土屋課長であった。やや離れてその横の机に彼女が神妙にひかえていた。

「加藤君のことですがね…精密検査の結果、当分家で静養することになりました。今日その診断書が送られてきました。あなた方に伝えて欲しい…ということです」と、端正な紳士の顔は無表情に、淡々と事実のみを告げてから

「話は変わりますが…実は、寮の賄い婦から苦情がありまして、あなた方の食事の世話をするのが恐ろしいと言うのです。その中にオギハラとかオニハラと云う名前があったものですから、一応あなたの言い分も伺いたいと思いまして…」と、意外な訊問であった。

年の頃、二十四か五の丸ぽちゃで可愛い顔かたちではあるが、きかな気の伝法な女の顔が目に浮かんだ。

「オニハラさんは大嫌い!」柳眉を逆立てて、血の上がった顔をふくらませて睨んだ賄い婦の顔が…。

実のところ小生も、些か、彼女の…俺に対する異常な敵意?…を持て余していた。

鐘馗の異名をもった髭面の男に、例の上州でー食事のことでー文句を付けられたとしたら、彼女ならずとも憤激して当然である。

「何時のことだったか、食事のことで彼女に談判したことがありまして…つい、売り言葉に買い言葉で、言わずもがなのことまで言って、後味の悪い思いをしたことがありました。…彼女たちではどうにもならぬことを…」

 紳士は憮然として頷いた。先日、給食の件で彼と談判したことにも、芋の盗掘のことにも関わって来るので、小生はそれ以上の弁解はやめた。

 そして翌日。いつもの如く出勤のタイムカードのチンを鳴らし、下駄箱の蓋を開けた。何やら新聞紙でくるんだ包みが、作業靴の上に置いてあった。包みの中身はふかしたサツマ芋三本であった。それと一緒にS・Kと書いた紙片があった。差し入れた本人の頭文字に違いない。すぐに思い浮かんだのは人事課のスカート嬢の顔である。

 それ以外に考え様もなかった。がその時には未だ彼女の名前は知らなかった。その日は、差し入れ人の詮索は控え、その厚意に感謝しつつ仲間と分けあって食べた。

 その翌日も、昨日と同じ包みが置いてあったが紙片はなかった。ここに至って

 「衣食足りて栄辱をしる…」の理を翻然と悟る…思いがした。飼い犬の如く駄食を食っては、男の一分が立たぬ。

 世知辛い昨今のこと、彼女の精神的、経済的な負担は並みのものではなかろう。是非、彼女に逢って、感謝の心を伝え、これ以上の差し入れは固く遠慮せねばならぬ…と思い極めた。

 毎日の如く、現場に現れていた彼女も、ここ、二、三日姿を見せぬ。

 タイムカードの指し込み板から、彼女の名前を発見することは容易であった。S・Kに該当するのは川上節子だけであった。

   明日、退社時刻に正門にてあなたを待つ、都合悪き時は、此処に返事を置かれたし。

   是非にもお会いしたきことあれば…

     川上節子 様   髭の男より

 と書いたメモを封筒に収めて、その日の退社の帰りがけ、靴と共に下駄箱に置いた。

 明日も多分彼女が小生の下駄箱を開けることを期待してのことであったが…。そして、その翌日、期待していたように差し入れの包みが置いてあり、封筒が消えていた。本日の差し入れのメニューはあまい蒸しパンであった。

 さて、明日はいかなることに相成ることやら…。

 

    八 寮の女たち

 

 九月一杯で小生達の重労働は終わった。

 第一大隊(重機関銃部)工場が完成したという意味では無く、「お前たちの用が無くなった」という訳である。

 九二式重機関銃は優れた芸術品の域に達していて、改良の余地は全く無かった。質・量共現状を維持すれば十分の思われた。

 桐生勢は分散して、第二大隊、第三大隊へ配置転換されることになった。

 小生は第三大隊(搭載用機関砲)に配置が決まり、その第三中隊び編入された。もとの古巣に戻った訳である。

 第三大隊工場は、総務部の建物から一番遠い工場棟で二百米ぐらい離れていた。川上嬢との距離もそれだけ遠くなってしまった。これまでのように、気安く彼女と顔を合わせることもあるまい。

 我々第三中隊の仕事は、言わば、機関砲の最終の工程で、完成組立、検査・試射などの作業であった。

 此処へ配属が決まった当初の一週間位は、工場全般についての概要を把握することと、作業工程(流れ)を理解するための見学に当てられた。

 見学を通して、強烈で一番印象に残り、いまだに消えぬ思い出は…砲身の焼き入れによって生じるヒズミ(湾曲)の矯正法であった。

 その作業場は十坪程のもので、完全な地下壕にあった。部屋の一角には機関砲の砲身が山積になっていた。大森工場で加工した製品かもしれぬ。

 砲身の矯正法というのがまた、時代がかったユニークな方法であった。その実演光景を覗いてみよう…

 職工というべきか職人というべきか、作業者はたった二人である。その一人は四十がらみで、八の字髭を張り、手元と称される男で座椅子に威厳を保ち端座している。他の男は相方と呼ばれ三十前後の屈強な男で、四キロ程の大ハンマーを両腕に構えている。二人の真ん中に金敷が据えてある。まるで刀鍛治の神聖な工房であった。

 望遠鏡で星を覗くように、手元が砲口の一端に目を当て筒を通して一点の光源を覗くと入射光線の屈折の具合で湾曲の度合いが分かるという。

 相方が大ハンマーで砲身を叩き、曲がりを矯正するのである。手元と相方の“あうん”の呼吸がぴったり合って、なし得る手練の技である。まさに神業である。八の字髭の手元のことを、工場の人達は“神様”と呼び敬っていた。

 この神様が居らなくなったら一体、この工場はどうなってしまうのか…ふと、そんな心配やら不安が脳裏を掠めた。神様の一日の仕事は、砲筒覗き五十丁、実働は二時間そこそこである。しかも、出社と退社は社専用車での送迎で役員並みである。嘘のような本当の話が、我が近代兵器工場に実在していたのである。

 万一に備え、社を挙げて科学的な矯正装置の早期開発に必死であったが…ついに完成することもなく、艦砲射撃の洗礼を受けて…工場もろともふっ飛んでしまった。

 日立兵器で現在生産している、戦闘機搭載用機関砲(ブローニング式)が実用化されたのは極最近のことである。

 従って、その生産技術がまだ完熟していなかったことは事実であり、当時の我が国の低い工業技術に合わせて試行錯誤の時であったから、止むを得ぬ現状なのかもしれぬ。

 今我々が生産中の戦闘機搭載用機関砲の原型は、紛れもなくアメリカ製のブローニング砲である。彼我の空中戦で撃墜した時の戦利品をコピーしたものである。だから外観、構造は双子の兄弟といってもよいほど似ている。

 だが、決定的な両者の違いは、加工技術の差である。本物(アメリカ製)は一見、鎌倉一刀彫の如く粗く、鋭い。贋作(日本製)は京人形の如く、職人の芸が加わり雅やかである。もう一つの決定的な違いは(実は、此のことが日本製品の致命的な欠陥として、悔いを末代に残す事になるのだが)日本人的発想で、極重要部品に特殊加工を加えたことであった。未だ単純に模倣だけの方が始末がよかったのである。

 今だからこそ…軍事評論家のようなことが言えるのだが…当時学生の分際であった者にそのような冷静な分別がつく筈はなく、ひたすら、国策を奉じ、与えられた仕事を遂行するのみであった。

 話がそれるが…今この原稿を書いているのは、昭和の元号も変わり平成三年である。あれから既に五十有余年の年月が流れた。そして今、中東沿岸紛争がイラクが惨敗し、アメリカ軍側の完勝で終わった。

 狂信的とさえ思えたイラク側の聖戦は一瞬にして壊滅してしまった。まさに、五十年前に日本帝国が唱えた「聖戦」が重なり合って感慨無量である。

 この頃、遠く南方に転戦していた日本陸海軍は次々に敗退したり、全滅していた。アメリカ軍を主力とする連合軍は指呼の間に日本本土を望み包囲網を敷いていた。わが航空隊が台湾沖の最後の決戦に敗北すると、いよいよアメリカ空軍のB29による本土空襲が開始された。既に日本にとっての和睦のチャンスはなく、徹底抗戦あるのみであった。

 軍上層部から国民にとばされる檄は…

 「敵を引きつけてから叩く。本土決戦は我に利あり、全国民は竹槍を持って、鬼畜米兵と戦え!神国日本は不滅である!」と。

 我が日立兵器、第三大隊も軍部の必死の檄に恭順するかの如く、ひたすら欠陥砲の生産にこれ務めた。

 ―寮の生活もこの頃では大分様変わりしていた…

 目に見えての待遇が改善されたわけではなく、大根飯の質も量も変わりがないが…お互いの雰囲気にわだかまりが消えていた。諸事に立ち回りが上手になったのであろう。

 そういえば例の一件以来、敵のようにいがみ合い犬猿の仲だった、賄い婦との和解がなり、いつの間にか垣根が取り払われていた。気が強く伝法な賄い嬢も、この頃顔が合うとチョロリ赤い舌を出して笑うようになった。

 いつであったか、仕事を終えて寮に戻り調理場のまえを通りすがると、透かしガラスの半窓をわざわざ開けて、丸ぽちゃの彼女が顔を覗かせて

 「オニハラさんーちょっと!」と、声を掛けてよこし悪戯ぽくにっと笑った。

 「俺のことか?いまさらオニハラさんはなかろーぜ…」髭の男は苦笑する。

 「だって、オニハラさんって他にいるのけ?」

 「まあ、いいや…で何か用かい?オフクさん」

 「オフクさんて、あたしのことけ?」彼女は怪訝な顔で聞く。

 「福の神のオフクさん…さ、いい名前だろう?」と。以来彼女をそうよんだ。

 「ふふふ…まあいいわ…。今夜のおかずはこれよ…」笑いながらそう言って、靴べらのような変てこな形をした大きな貝を、目の前に突き出して見せた。そして

 「これ紅貝…、珍しい貝だろう…」と言って、ニヤニヤ笑う。

 「そんなうすっ気味の悪い奴が食えるのか?」それは丸で貝の化け物であった。

 「これは…貝の王様で、とってもうまいンだから…」と、何食わぬ顔の彼女。

 「へぇーそんなもんがねぇー、どんな味がするもんかなぁ…」

 「男には…ついていない物の形をしていて、女の味がするから…夕飯を楽しみにしているといい…」といい、彼女はあっけらかんと笑って顔を引っ込めた。

 

 サツマ芋の盗掘が発覚して以来、我々は時々近くの漁村に魚の買出しに出掛けた。空腹を満たすためである。買出しは代チン(代理人がタイムカードを捺すこと)をし合って何人かずつ交代で出掛けた。

 魚は主に鰯であったが、新鮮で安く、いくらでも手にはいった。如何に新鮮な鰯でも生で喰うわけには参らぬ。我々にできる料理といえばさしずめ、海賊版鉄板焼き位である。

 火鉢は寮の備えつけのもの、鉄板は工場から手に入れたもの、そして燃料は部屋にあり椅子であった。焚きつけにはノートや本であった。お陰で小生などは教科書を最小限に残して、総て紙の類は灰と煙にしてしまった。故に各部屋とも真ん中に裸の机があるだけで殺風景なものであった。男やもめに蛆が湧く…というがこれ程風通しがよいと蛆も湧かぬ。

 だが、しぶとい奴が南京虫である。昼間は何処かに隠れ潜んでいて、夜になって消灯に及ぶと彼らのゲリラ攻撃が始まるのである。これが寮生活一番の難敵であった。

 南京虫の襲撃を効果的に防ぐのが、残された机である。つまり、部屋の中央に皆の机を寄せ並べ、その上にふとんを敷いて寝るのである。四本足の腰高机の上までは、流石に連中もよじ登れぬらしい。

 小生の部屋に、滝口という寝相の悪い男がいた。真ん中に寝せると人の腹や腰をやたらと蹴飛ばすので、彼の寝床の指定席は常に外側であった。だから彼は必ず寝台から落下することになる。ニュートンの法則だから仕方がない。落差は二尺余りである。

 初めの頃は、その地震に驚いて隣部屋の連中が飛び起きた程だ。当の本人は、落下したまま朝まで気が付かぬのか、そのままである。人騒がせな男であった。

 

 寮に付属して寮母が住み暮らしていた部屋があった。寮母は五十がらみの眼鏡を掛けた小柄なおばさんであった。寮母には章子という娘があって二人暮らしであった。

 おばさんと娘の姓が違うので、当初、別々に二人の寮母が居るのかと思っていた。二人の苗字は何といったか思い出せぬ。その娘は一旦は嫁にいき、今は独身の身で母親と同居しているらしかった。

 笛木の言によれば「章ちゃんの元旦那は軍人だ」という。笛木の奴「章チャン…」などと親しげな呼び方をした。

 元軍人?…という事は、彼女の主人は亡くなったか戦死した?ことになる。すると彼女は、うら若き未亡人ということに相成る。

 笛木の奴、俺に内緒で既に未亡人?の許に入りこんでいた…ことになる。

 「彼女はネ俺にどうも気があるらしい…ふふふ…」彼の語り口調は風貌に似合わず柔和である。栃木弁特有の尻上がりの語尾に付く「…ネ」に愛嬌があった。

 「俺もネ…彼女のようなタイプが好みなんでネ…交際しようとおもっている」と、押しの強い彼はぬけぬけと宣言したものである。

 寮母の母娘は揃って花札や麻雀などの賭事が好きであった。小生には笛木の如く、女だけの館に一人で忍びこむ程のずうずうしさも、勇気もない。小生が寮母の部屋に入ったのは、麻雀の当て馬に、笛木に誘われたのが初めてであった。以来、毎晩のように当て馬が続いた。俺と麻雀の長い付き合いは、此の時に始まる。

 笛木の、章ちゃんへの入れ込みようは、傍目にも可なりなものであった。彼の情熱に対して、彼女がどう反応していくのか、完熟した女体の演技がどんなものか、興味津々であった。

 果たして彼女が、まことの未亡人なのか、未だ帰らぬ夫を待ち侘びる人妻なのか…その辺りの事情は、彼女の口から明かさぬ限り知るべくもない。が笛木は彼女の胸のうちを承知していた…のではあるまいか。

 彼女の行動が、空閨の佗しさを紛らわす火遊びであるならば大胆不敵な妖精である。彼女の年は不明であった。が少なくとも我々より年上であることに間違い無い。

 ウェーブのかかった黒髪を肩まで垂らし、浅黒い顔に造作の大きい目鼻がコケティシュに並んでいた。女豹のような黒目がちな双眸には、男心を引き付ける淫靡な光があった。

 当初、小生は本能的に彼女の目を避けた。生得、不倫の恋を嫌悪する潔癖症がそうさせた…のであろう。所詮この世は、男と女のもつれあいである。やがて仁王と、女と、鐘馗の可笑しな関係が続くのである。

 よそ事ながら、笛木は今の愛妻との間に生まれた長女に「章子」と命名した。あきれた話はこの辺で終わりにしておこう…。

 

    九 乱闘事件始末記

 

      1 乱   闘

 

 十月も半ば、朝夕はめっきりと涼しくなった。秋の陽は釣瓶落としである。ひと頃にくらべ日の暮れと共に宵闇の訪れが早い。

 残業を終えて寮に戻る頃には、厨房に灯りが点り、夕餉の匂いが漂い空腹に応える。

 そんなある日、夕食が済むと、早々に社員寮の風呂に出掛けた。なぜか風呂だけは正規社員並みであった。そのため入浴には、道路を隔てて相向かいにある社員寮にまで足を運ばねばならぬ。

 少年寮にも当然風呂はあり、それを使用しても差し支えないわけだが、わざわざ社員寮まで出向くのは、細やかな抵抗を示す為であった。

 浴場は公衆風呂並みに広く、十人位は楽に浸かれる浴槽が浴場の中央に据えてあり、タイル張りでなかなか瀟洒なものであった。脱衣場は娯楽室も兼ねていて、卓球台が置いてあった。

 幸いにも初風呂らしく、一緒に来た安宅義雄と二人だけであった。安宅は頭に手拭を捩り鉢巻き、小生は頭に載せて浴槽の中に長々と肢体を泳がせ…

     “花摘む野辺に…陽が落ちて、みんなで肩を組みながら、

        歌を唄った…帰り道、幼なじみのあの友、この友、…アア…たれか“

と、口ずさみながら、浴室にくぐもる己の歌声に陶酔していた。

 このとき、浴室のドアーが開き三人の裸の男が勢いよく風呂場に入ってきた。三人とも見慣れぬ顔の若い社員であった。

 先客の二人を湯煙の中に発見して、男達の顔が急に険しくなった…ように見えた。その中の一人が、生地のままの姿で、突っ立ったまま見下ろして…

 「お前らー桐生の学生だな?…」と、不快な表情と声を募らせ偉そうに浴びせてきた。「お前らとは何だ!」以外に素早い反応で安宅が遣り返し

 「だったら、どうしたというんだえ?」血の気では人後に落ちぬ彼は、ぬっくと立ち上がる。

 「学生のくせに…貴様等の態度はデカすぎる」彼らは明らかに喧嘩ごしの、憤然たる面持ちである。

 「べつに大きな態度をしているつもりはないぜ…そー見えるなら、あんたがたのひが目だ…」小生も、些か腹に据え兼ねて言いかえす。三人は風呂に入ろうともせず、肩を怒らせて、

 「出ろ!」と、一言断定的に言い残して脱衣場に消えた。どうやら雲行きが怪しくなってきた。一雨来そうな気配であった。

 日頃から桐生勢を「おもしからぬ奴等」と思っていた社員寮の若い連中にとっては喧嘩を吹っかける絶好のチャンスであったようだ。

 「恐らく只では済むまいが、二人だけじゃ袋叩きになる…何とかして仲間を呼ばねばなるまいな…」二人が風呂から上がり、下着を付けながら話し合っていると、早くも数人の奴等がドヤドヤと、算をなして乱入してきた。

 二人の支度が出来上がるのも待ち切れず…二人を取り囲み、物も言わずに襲いかかってきた。

 安宅は三人の者に手の自由を奪われ、壁際に捺しつけられた。先ほどの裸の一人がいきなり、安宅の顔面に一撃を加えた。彼の鼻か、口か血が流れた。

 小生も二人に組み付かれ、横面を張られたうえ卓球台の上に押し倒されてしまった。それでも小生は足の自由が利いたので、都合よく前にいた男の股間を蹴った。相手の怯む隙を衝いて、思い切り台から転げ落ち、咄嗟に風呂場の出口に向かって転がった。

 「卑怯だぞ…てめーら!」大声で怒鳴りながら戸外に逃げた。そして…

 「てめーら、それでも男か!社員が聞いて呆れらァー今、仲間を呼んでくるから、手ぐすね引いて待ってろィ!」捨て台詞を残して素足のまま駆け出した。一刻も早く安宅を救出せねばならぬ。急を聞いた仲間は俄然色めき立つ。

 “喧嘩とくれば飯より好きだ”と豪語する笛木が真っ先に飛び出した。桐生総勢十余名が手に手に、厨房の軒下につんであった薪ほだを掴んでそれに続く。安宅は人質に取られたままである。

 忽ちに起こる剣劇の響きは…社員寮風呂場の乱闘であった。笛木はまさに仁王立ち、赤い顔を一段と紅潮させ、獅子奮迅の立ち回りであった。

 ようやく、敵の手から脱した安宅も、にっくき敵とばかり、蒼白した顔に眉を逆立て相手の顔面に拳を振り上げていた。しかし此処は四面楚歌、敵の陣地内である。いかにせん敵は数において我に勝り、幾らでも新手が群がる。戦闘が長引けば我が軍の不利は必定であった。

 戦場は室内から戸外に移り、棍棒を揮っての乱戦になった。時の氏神、社員寮の良識ある幹部の仲裁が入り、乱闘は収まった。

 両軍ともかなりの怪我人を出した。小生も頭、肩などに軽症を負った。

 衆寡敵せず…もともと勝ち目のない無謀な喧嘩であった。負けてもともと、売られた喧嘩でもあるし「空馬に怪我なし」の例えで、我々学生側は「一件落着」で済ませるが、社員側には大きな精神的痛手が残った筈である。学生相手に喧嘩して、勝ったところで自慢にもならず己の愚を社内に曝すだけである。

 その翌日、我々は全員がいつもの通り出勤した。白い繃帯を頭に巻いた者もいたが、凱旋兵士のごとくすこぶる意気軒昂であった。

 職場のあちこちに、繃帯の頭があった。その中に隊長級の肩書きを持つ中堅社員の顔もあった。台風一過して心のわだかまりを洗い流した如く、彼らの我々を見る目には、以外に敵意が感じられなかった。昨日の敵は今日の友…そんな気持ちが有無相通じたのかもしれぬ。

 この件を含めて、桐生勢のたび重なる愚行に、会社側としてもこれ以上黙視できなくなった…のであろう。

 事件後間もなく、僅か三ヶ月の月日であったが波乱万丈の生活を過ごした少年寮から追放されることと相成った。

 

    2 そ の 後

 

 乱闘事件のあった日から、二日後の朝のことである。

 会社に出勤して例の如くタイムカードを推して、靴を履き代えるため下駄箱の蓋を開けた。作業靴の上に女用の便箋にしたためた一通のメモが置いてあった。それに曰く…

    「お髭様 今日の夕方、お目にかかり、お話し申し上げたいことがあります…

     退社時に正門前にお出下さい。是非とも   S子より」

 女文にしては些か切り口上とも思える川上嬢の呼び出し状であった。乱闘事件直後のことであるから、まさか、逢引の為の誘いとも思えぬ。只ならぬ予感が胸によどむ。

 桐生勢の度重なる乱行・愚行に、業を煮やした会社側の密命を携えてのことか、或いは会社側の思惑を彼女なりに斟酌して、親心からの忠告なのか…いずれかに違いない。

 そのいずれにせよ、彼女とはこれが二度目のデートである。

 約束の時間に指定された正門に出向くと、どこかで待っていたように彼女の姿が現れ、急ぎ足で近付いて来た。まだ退社する人影は、少なく疎らであった。彼女にはいつもの明るい微笑はなく、気のせいか固く、冴えない顔色であった。

 工場の正門を出ると西に向かって広い道路が延びて、徒歩五分ぐらいで勝田駅に突き当たる。彼女が何時も通勤に往復している道である。

 またその門前から東と北に向かって延びる二筋の分岐路があり、いずれも昔ながらの農道か馬入れ道であった。

 彼女はこの辺りの地理事情を心得ているらしく、ためらはずに、東に向かう小道へ足を向けた。駅とは反対の道である。

 「帰りの汽車の時間は?…」間に合うのか、些か気になって聞いてみた。

 「遠回りになるけど、次の汽車には十分間に合うから大丈夫…その代わり駅まで送ってね?」彼女の固い表情が初めてほぐれた。

 「いいとも…、ところで今日の呼び出しは社用かね?」気になることは早く済まして置くほうがよいと思ったので、そう切り出してみた。

 「そうかもしれないわね…でなければ堂々と男の人を呼び出せんもの…、だけど今日のことは会社には内緒よ…」

 「なんだか意味深長なんだなァー、で用というのは?」

 「気になる?あんたでも…」

 「いや、別に俺はどうということはない。ただ…あんたの気持ちがナヘンにあるのか、それが気になるんだな…」

 「あたしの気持ちって…どういうこと?」怪訝そうな顔を向けて言う。

 「つまりだね、会社側の使者なのか…それとも、こちら側の味方なのかということさ」歩きながら、彼女はしばらく考えていたが…やおら、顔を上げて

 「両方よ…貴方々は変なことばかりしているんですもの…あたし心配だわ」

 「あの喧嘩は売られたもので…しょうがない、それに色々とあったから、会社としても荷厄介な連中で手を焼いているんだろうな?」…彼女は、明らかに肯定の色を隠さずに頷いた。

 「あたしの所では、何時も多賀工専と比較されるの…桐生は。特に貴方の批評は良くないわ…呆れてしまうわ」

 「俺も、我ながら呆れている…」と、苦笑すると彼女もつられて笑った。

 「喧嘩のことは、相手も悪いんですから、しょうがないとして…他にもいろいろと…」

 「まことに汗顔の至りで…申しわけない…」

 「あたしに謝ったってしょうがないわ、ふふ…。貴方達の部屋の下は調理室なんですってね?…その調理室の天井から、汚い水を流す悪戯をしたこと本当なの?寮長さんがカンカンになっていたわ…」

 「??…」彼女の口から意外なことを耳にするものだと、驚いた。確かにそう言われれば、一月くらい前のことだが寮長がえらい剣幕で

 「誰だ!調理室に水を落とした奴は!悪戯にも程がある…まさか小便ではあるまいな?この始末はきっと着けてやる。!」と、怒鳴り込んだことがあった。それは、鰯を鉄板焼にして食った時の話である。

 底の浅い火鉢に、分解した椅子をまきにして燃やした際、火鉢の底が焼き抜けて畳に火が燃え移ってしまったことがあった。気が付くのが遅れ、アワヤという事態となり、居合わせた一同大いに動転し、慌ててバケツの水をぶちまけた。危うく畳の火事は消し止めたが畳を漏れた水が下に落ちた…これが真相なのである。

 故意の悪戯ではない旨を説明し寮長に陳謝したはずである。異様な部屋の気配に不承無承ながら寮長も了解してくれたものと思っていた。しかし、事の一部始終が会社に筒抜けていたことになる。

 「あたしが心配なのは、喧嘩のあった翌日…貴方の嫌いな課長さんが、貴方の行動は目に余るので、実情を軍部に連絡して善処する…とか、したとか言っているのよ…」

 彼女の顔は、他人事ではない…という真剣なものに思えた。そんな彼女の心情がたまらなく嬉しかった。が、そう思う気持ちとは裏腹に

 「軍隊だって処分に困るだろう?…せいぜい幹部候補生の資格剥奪して戦地に追い払うのが関の山だ。いまさら心配したってしょうがない、因果応報だから…」などとカッコいいことを言ったかどうか。二人はそんなことを語りつつ、ゆっくりした足取りで小径をあゆんだ。

 勝田と長堀の境に幅三間程の小川がある。欄干の無い土橋を渡ると、葦や薄の原野がきれて、小径は緩やかな段丘の松林に続く。その林を抜けると広い空間が切り開かれ、造成された住宅団地があった。日立系工場の社宅群である。ここは長堀地区の中心部で、此処には日立兵器の青年寮と女子寮があった。彼女はそれとなく、近々我々が移り住むことになっている青年寮に案内したかったのであろう。

 「あたしも女子寮に入るかも知れない…」と呟くように言う。

 「俺たちの目付役にかね?」

 「ふふふ……その時はそうなるかも知れないわね。野獣の目付役では食い殺されてしまうわ…」大袈裟な表情で笑い…「冬の汽車通勤はた大変なの。だから日の短い間だけでも寮から通いたいと思っているの…」と、思案顔で言う。

 その乙女の殿堂は男子寮から二百米ほど離れて、静かな松林の丘陵の中腹にあった。

 「美女と野獣の物語ができそうだね…」

 「蟷螂(かまきり)の雌は雄を食べ殺すいう話もあるわ…」

 東京YWCA(クリスチャン系の女子学校)出身の彼女には茨城弁の訛がなく、歯切れが良い。彼女の言動は理性と感能が綾をなして、時々男心を挑発する。だから彼女との道行きは退屈しない。

 工場から長堀を経て勝田駅までの道程は、普通に歩いて二十分の距離である。話しながらのそぞろ歩きだから、小一時間ほどの道行きであった。駅で彼女と別れた。

 

    十 試射の日は雪だった

 

      1

 

 小生が所属していた第三大隊の第三中隊の仕事は、搭載用機関砲の最終工程であった。つまり、砲の仕上げ組み立てと、試験射撃(試射)である。因に、第一中隊は、部品の製造、第二中隊は部品の中間組み立てであった。

 それぞれの中隊は、仕切りの無い広大な工場棟に、西から順序よく第一、第二そして第三中隊と配置され、概ね、部品は順序よく組立てられながら砲が完成するようなラインになっていた。

 第三中隊は二個小隊の編成であった。小隊は、さらに末端組織である五個の分隊に細分化され、一分隊は約十人の隊員(工員)であった。したがって一つの小隊員数は約五十名、中隊全体では、約百名ということになる。

 小生は、第一小隊付きで、これといった定職は無く、分隊の補完要員といういとも不得要領の、盲腸の如き役柄であった。

 我が中隊には第一中隊、第二中隊で使用している工作機械類が無く、作業台に万力と定盤、その他ヤスリ、ハンマなどの手工具が主役であった。機械加工そのままのアメリカ製品と違い、当時の日本では、ヤスリなどによる手仕上げが主流であった。

 従って、五十人の隊員が一門ずつ砲を仕上げるとすれば、人により上手下手、熟練度の違いによって、その仕上がりの状態、精度がそれぞれ違うことになる。

 一秒間に約五十発の弾を連続発射させる機関砲の仕組みは複雑であり、かつ重要な装置なのである。この重要装置を、人間が、ヤスリを掛けて仕上げるのだから、外見は見ばえは良いが、精度が低く、品質たるやばらばらで、まさに十人十色であった。

 しかも、熟練した隊員でも、一人が一門の機関砲を組み立て、調整を完了するには二日はかかる。非生産的であることこの上無い。

人海戦術という言葉は当時の流行語である。

 専門技術や学識者の話を総合すると、日本の工業生産力は、アメリカのそれの十五分の一か、或いは二十分の一であるという。我が日立兵器の現実の姿を目の当たりにしては確かにその通りかも知れぬ。肌寒い思いである。

 さて、小隊ごとに五十門の砲が完成すると、いよいよ実弾を試射によって合否の判定である。小生も実弾を使っての試射に立ち会う事になった。直接自分の手で砲の引き金を引き、その緊迫したスリルは体験できなくも、空中戦もどきの光景を想像するだけでも胸が締まる…思いであった。

 時は冬の一月半ば、試射場は阿字ヶ浦海岸であった。折あしく、雪のそぼ降る底冷えのする日であった。

 砲の合格数の多寡が分隊の名誉に関わると同時に、個人の勤務考課となり、ひいては特別手当に響く…問題なのである。各分隊は昨晩、遅くまで残業して入念に手を掛けた。そして今日に備えたのである。

 砲は木箱に梱包されトラックに詰まれる。分隊長と各分隊から代表一名ずつ、計十名の隊員が木箱と一緒に、吹きっさらしの車台に乗せられて、目的地まで運ばれるのである。

 小生も彼等の間に挟まって蹲った。隊員は口数も少なく、寒さと緊張のためか、顔がこわ張っていた。

 運転台には軍派遣の技術将校が乗りこみ、八時過ぎには正門を出発した。技術将校は若い温厚な少尉であった。

 工場から試射場までは十キロたらずの道程であったが、凹凸の多いバラス道であった。隊員達は砲と箱と共に、車の上で踊った。

 「オーィ!砲の調子が狂っちゃうぞ!もうすこし静かにやれぇー…」隊員の一人が、運転手に聞こえよがしに叫んだ。

 九時前に実弾射撃の現場に着いた。空一面に鉛色の雲が垂れこめ水平線は見えぬ。黒ずんだ波が白い雪を、ひたすら音もなく吸い取っていく。射撃場は切りこんだ湾の奥まった位置にあり、後ろ三方は切り立った崖である。崖縁には庇のように松の枝が、きわどい姿でせり出していた。

 裏山は深い松林になっていて、人の接近を防ぐためか、そこかしこに歩哨線が張られているのであろう。

 射撃場は百坪たらずの狭い砂浜である。裏の崖が屏風代わりになっていて、風の侵入を防ぎ、凍てつく寒さを防いでくれる。崖下にテントが三張り張ってある。その中に作業台が五つ、六つ置いてあり、木箱から取り出した機関砲が、行儀よく、まるでマグロのように並べられる。

 砲架脚が二脚、砂浜の中央辺りに据えてある。その両脇に薬莢帯を詰めた箱がある。一本の薬莢帯には五十発の弾が、数珠状に連結してある。

 いよいよ、試射の準備が整ったようである。順番は毎回同じではない。最後の試射が終了するのがいつも暗くなってしまうからである。今日は都合よく、一分隊からであった。

 「ご苦労さまです…、今日はあいにくの天気で、大変だと思いますが…全数の合格を軍としても願っています、ではこれから、実射テストを開始します」

 仲間意識があるのか、技術屋将校の挨拶は慇懃であった。若い兵科の将校なら胸を張り天に向かって吠えるにちがいない。先ず、一番手と二番手の砲が海面に向かって、水平に砲架に装着される。この場合は仰角を付けぬ。正確な発射の確認と実効距離(空中戦の時確実に相手飛行機に命中する距離)が確認出来れば良いのである。勿論一般航路の安全を念頭に置いての配慮でもあった。

 薬莢帯が砲の横腹の装填口に差し込まれ、安全装置が外されて準備完了。

 「五発…発射!」凛と響く声で、若い将校の号令がかかる。間発を入れず

 「ダッダッダッダッダッ」五発目の曳光弾が白煙を曳いて飛び去った。成功である。

 「十五発…発射!」再び、間発をいれず

 「ダッダッダッダッダッ・・・」三発の曳光弾が白煙を残し、十五発の弾が水平に飛び去り、これも成功。残り三十発が無事に発射出来れば、無条件で合格である。全ての隊員が、固唾を呑んで見守る。

 「残り三十発連続発射!」号令をかき消すかの如く、「ダッダッダッダッダッ・ダッダッダッ・・・」甲高い叫喚が辺りの静寂を切り裂く。薬莢帯が小気味よく砲身に送りこまれ三十発の弾が、数秒で射撃が完了したのである。幸先の良い成功に、思わず隊員の喚声が湧き上がる。重苦しい現場の空気が心なしか和む。

 無欠に近い状態の砲の試射は、ほんの二、三分で完了してしまうのである。

 

      2

 

 たまたま、今日の初回の試射は思いがけぬ、成功であった。然しこれが毎回の例では無いのである。むしろ僥倖というべきであろう。

 五十発、淀み無く連発できるのは、当日持ちこんだ五十門の中の、五、六門で、成績の良いときで十門、率にして一割か二割である。一回で合格しなかった砲は、現地で分解し、修正を施してから再試験するのである。その分解、修正も一回限りで済むとは限らぬ。そんなとき、小生の追試のことが思い出され、身に詰まされたものだ。かくの如くしても尚合格せず、箸にも棒にも掛からぬ砲が数門残る。つまり欠陥商品なのである。

 結果的には、形の上からいえば、八割以上が合格品で、一割近くが、使用不可能な不良品、つまりお釈迦様なのである。此の様に、合否判定の基準で、合格品についていえる事は、絶対評価に非ず、相対評価する…ということである。

 学校の入学試験と同様で定員の枠の範囲であれば、合格者は総て相対評価で決める。故に玉石混淆の我が造兵科の如く、ピンからキリまでが同居することになる。学校であれば、出来の悪いキリ組の連中はドシドシ落第させて自覚、反省を促せば済むことであるが、こと人間の命のやり取りにかかわる兵器となれば安直な四捨五入は許されぬ。

 兵器としての安全許容度をどの辺に置くかによって、今我々が果たしている合否の判定は、いささか、適切さを欠くことになる。飛行士と飛行機の絶対安全を考えるならば、当然、一割のピンのみを合格とし、キリは総て不合格とすべきなのである。

 然し、今これを断じて行えば、砲の絶対量の不足を来し、戦力の低下を招くことも必定なのである。二者択一といかぬところが、いたしかゆしなのである。会社のジレンマもそこにあるのであろう。

 ピンの物を必要量だけ生産すること…それが不可能なのが、当時、我が国の軍事工場の実情であった。

 さて、己が如き末輩ではどうにもならぬ事は、さて置くことにして話を今に戻そう。

 前述した如く、試射の結果の多寡が分隊の名誉に関わって来るから、再試験になった砲の不良箇所の点検、手直しには各分隊とも熱がこもる。他よりも一門でも多く合格させねばならぬ…これが分隊長たる者の意地なのである。やがて、テントの中は次第に呉越同舟の雰囲気が濃厚に漂ってくる。

 冬の日の暮れは早い。四時ともなれば、海面は濃紺から暗黒に転じ、微かに波頭が白じんで見えるばかりである。黄昏と共に寒気が一気に忍び寄る。

 暖をとるための焚き火と裸電球の灯りでテントの中は結構明るい。五時近くまで作業が続けられるのである。一門でも多くの砲の合格を…と願う分隊長の眼は必死であった。午後五時すこし前、試射は終了した。此の日の成績は良好であったという。五十発連続発射したピンの砲が八門、不合格のキリの砲が三門であった。夢のような、短くてまた長い一日は終えた。

 小生が試射に同行した日から何日か経ったある日、大隊長からの特別訓示があった。隊長の姓名は忘却してしまったが、やや大柄で温厚そのものの丸顔は忘れられぬ。彼は、旧東京帝国大学の造兵科出身のエリートであった。

 今見る隊長のその顔は、ひどく冴えぬ、悲痛にさえ見えた。なにか異常な訓示か発表であろう…と、直感した。

 「…、実は先般…陸軍の参謀本部から意外な勧告やら、きついお叱りがありました。総ては私に責任があることでもあり、また、部外に知れてはならぬ重大事と考えましたが、是非、諸君達の総力が無ければ解決できない問題でもありますので、私の一存で敢えて公表することにしました…」自分に言い聞かせるように淡々とした声で、

 「我が工場で生産された機関砲には欠陥が多くて、このままでは使用出来かねる…という内容のものであります。敵機との交戦中に弾が発射出来なくなって撃墜されたり、ときには、砲自体の爆破によるところの自爆もあったと…、信じがたい内容の告発でした。…これが事実とすればまことに残念なことでありまして、我が工場としても責任はまぬがれまでん。このことは先ほども申しましたように私に全責任があることですが、諸君の努力と協力なくしてはどうにもなりません…構造上の欠点の改良、加工の改善、検査・試験のあり方…等々それぞれの部所で対策の検討を急いでいます。しかしながら、これらはある程度の日時が掛かります…それまでは現状の見直しで最善を計るしかありません…云々」と語り続けた。

 小生にはいちいち彼の言葉が腑に落ちた。が、砲自体の爆破によって自爆した飛行機があったことには驚きであった。

 僅か半年間の工場体験に過ぎぬが、小生は思い掛けぬ意外な実態を見聞した。例の砲身の回転投入式焼き入れ法による微妙な湾曲、その湾曲を矯正する“神様”の神業。機関砲そのものがアメリカ製ブローニング砲の模倣品であり、こともあろうに重要部品を改悪してあったこと。その挙句、試射では五十発の弾を完全に連発できた砲がたったの一、二割であったことなど、それらのことを繋ぎ合わせると、全てが納得出来た…のであった。隊長のお説の通り、抜本的な解決にはかなりの日数が掛かる。現状を見直して…云々と言うけれど、ヤスリ掛けの手作業では限界の観がないではない。

 兎に角、欠陥砲を排除するには試射の判定基準を、厳しく正すより手はなさそうな気がする。当然の結果、合格砲の数が不足することになろう。これを補う手立ては?…残業を増やすか、隊の増員しかあるまい。枯れ木も山の賑わい…を地でいくことにはなるが、他に名案があるのか?小生の頭にはそんなこと位しか思い浮かばぬ。

 此の日の大隊長の訓示は、大隊に大きな動揺を与えた。特に砲の最終工程を預かる第三中隊の隊員に与えたショックは大きく、分隊長は己がことのように身に染みて感じていた風であった。現場に戻った隊員も日頃の陽気さはなく、終日浮かぬ顔であった。

 この頃巷では、「ああ紅に血は燃ゆる」が流行り盛んに歌われていた。勤労学徒を鼓舞する為のものであった。

   “花も蕾の若桜、五尺の命ひっさげて

         国の大事に殉ずるは、我ら学徒の面目ぞ

              ああ、くれないの血はもゆるー“

 小生はなぜかこの歌に郷愁を覚える。紅…は若き血の色、そしてまた我が造兵科の色でもある。この二つが心のどこかで重なり合っているのだ。この歌を聞くと必ず試射のあった阿字ヶ浦の光景が目の当たりに浮かぶ。

 

    十一 終戦の前と、後と

 

 昭和二十年六月末日…を以って、一年間に亘った勤労学徒動員は解除になり、再び学校に戻されペンの生活に入ることになる。

 小生にとって、いや勤労学徒にとって此の一年間は一体何であったのか…?。会社に残した青春の爪跡の数々も、今にして思うと、遣り場の無い空しさと、砂を噛むような味気ない思い出になってしまった。傍若無人に振舞う敵機に抵抗する術もなく、主要都市は焼かれ、竹槍で敵軍を迎え討つ…という本土決戦を目の前にして、打つ手もなく試行錯誤する国策に踊らされた、木偶(デク)であった…としか思えぬ。

 勤労学徒ということで、我々に対する会社側の対応も曖昧で、中途半端の仕事に追い回されていた…そんな気がしてならない。

 既に、書き述べた如く小生には、[お国のために、会社の為に…よくぞ貢献した]…と胸を張って言えるものは何一つない。それのみか、日本の稚拙な工業力と、アメリカの圧倒的な物量と量産技術の差に、「此の戦には日本は到底勝てぬ…」と云う挫折感を密かに感じていたものである。

 学校に戻ってみると、小生もいつの間にかトコロテン式に三年生になっていた。

 一年から二年に進級するときには、巳四郎寮に五十個程の卵を付け届けしたり、物理のカンニングがバレて布袋様(一場教授)に半身低頭して、及第点を貰ったことなど冷汗三斗の思いをしたものだが…。

 これも勤労動員のお陰で、気の重い勉強をすることもなく、頭痛の種の試験に煩わされることもなく、石組の連中にとってはそれこそ…棚からぼた餅が落ちてきたようなものであった。このときばかり、忌まわしい戦争が時の氏神に思えた。

 学校に戻ってから九月末の卒業迄の僅か三月の間に、小生の記憶から生涯消えることのあるまい異変が幾つか起こった。

 その一つは、日立兵器勝田工場から引き上げて一週間も経たぬ七月○日の夜半、水戸が艦砲射撃を受けたことである。勝田周辺の日立系列の工場がターゲットであり、特に日立兵器は壊滅的な被害を蒙ってしまった…ことである。

 目撃者の証言によれば…頭の上を悠々と旋回していた敵の飛行機から、照明弾が投下されると辺り一面を、昼間のように照らしながら、ゆっくりゆっくり落下していった。すると間もなくして、阿字ヶ浦沖に二十キロメートル辺りに停泊していたアメリカの戦艦四隻から一斉に発射された三十発の砲弾が、真っ赤な弾道を引き、怪鳥の奇声音を頭上に残し勝田を越えて水戸の方面に飛び去った。

 これが初回で、二回目の砲撃は海岸より松山の丘陵を掠め住宅団地辺りに着弾した。この際の一発が女子寮の二階の部屋を貫通し、部屋に居た数名の女子社員の姿は跡形もなく消えていたという。

 そして、三回目には狙いたがわずに数発が日立兵器に命中した。砲弾の大きさは一トン級で炸裂した断片は一抱えもある松の太幹を真二つに切断するすさまじい威力があり、爆風で飛ばされた旋盤が松の幹に食い込み、宙に浮いていた…とか。目を疑う修羅の惨状であったという。

 小生が所属していた中隊長(名前は忘却したが慇懃な若い隊長であった)が、自宅を直撃されて行方不明であることを、後から聞いて驚いた。

 此の頃(終戦前後)の出来事には、判然した日時の記憶はないが…、多分七月末の某日、本籍地の伊勢崎で徴兵検査を受けた。体重不足で第二乙種合格であった。兵科は輜重兵であった。軍隊で使用する全ての物資を調達したり運搬等の使役らしい。

 とある日…、[八月二十八日、宇都宮○○部隊に出頭されたし…]という簡単な出頭命令のようなものが届いた。果て?何の呼び出しか…一年間の兵役免除はまだ有効の筈であるが、所謂これが赤紙(召集令状)だったらと、瞬間思った。

 今のところ九月末には卒業できる予定である。目下、与えられた卒業課題に四苦八苦の最中であった。その課題というのは安東教授(当時の機械科長)に提出しなければならぬ[卓上ボール盤の設計]であった。

勿論、小生の学力の及ぶ代物ではないので幾人かのクラスメートから参考資料を集め、それ等を〈如何にうまく合成するか〉の編集作業中であった。かかる事情から、八月二十八日の呼び出しには応じられぬ…と思い決めた。

 徴兵検査が済んだ翌日のこと、日頃は無口で謹厳な父親がビール瓶を提げて帰って来た。

「お前も、いよいよ一人前になったのだ…一緒に祝杯を挙げようと思ってな…」と、嬉しそうに言ったものである。

 この日初めて父親と差し向かいで、ビールを注ぎ交わした。ほろ苦くはあったが、甘く格別な味わいであった。少年であった頃、ギヤマン(ガラス製の酒徳利)を胸に抱え込んで、よく近所の酒屋へ父の晩酌の酒を賃買いに走ったことを思い出し、胸が熱くなった。

 小生が、つとに煙草を吸い、酒を嗜んでいたことは父は承知していた。その父が此の期に敢えて斯うした演出をしたことに対して…如何にも“昔気質の父の本音”に触れた思いがして、ぐっと身近な父親としての存在感を覚えたものでだ。

 これもその頃の某日、父親が一振りの刀を携えてきた。白木の鞘に納まった刃渡り一尺九寸(約五十七センチ)、銘は藤原兼廣の業物であった。そして、「お前は間もなく、日本の軍人になるのだ…幹部候補生になれば当然軍刀を持たねばならなくなる…そのために用意しておいたものだ。」という。

 (俺には士官の資格はない…またその気もない…)と小生はその時まで、こと兵役に関しては、殊更に無関心を装っていた。父親はもと軍人であり、戦争に従軍した体験もあった。いざというときの男の心構えにも一本筋金が通っていることに気がついた。父にそう言われて初めて、いい加減で無責任な傍観者であった自分に気がついた。

 ここ数週間は毎晩の如く警戒警報のサイレンを聞かぬ晩の方が少ないくらいであった。その度に灯火管制が敷かれる。当初は、一縷の光も戸外に洩らしてはならぬと、お互いに気遣ったものであるが、毎晩のように続くと、慣れっこになって、来るなら来てみろ…と居直りたい気持ちになる。

 二階にあった小生の部屋は北向きの四畳半で、西側は一面が押し入れであった。九尺の間口は二枚の大襖で仕切られていた。その押し入れに電灯を曳きこみ、机を押し込んで書斎にしていた。電球は当時流行の遮光式のもので、球の頭部を残し他は濃紺に色づけしたものであった。襖を締め切ると光は完全に遮光出来た。だが夏の夜の密室はまるで蒸し風呂であった。褌一本でも三十分もいられぬ。

 喚起の工夫をあれこれ考えた末、襖の下縁に穴を開け、袋天井を剥いだ。大分凌ぎやすくなったので、寝布団を持ち込み寝室代わりにもなった。かくの如く涙ぐましい努力を注いだものである。

 八月七日、深夜。空襲警報のサイレンが夜陰の空に響き渡る。前橋市の空襲であった。寝ぐらを飛び出し窓から外を覗くと、西の空が夕焼けの様に茜に染まっていた。深夜の火事は近くに映るが、見当は前橋の辺りである。

 当時情報の伝達は昨日のニュースを載せた新聞か、感度の良くないラジオ位のもので、それも信憑性に乏しいものであった。その頃巷では、広島に得体の知れぬ爆弾が落とされ全滅した…そんな噂が乱れ飛んでいた。報道規制が敷かれていたのか、新聞もラジオもそれらしい真相は伝えてはいない。前橋の町も一夜にして消滅して見渡す限りの焼け野原であった。僅かに残ったのはレンガ造りか、コンクリートの建物の残骸のみであった。

 八月十四日、前橋の空襲から一週間目である。

 「ヒロシ!…」誰かが叫んでいる声にふと目が覚めた。はて?一体ここは何処なのか…目は開いているのだが何も見えない。真っ暗やみなのである。

 「ヒロシ!」今度ははっきり声を聞いた。まさしく父の怒鳴り声である。だが直ぐに、此処は押入れの中であることに気がついた。ついさっきまで書き事をしていて寝付いたばかりの、寝入りばなであった。

 何か異常事態が発生したことを咄嗟に感じて飛び起き、引き戸を押し開け飛び出した。部屋の中は意外に明るかった。目に映る物の輪郭ははっきり掴めたし、勝手知ったる我が家のこと、二階の階段を駆け下りた。

 玄関の入り口に立ち、戦時服に防空頭巾に身を固めた父親が、小生の姿を見るや

 「その格好は何だ!空襲だぞ!そんなザマで人前に出られるか、うつけ者め!」えらい剣幕で叱りつけた。小生も些か慌てふためいていた。褌一本のあられもない格好であった。

 「急いで支度をして来い!完全武装で出て来るのだ!」軍隊の命令口調であった。

 家族の者達の姿は見えなかった。既に身の回りの始末を済ませ、防空壕に避難していたのである。日ごろの訓練が行き届いているので行動に無駄がない。防空壕は家の前庭に作ったもので十人は収容できる大きさであった。

 小生は急ぎ自分の部屋に取って返し支度に掛かった。完全武装といっても真夏のことであり、素肌に、座敷に脱ぎ捨てたままの学生服の上、下を着けるのみであり、念のため靴下を履きゲートルを巻いた。行動しやすくするためにである。頭は帽子のみで、頭巾は首に掛けた。暑くて仕事にならぬからである。

 夜の町中は騒然としていた。停電したように町の灯りは全て消えていたが、辺り一面はまるで満月の夜のような明るさである。頭上には敵の仕掛けた照明弾が下界を照らし出していたのである。その薄明かりの中に右往左往する警防団員や、あらかじめ決められていた退避場に避難する老若男女のうごめく影がはっきり映しだされていた。

 B29の爆音が、大凧の唸り音のように時には遠く、時には近くに聞こえるのだが、この時点では未だ市内には焼夷弾は投下されてはいない。機数不明の敵機が悠々と伊勢崎上空を大きく旋回しているらしい。最初に焼夷弾の洗礼を受けたのは市街から五キロメートル北にある人家も疎らな村部であった。

 試爆か?誤爆か?…恐らく誤爆であろう。敵機は右回りに旋回している…と思った。今度は必ず市の中央部に狙いが定まるに違いない。

 小生は一階部分の屋根に登った。自分でも不思議なほど腹が座っていた。来るなら来てみろと天を仰いだ。まさしく、爆音は西の方角から頭上に近づくが機影は見えない。

 突然、西の上空で一個の黒いドラム缶状をした物体が空中分解を起こした。すると丁度打ち上げ花火が開いたように数十個の焼夷弾が見事に傘下した。続いて二つ目が開いた。カラカラカラ…屋根に当たって弾き返る鈍い金属音が雷鳴のように伝わってくる。着弾したのである。何個の物体が空中分解を起こし、何百発の焼夷弾が降り注いだのか、やがて起こる火災の消火に夢中だったので見当もつかない。

 落下した焼夷弾はビール瓶よりやや大きめの六角柱の筒で、先端のノズルから粘度の高い燃料が着火した状態で噴出する。建物の表面に付くと粘着したまま燃える。燃えやすい木造建築の密集する日本の都市攻撃には格好の爆弾なのである。我が家にも屋根を含めて三発が落ちた。二発は屋根を直撃し一発は庭の植え込みに落ちた。屋根に落ちた奴は跳ね返って庭に落ちた。

 竹竿の先端に荒縄(穂先になる方を団子に結んである)ハタキ状に束ねた、火消し用ハタキに水をたっぷり含ませ、焼夷弾を叩き伏せると、火炎を容易に消し止めることが出来る。但し、それには敢然と立ち向かう勇気が要ることで、誰もが容易に為しうる行動ではなかった。

 夥しい弾雨には、人海戦術にも限界があった。あちら、こちらから火の手が上がり始めた。燎原の火の如く、火は火を呼び、町中が火災のルツボと化すのは時間の問題であった。

 女達は既に避難していた。父と小生の二人が最後まで残ってはみたが、延焼してくる炎の勢いには、もはや施す手立てはない。退路を塞がれてからでは万事窮すである。小生には刀と他にも持ち出さねばならぬ書類があったので、父とは別に避難することにした。

 一旦家の中に引き返した。刀は腰にぶち込み、書類をつめた手カバンを小脇に抱え、家の路地から往還に出て北へ風上に向かって、傍目には悠々と歩き出した。この往還は通称六間道路といい片側に水路があって、延焼を食い止める役目を果たしていた。道路には未だ避難をする人達か、物見の野次馬か…人の往来が絶えきれぬ。

 往還に出て北へ百メートルばかりのところにコンクリート作りの警察署がある。この辺りには空地も多く延焼から免れていた。此処までくると体中の力が抜けて、小生は歩くのも億劫であった。

 徒に逃げ惑ったところで腹は減るし体力を消耗するばかりなので、空地の草原に佇み、茫然と焼け落ちる我が家を見つめていた。

 「そこで君は一体何をしているのかね?」

背後からサーベルを下げた警官が寄ってきて、不審顔で訊問した。

 「我が家の最後を見届けているんです、あの燃えている瓦屋根が家です…」と顎で差した。

 「成程…」と云って、小生の頭の天辺から足元までねめ回し…

 「ところで君の腰の物は何かね?、物騒な格好をしておるが…」と言われて、小生も初めて腰の辺りが重いことに気が付いた。汚れ果てた学生服に、刀を差した胡散臭い姿を見ては、誰の目にも唯の野次馬にはみえない。

 「はァ…これは軍人の魂です…八月末に入隊することになっていまして…これだけは持ちだしたんです。」まるきり嘘ではないのですらすらと答えた。

 「あんた学生さんかね?…立派な心がけです…」不審が解けたらしく同情の声に代わり

 「いつまで此処に居ても仕方ない…」といって署の中に案内してくれた。椅子を与えてくれ「夜が明けるまで体を休めなさい」と言う。

 

 かくの如くして、昭和二十年八月十五日の夜は明けた。町は、周辺部のみを残して、中心部の六、七割が焼け落ちていた。

 何処で、どの様にして眠れぬ一夜を過ごしたのか、焼け跡には、家を失った者達が次々に集まり、まだ焼け残りの熱気と、煙が燻っている中で黙々と後片付けを始めた。

 何か一つでも使えるものは無いか…必死に捜索する姿である。その顔は疲労と空腹に憔悴し、その後ろ姿には、遣り場のない怒りと虚脱感とがありありと滲み出ていた。

 午前十時頃、目の前にある警察署の拡声器が突然鳴り出して皆を驚かせた。

 「本日正午十二時に重大ニュースの発表があります…」と繰り返し繰り返し放送が流れた。

 小生は「あァ…とうとう日本の命運は尽きたな…」瞬間そう思った。“敗戦”それ以外に重大ニュースは考えられぬからだ。訳もなく体中の血が騒いだ。

 二十年八月十五日、正午。まさしく[ 終戦を告げるくだんの玉音] の録音放送が流れたのである。

 遂に暗くて長い戦争は終わったのだ。その劇的な敗戦の布告を…今日の暁朝の空襲で焼き払われた、生々しい焼け跡に佇みながら聞く者にとっては、皮肉な天の声であったに違いない。

 暫く放心の体で放送に耳を傾けていた人達も、語り合う言葉も無く黙々と仕事に戻る。

 “耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…”玉音のくだりをそのまま絵にしたような光景であった。

 敗戦そして降伏、日本が會て経験したことのない出来事である。“国破れて山河あり、城春にして草木深し…”山河は残り、春になれば再び草木も靡くであろうが、国は、国民はどう変貌してしまうのか…今のところ誰にも分らない。

 そんな混沌とした終戦の直後の、昭和二十年九月二十二日、小生達造兵科は、その科名も機械科と変えて卒業したのである。卒業式は陰々とした雨の降る日であった。

 

    十二 零れ話しあれこれ

 

      1 邂   逅

 

 それは、小生達が長堀の寮に移ってから間もない事であった。工場へ通う小道の畦に薄の穂が揺らいでいた頃であったから秋の半ばであろうか。そして時刻は、会社が引けて寮に帰る途中であったから、夕方の五時は回っていた。秋の日の暮れは早く辺りには既に宵闇が迫っていた。

 工場と長堀の寮のほぼ中間に川幅三間(五・六メートル)ほどの小川があり、手摺りのない土橋が架かっていた。川沿いは一面に、幅広い範囲で葦や薄が群生していて、孤狸や獺が出没しそうな荒涼とした原野であった。

 小生が数人の仲間と一緒に小川の土橋に近づきつつあったとき、土橋の向こう側からトボトボと、此方にやってくる一人の男があった。

 その男が橋に差しかかった時、やや遠目にも姿、形から大柄な兵隊であることが分った。小銃が重そうに男の肩にあったからである。その兵隊が橋を渡りきった辺りで丁度我々とすれ違った。

 不図、何気なく小生の足が止まった。そして何気なく大男の兵隊を振り返った。するとその大男も小生と同様に此方を振り返り足を止めた。暫く見合った儘の沈黙を置いてから

 「もしや…あんた樺沢と違うか?」と、声を潜めて聞いてみた。

 「やっぱりお前…荻原だったんか?」殆んど同時に、兵隊姿の男が声をあげた。この大男は樺沢栄一といい、中学時代の同級生であった。

 小生は一瞬、狐か狸の化身かと思った。偶然にしてはあまりにも舞台背景が出来すぎていたからである。敗戦兵のように憔悴しきった彼の軍服姿がなんとも異常で、うらぶれて見えたので…

 「いまごろ一人ぼっちで一体どうしたんだ?まさか脱走してきたのではあるまいな?」小生には咄嗟に判断が付き兼ねて、冗談交じりに聞いてみた。

 「明日…甲幹(幹部候補生)の試験なんでこれから本隊に戻るところなんだ」

「今頃、一人でか?それにしても…えらく疲れ果てた格好ではないか?」

 「うむ、今まで穴っぽり遣っていたんだ…

班の連帯責任でやる仕事だからそれが終わるまで、俺だけが一足お先に…って訳にはいかねーのだ」という。

 思いも掛けぬ旧友との邂逅であった。が、彼には先を急がねばならぬ事情があったので名残り惜しくはあったが、束の間の立ち話で分かれた。

 断片的で短い会話から彼の話を総合すると…彼が所属する部隊の名前は何といったか忘れてしまったが、彼は工兵隊員でその部隊は勝田に駐屯していた。

 彼の言う“穴っぽり”とは塹壕を掘ることであった。長堀一体の丘陵には敵の上陸作戦に備えて塹壕が構築されているという。

 彼の語る言葉の端に…長堀寮がある住宅団地の東側一帯の丘陵の松林には高射砲の陣地が敷いてあるらしい。一見穏やかで平和そうに見えたこの辺りは、既に要塞地帯であり、国土防衛の前線基地であった…のである。

 樺沢のやつ「明日、幹部候補生の試験がある」…といっていたが、これから隊に帰り明日に備える事は容易なことではあるまい。塹壕の構築は公的軍務であり、幹部候補生の受験は言わば私的行為である…から当然のことかもしれぬが、去り行く彼の後ろ姿には、ものの哀れが漂っていた。

 

     2 機上掃射

 

 中学の旧友Kとの奇しき邂逅以来、小生達の日常にはこれといった異変もなく、昭和二十年の春を迎えていた。川上節子女史は女子寮への転居を諦め、相変わらず汽車で通勤していた。小生の旧友がもらした話を聞いて…思案の末の結論であったのかもしれぬ。

 此のときから半年も経たぬ七月には、例の艦砲射撃で女子寮は砲弾の直撃をうけたのであるから、人の命運は計り知れぬものだ。

 春の訪れと共に俄然、敵の蠢動が慌しくなってきた。三月十日東京が大規模の空襲を被った。B29による焼夷弾が主であったらしい。これを期にしてか、水戸周辺の上空にも敵の艦載機が屡々飛来するようになった。当初は敵機(グラマン)の数も十機から二十機位の編隊で、多分上空からの敵情偵察が主眼であったのであろう。その頃までは我が方の戦闘機もまだ健在で、勇ましく迎撃に飛び立ったものだ。その折には頭上で曲芸さながら、打々発止の空中戦を目撃することもざらであった。

 初めの内は我が方が果敢にアタックして優勢に思えたが、衆寡敵せず次から次にと繰り出してくる敵機の前に、我が友軍機(隼)はいつの間にか影を潜めてしまった。温存するために何処かに雲隠れしてしまったなどと悪口が飛んだものである。

 最早、こうなると敵方の振る舞いは傍若無人であった。鹿島灘沖に敵の航空母艦が悠然と居座っているのであろう。東方の海上から定期便の如く飛来するのである。主力は戦闘機(蛇のようなグラマンと双胴型のロッキード)であった。

 “雲霞の如き大群”…というが百機からの編隊が洋上すれすれに飛来すると、まさに一天俄かに掻き曇る…の形容がぴったりで、辺りが薄暗くなるのである。

 そんなある朝のこと、小生は例の如く出勤前のお勤めのため雪隠(かわや)に蹲っていた。

 空襲警報は先程から鳴りっぱなしである。屋内にいる限り戦闘機の襲撃は安全であるとたかを括っていた。今朝の定期便は早すぎる…と思いつつ尻の始末をしていると、絹を裂くような飛行機の爆音が寮棟を掠め後方(西方)に飛び去った。途端に、「カラカラカラ…」という弾けるような金属音が頭の上の屋根瓦を叩いた。

 奴等は此の寮を狙い打ちに掛けた…そう思った瞬間言い様のない恐怖が背筋を走った。閉じ込められた個室と、咄嗟の行動が取れぬ無様な己の姿が一層自分を動転させた。

 ようやく自分を取り戻し、戸を蹴破るようにして這う這うの体で個室から脱出したのであった。

 たまたま出勤の時間帯であった。社宅からの社員も、女子寮からの組も右往左往して逃げ惑っているのではないか?…卑怯な奴らめ

!、恐怖から目覚めると敵愾心に奮い立った。武者震いしながら戸外に飛び出した。

 頭の上で着弾らしき音がした便所の屋根を見遣ったが、破損した痕跡は何処にも見当たらぬ。その代わりに、中庭のあちこちに薬莢や薬莢帯の断片が散らばっていた。どうやら敵の攻撃目標は、何時か、友人のK君が話していた丘陵の松林にある高射砲陣地らしかった。

 その辺りで、数機のグラマンが燕のように乱舞して機上掃射を仕掛けていた。初めのうちは火を吹いていたであろう高射砲は、今は沈黙の儘である。それでも執拗に敵は沈黙の陣地に砲弾を浴びせる。旋回するグラマンは団地の上空を燕返しに掠めるのである。

 屋根に落ちた怪音は、慣性によって運ばれた物だったのかもしれぬ。我々の寮から松林の丘陵の尾根までは僅かに数百メートルしかない。その向こう側(海側)にある高射砲の陣地だけが今朝の敵機の攻撃目標であった。

 敵側は事前にこの辺りの防衛の事情は偵察済みである。高射砲の位置や台数も熟知していたであろう。余すところ無く機上掃射して、東方の海上に飛び去った。

 この高射砲の陣地からは二度と火を吹くことはなかった。外堀を埋めてから本陣を衝く…これが敵のいつもの定石であった。

間もなく日立兵器工場への機上攻撃が開始されることとなった。

 この日、我が防衛軍の死傷者の有無は確認すべくもなかったが、幸いなことに一般人の被害はなかった。

 

     3 薩 摩 守

 

 勤労学徒として軍需工場で働き、そこでは雀の涙程ではあったが給金を貰い、学校からの講義や試験の難行苦行から開放され、一年間を大過無く(会社にとっては招かざる客であったかもしれぬが)過ごさせてもらった。

 今さら国家社会のためなどと気取っていえた義理ではないが、せめて一つでも世のため人のためになった善行らしきものが無いものか…胸に手を当てよくよく思案してみると…

善行というにはおこがましいが奇篤な善根を施したことが一つや二つ位あった…ことを思い出した。

 思えば遠い昔の話である。小生の記憶違いのこと、錯覚であったこと…があるやも知れず、予めご容赦願う事にする。

 当時会社から支給された給金は二十円であった。その金子も食い物の足し前や煙草の煙でアッという間に消えて終う…のである。

 二月に一度位は帰省せねば栄養失調になってしまうし、身の回りの始末もままならぬことになる。だが小生達の悩みの種は慢性的な金欠病で、難渋するは汽車賃の工面であった。

 此のことは何も小生に限ったことではなく大方の連中の問題なのである。何かよい妙手妙案は無いものか?あれやこれやと思考を巡らせたものだ。学校の勉強などは直ぐに匙を投げるところだが、小生の興味をそそる問題には俄然熱が入る。

 ―(為せば成る何事も、成らぬという為さぬが故なり)―遂に、ある一計が思い浮かんだ。それは[ キセル] を成功させることであった。

 この秘話を公表したところで、国鉄は民営JRの時代であるし、[薩摩守](さつまのかみ)の犯行は既に時効である。薩摩守は平忠度(たいらの・ただのり)のことで(只乗り)に掛けた言葉であるが、当時もその犯罪の刑は軽くはなかった。

 小生の場合、伊勢崎から勝田迄は、小山と水戸で汽車を乗り換え勝田で下車…という国鉄をつかい、運賃は片道二円五十銭位であった。その頃の切符は厚紙で鋏を入れるとチョッキンと音がしたものである。

 [キセル]の手口を紹介すると先ず水戸駅で一旦下車して、最短区間の切符を買い求め(十銭?)勝田駅で降りるのである。二円五十銭の切符は次回から再使用するため大切に保存しておくのである。

 勝田から伊勢崎までの場合は概ねその逆を応用すればよい。

 さて次回からが[薩摩守]と相成る訳であるが、この種を明かすと…俺もやってみようかと不心得を起こす奴がいるかもしれぬので割愛するが、今の薄っぺらでチャチな切符では駄目であろう…し、これには特殊な技術と、芸術的なセンス?が無くては叶わぬ技である。

 小生は二回ばかり薩摩守に成功したが三回目には良心の呵責もさることながら、切符そのものが如何にもくたびれてしまったので止めた。

 斯様な…法の裏を潜る悪戯の成功には妙な優越感が湧き、人に吹聴したくなるのが人情であり、愚かな人間の習性なのかもしれない。そして人を使って試したくなるものだ。依頼者が何人か名乗りをあげた。長田剛も好奇心旺盛なその一人であったが…

 「俺はこんな冷や汗をかいたのは生まれて初めてだ…」と、体験した後で零すこと頻りであった。そして彼は言う…

 「水戸の駅で途中下車したとき改札係が俺の切符を取り上げ、不審な面をしてさ…切符を穴のあくほど見透かして、なかなか手渡してくれねんだ」と。

 彼のその時の困惑し切った顔が目に浮かぶようであった。

 疑わしきは罰せず…、これは刑法の原則である。例え不正がばれて、貧乏学生を捕らえたところで、たいした手柄にもなるまい。不正を承知しながら目をつぶり、情けを施したほうがよほど、世のため人のためである…などと勝手な理屈を並べて、小生は苦笑いしたものである。

 その後も、性懲りもなく何人かが実験したが、捕まった話は聞かなかった。よほど小生の作品の出来映えが見事であったのか、それとも…疑わしきは罰せずの方であったのか、何れにせよこれが小生が自慢しうる善根?の一つであった。

 

      4 団  欒

 

 昭和十八年三月から二十年九月迄の二年六ヶ月は、大東亜戦争と運命を共にしてきた小生たちにとっては…紅の血がたぎる青春の、語りて語り尽くせぬ思い出の坩堝である。

 それは、長い道程のほんの一里塚に過ぎぬかも知れぬが、小生達にとって…そんな生易しい人生の一ページではない。小生達しか体験し得なかった悲喜哀感が詰められた珠玉の宝石箱なのである。

 起稿当初、遠い昔の思い出だから…記憶を掘り起こすのも容易のことではあるまい、と思いつつペンを走らせているうちに、もつれた糸を解きほぐすように、忘れていた在校当時の情景が泉の如く湧き出し、学友の顔も昔のままに瞼に浮かんできた。

 徒然のままに記憶に蘇ったことは既に書き尽くしたようだが、どれもこれも人目を憚ることばかりで、我ながら汗顔の至りである。

 小生にとって学徒動員中の数ある想い出の中で、あのラムネの味のように…何故か忘れえぬ爽やかな追憶がある。それは…

 それまで、同じ寮舎で生活しながら殆ど交流することもなく、疎遠であった多賀工専と共同公演することになり、小生が一世一代の舞台監督をしたことである。

 それなのに…肝心の日時と公演した場所が思い出せぬのである。

 例の機上掃射が始まる前の比較的に安穏な時であったから、時期は…多分桃の節句の頃、会場は寮の食堂?だったかもしれぬ。

 誰もが口にこそ出さぬが、長い戦争に疲れ、沈滞しきった暗い世間に、一抹の安らぎと笑いを吹き込むことが出来たら、これも世のため人のためになる…そんな気持ちが以心伝心し合って彼我の間に醸し出された…としか説明のしようがない。

 この話しが決まってから寮は俄かに活気づいた。出し物の外題、日時、演芸時間などが固まり、団地や女子寮への宣伝も抜け目なく手配りを済ませた。周囲の反応もまずまずであった。

 多賀工専の呼び物の本命は[関所罷り通る]、桐生工専は[姿三四郎]であった。夫々の持ち時間は四十分ずつとし、その外の寸劇を間に挟んで競演時間を正味二時間位に決めたのである。本番までの準備期間は約一月であった。

 全員が参加することと、一人の出演回数は二回以内とすることが決まり、双方の舞台裏の様子や大道具・小道具などは相手側に漏らさぬよう箝口令が敷かれたため、一段と両者の競争意識を煽った。

 多賀工専には芸達者な役者が揃っていた。外題[関所罷り通る]は江戸時代…箱根の関所で、通行人が代官の前で手形の代わりに、仮装とパントマイムで職柄を演じて見せる狂言物であった。この劇では時間の都合で何組でも登場できる仮装大会さながらのものであった。中でも、お夏・清十郎のお夏役の狂人振りは見事な演技であった。

 我々の[姿三四郎]は周知の柔道物語を四幕に脚色したもので、明治時代の世相を背景に、荒くれた男の戦いを描写したものである。色恋が絡まないと味も素っ気もないので、味付けに三四郎の恋人役に松尾洋一を女形に仕立てた。この女形の特訓が大変な仕事であった。化粧した彼の顔には色気十分なのだが、演技はまるで男そのものであった。

 紅一点の出来具合でこの芝居の評価が決まる…と言ってもよかった。本番での彼の演技は上々であった。小生はこの劇では、大河内伝次郎が扮した矢野正五郎の役で出演した。

 「アァ…ウゥ…ニョゴ、ニョゴ…」と喉に痰が格まったような発生をする…伝次郎の声色には些か自信があったので、その役を買って出たのである。が…

 監督しながらの出演だったので、いざ自分の出番の時になって慌てて羽織を裏返しに着たまま舞台に上がってしまった。観客はそれに気がついた。だが何処からも野次や失笑は起こらなかった。舞台のかぶりつき近くにいたおばあさんが感に耐えた声で

 「まぁーあの先生はお気の毒に…つぎはぎだらけの羽織を着なさって…」と云うのが小生の耳にも届いた。小生も初めてそれに気が付いたが、そこは真打のこと…何食わぬ顔で大河内伝次郎よろしく、目を剥いておばあさんを見返り

 「うむ…ニョゴ、ニョゴ…」と大きく見栄をきりその場をしのいだ…ものである。

 かくの如くして団欒はつつがなく終わった。

 小生にとって此の演芸会は、芝居の醍醐味に魅せられて、日頃の憂さを忘れ去った夢中の一月であった。

 

    十三 そ れ か ら

 

 終戦の年の九月二十二日、二年六ヶ月の学業を終えて、兎も角桐生工専を卒業した。

 勤労学徒の動員その他の雑役を含む労働を差し引くと、講義を受けた正味の学業時間はその半分の一年と三月という勘定になる。これはあくまでも平均的な並みの学生の場合である。石組で、屡々この物語に登場する大器晩成型の連中にあっては更にその半分の七ヶ月に満たないのは確実である。かく申す小生などは、そのまた半分…といったところ。嘆かわしい極みである。

 前述の如く、皮肉なことに戦争は小生にとって救いの神であった。が…戦火の余燼は至る所に燻っていて、一億同胞の多くは腑抜けたようになって、明日の暮らしに途方に暮れていた。

 学校を出ても就職できる見通しはない。まして桐生工専の造兵科卒業生は戦争に協力した廉で戦犯の罪に問われるかもしれぬ…そんな物騒な噂が誠しやかに囁かれもした。当時の世相の混乱振りが伺い知ることができよう。

 学校では、卒業者に対して十二月までの三ヶ月間の補習授業を開講した。学徒動員で失った空白の穴埋めと、就職難を予測しての親心であった…と思う。八月十五日の空襲で住家を失い路頭に迷う小生には、補講に通う余裕はなかった。

 市街地の大半が消失し、焼け出されたのはわが家一軒だけのことではないので、借間を捜すのも容易のことではなかった。廃墟と化した市内に親子八人の大家族を収容できる貸家など有り得べくもなく、あっちの親戚、こっちの知り合いを頼って一家は四散するほか術が無かった。

 小生は町を外れた農家の納屋の二階を一時塒(ねぐら)にした。それも知人の紹介でようやく借りられたのである。その塒も、人間が寝起きする条件としては最低なものであった。すぐ近くに両毛線の踏切があり、汽車が通過する度に耳を裂く警笛と、空き腹を揺する地響きが伝わってくる。

 納屋の階下は牛小屋と農機具や藁束を積んだ物置であった。畳のない床板一枚を隔てて、その下が牛小屋である。牛の巨体が蠢くざわめき、角で飼葉桶をこずく音、細く長くダラダラ続く放尿…さまざまの怪音が絶え間なく耳朶に伝わってくる。

 床にござを敷き、配給のフエルトのような毛布を何枚か重ねて幾分階下の騒音を和らげたが、鼻毛も立ち枯れするような家畜小屋特有の異臭は如何ともしがたいものであった。

 釣り天井はなく、屋根裏は煤けた梁や棟木、垂木や野地板がむき出しになっていて風通しはまことに良く、至極夏向きであった。その梁に黄色くくすんだ裸電球がぶる下がっていた。

  “のみしらみ馬の尿(ばり)する 枕もと”(芭蕉)

 その昔、芭蕉が奥の細道で詠んだ馬小屋の光景が彷彿として、俳聖の境地が忍ばれた。この侘しき境遇も住めば都で、尋常では味わえぬ風流で…乙なものであった。

 戦後の我が人生は牛小屋から始まる。牛小屋で生誕したまうイエス キリストと同じ荊(いばら)の道を辿ることになるのか、果たしてその運命は?どうなることやら…。

 何時のことであったか、造兵科のクラス会(後に紅会と命名)の折に、回想録[想い出の記]を作ることに話が決まった。その時、筆頭幹事役の[熊ちゃん]こと山中熊蔵先生が提言して曰く、

 「私達の青春時代のことやら、人生の体験談を…子々孫々に語り伝えるために、皆に“想い出話“や”随想“を書いて貰い、いずれは立派な回想録にしたいと思う…云々」と。

 その時は、[想い出の記]の企画には…小生も異議なく賛同したものであった。が、さて往時のことを思い出しつつ執筆しているうちに、これは“とんでもないことになった”と気がついた。

 熊ちゃんの格調高い足跡に較べ、俺には“恥ずかしきことのみ多くして、誇りを持って子や孫に語り伝えたいものが何一つ無い“ことに気がついたからである。

 中学のとき家庭謹慎を食うほどの要注意の生徒であったこと。その挙句の果てに桐生工専機械科の進学を希望した時にはクラス担任から冷笑され、見事失敗したこと。戦争のお陰でどうにか桐生工専を卒業できたこと…。など、どれも子孫に自慢して憚ることばかりが想い出に残る…からである。

 會て、大器晩成と自称して憚らぬ石組の小生が、その後どのような人生航路を経巡って今日にあるか…記録に留めておくことも、これを子孫が“他山の石”とするならばあながち“益無きに非ず”と考え、敢えて愚者の懺悔録として追筆することにする。

 その記憶は定かではないが、多分学校を卒業してから一月位経った頃のこと…。小生にとって思いも掛けぬ就職の口が降って湧いた。取り分けて親しい友人…という程ではなかったが、同じ汽車で一緒に通学していた他科のクラスメートから

 「関東産業で今社員を一人募集しているんだが…あんた入社する気はないか?」と囁かれた。就職もそのうちには何とかなるだろう…位に考えていた矢先のことであったので、一瞬わが耳を疑った。

 それにしても在学時代悪名高かりしこの俺に、なぜ就職口を持ってきたのか…不審と希望が交錯して、その時はなかなか現実なものとして信じられなかった。

 そのクラスメートはK君といい、後で解かったことだが…彼の親父は関東産業の人事部長か課長とかで、K君が小生に白羽の矢を立て、推挙したらしい。

 関東産業の本社は伊勢崎の東の郊外、太田街道筋にあった。当時伊勢崎に存在する工場の中にあって一流の規模の企業であった。面接の折、Kの親父である人事部長は型通りの初対面の挨拶が済むと

 「ところで…貴方の勤務は当分の間[本庄工場]になりますが、その条件を了承願えますか?」…それが条件で採用するのだといわんばかりの口振りであった。小生は本庄に関東産業の子会社が存在することなど知る由もなく、勤務は当然(本社工場)とばかり思っていたので瞬間、これはKに一杯くわされたかなと思った。

 「そうですか…」と、言うべき言葉がみつからぬまま曖昧に返事をすると

 「交通費は勿論ですが、貴方には役職(主任)手当てが付きます…」と部長は抜け目なくそう付け加えたものだ。はなから主任の肩書きを付けるというのである。このあたりの『アウン』の呼吸が人事部長たる所以であろう。斯くして小生はK親子の仕掛けに引っかかった格好で、社会人としての第一歩が始まった。

 本庄工場に着任して見て、改めてその実態に憮然とした。生産品は建材用セメント・ブロック(砕礫とセメントをプレス加工したもの)で、昨年買収したばかりの小さな町工場であった。工場とは名ばかりの建物は、屋根を波型トタンで葺いた吹き抜けの掘っ立て小屋であった。従業員はそのまま引き継ぎ、操業は当時のままのスタイルであった。

 ニッカズボンに半纏姿の生きのいい男衆が働く作業場は、雑然として飯場さながらの光景であった。中には背中に般若の面を入れ墨したお兄さんもいた。これには流石の小生も些か驚いた。

 十坪にも足らぬ事務所は古い平屋住宅を改造したもので、土間に事務机が三組と古ぼけた応接セットが在るだけの殺風景なものであった。工場長以下従業員はすべて地元出身の者達で、本社からの出向社員は小生一人のみであった。小生が関東産業の社員とは名ばかりの…誇り高き?出向社員第一号社員であった。

 一週間が二週間、一月が二月と時が経つほどに…仕事の方も慣れ、工場の内部事情にも通じるようになると、関東産業が何故に小生を名指しで採用したのか…その理由が朧気ながら解けた。要するに得体の知れぬ離れ小島の子会社に出向を希望する社員がいないのである。

 激動の昭和二十年も暮れ、昭和二十一年の新年を迎えた。元日、役付きの社員(四、五十名はいた)が本社に集まり新年宴会があった。子会社の本庄工場からは工場長と小生の二人が新年会に招かれた。よそ者の小生には同じ年配の中には殆ど見知った顔は見当たらなかったが…上座の重役陣の中にS(桜井某)の姿があった。Sは社長の御曹司で副社長の肩書きをもち、末は社長の椅子が約束された男である。

 Sは小生にとっては、科は異なるが桐生工専の同僚である。かつ、在学当時の彼は“君子危うきに近寄らず”の真面目な君子で、浪人ずれした小生には近づくことはなかった。従って小生には顔見知りだけのクラスメートである。

 新入りの小生は、遠慮がちに末席にはべっていたが、小生の存在は彼の目端には留まっていた。

 宴たけなわになり、会場は熱気に溢れ、ようやく喧噪のボルテージが高くなった頃あいを見計らって、Sが取り巻きを引き連れ、わざわざ末席に鎮座する小生の前に遣ってきた。その顔は取り巻き連に攻められてか…大分酒をきこしめして朱色を呈していた。

 「ヤアー 荻原くん、しばらく!。…君のお越しがないので、僕の方から伺候させてもらったょ…、君は本庄のうちの子会社の出向社員になったんだってね?K君から聞いてびっくりした…」湯飲み茶碗を取り上げ、取り巻きの一人に酒を差せと顎をしゃくる。すっかり人を見下した口の聞き方であろ。初めての宮仕えのことで、会社の因習も上司に対する心得も知らぬ小生は、『この若造めが…でかい口をたたきやがって!』持ち前の癇癪玉が勃然と胸に込み上げてきた。が周囲の手前、此処はぐっと堪えて

 「あんたの所はちょっと敷居が高くてな、新参の駆け出し者には恐れ多い…」皮肉を浴びせる。

 「その遠慮は無要…時々は僕のところへも顔を出せよ、重役連に引き合わせるよ。早く幹部と顔馴染になることが出世の秘訣なんだ。…何時までも離れ小島では君のためにもなるまいが…」云々と、聴きようによっては「上司におべっかを使え」ということである。青二才にこけにされた鐘馗はいたく自尊心を傷つけられ、ついに癇癪玉に火がついた。こんな奴を獅子身中の虫というのだろう。

 小生はいきなりSの胸ぐらを掴み、拳で横面を張り飛ばした。彼が身を引こうとした瞬間に胸ぐらを放したので、弾みを食らって副社長は派手にひっくり返った。元旦早々の珍騒動であった。「これにて俺の給料取りも一巻の終わりか…」と思ったが、意外にさばさばした気持ちであった。「俺には宮仕えは性に合わぬ」ことを自認し、首を覚悟してその場を早々に引き上げた。不可解なことに、その後小生の処分について会社側から何の音沙汰がなかった。

 いったん綾の着いた会社には未練はなく、“渇すれども盗泉の水を飲む”ことを潔しとせず、小生は辞表を出して一月末をもって関東産業を退社。僅か三ヶ月の宮仕えであった。

 

 去年(昭和二十年)の暮れ、牛小屋の仮寓を引き払い、おんぼろながら畳があって、炊事も出来る牛小屋よりはましな借間に転居していた。

 関東産業を退社すると、それを待ち構えていたように次の就職口が待っていた。その口は、日進電気といってトランス(変圧器)の再生と、電気アイロン・電気コンロなどの家電製品を製造する工場で、従業員20名ばかりの小さな町工場であった。専務が小生の親戚筋に当たり、その専務に口説かれたのと、転居した住まいから近いことが勤めを決めた機縁であった。

 工場長はW大学出身の生粋の技術屋で、陰気で気難しい変人であった。猫背でニヒルな風貌が眼鏡を外した巳四郎師(桐生工専の恩師)に似ていたので、何となく不穏な予感が掠めた。

 小生は家電製品製造の第二工場の主任の肩書きで、変圧器再生の第一工場とは別棟にいたので工場長とはあまり顔を合わせることもなく、別段心気くさい彼を気にすることもなかった。

 第二工場は、部品(外注もの)の組み立てと検査が主な仕事で、女子が主役であった。当時の女子工員のユニホームは、土地柄のせいか銘仙の着物にたすき掛け、もんぺ姿が普通であった。だから彼女たちが働く作業台の回りは花が咲いたように華やかであった。小生の昼の食事と休息は、事務室へは戻らず大概彼女達と一緒であった。

 建前の理由は、気色の悪い工場長となるべく顔を合わせたくなかったこと…にあったが、女達の食事は副食が豊かで、漬け物、煮付けなどの振る舞いを受けられる楽しみが本音であった。そのことが何より有効に作用したのは彼女達とコミュニケーションすることによって作業効率が高まったことであった。

 初の給料日、日頃のお返しに家電工場の従業員全員(といっても10人)を町中の食堂に誘いカレーライスを振る舞った。一皿20円で、締めて200円を支払ったら給料袋は空であった。ともあれ、小生にとって屈託の無い、居心地の良い職場であった。

 兎角浮世は儘ならぬもので、ある日突然工場長から呼び出しが掛かった。それは変圧器の釜(ケース・ボックス)の鋳型設計図の依頼(命令と同じ)であった。鋳物の型設計などしたことも見たこともなかったので受諾することをためらったが、実力の程はともあれ桐生工専卒の資格の手前「出来ぬ…」とはいえなかった。手渡された下絵(スケッチ)には細々と寸法が記入されていた。機械製図と同じ要領で仕上げれば良いと判断し引き受けた。

 釜は蓋付きの箱状の容器で、機械式図面を引くのは割合に容易なものであった。一昼夜で原図を仕上げて一応工場長の閲覧を乞うた。彼は一瞥したのみで…「ふむー」と、むっつり顔で頷いた。日を置かずして青焼きの図面に完成させて、鋳物工場に発注されたのである。

 数日後に釜の試作品が届いた。外観、蓋の密着具合、ボルト通し孔…設計図通りの完璧の仕上がりであった。ところが、これが以外にも使用不能な欠陥品であった。設計通りにコイルが正常な形に収まらないのだ。各部の寸法を当たってみると設計寸法よりも全てが縮んでいた。これは溶解した鉄が凝固する際に生ずる収縮ひずみによるもので、設計者は予め収縮ひずみを予測して設計にあたらなければならない。明らかに設計ミスであった。そこでその責任者の所在が問題になった。

 「学校でそんな初歩的なことを習わぬのかね…」などと工場長は責任は小生にあると言いきる。

 「残念ながら…習いませんでしたね、動員ばかりで。原図の段階で…貴方は『ふむ』と言ったではないですか。だからその通りの寸法にしたんですよ。工場長は縮み代を見込んだのですか?」

 「僕はねー君、電気屋だよ…だから君に頼んだのではないか。君は機械屋だろう?」

 「生憎…鋳造の知識もない出来損ないの機械屋でしてねー、アイロン位が手頃な相手です」こんな言葉のやり取りがあった。失策の責任の大半が当方にあるにせよ、碌な説明もせずに人に仕事を任せ、全責任を他に押し付けようとする工場長らしからぬ魂胆が許せぬ。以来、彼と我との確執は深まるばかりであった。

 それから間もなく、専務や仲間の慰留を振り切って日進電気に尻をまくった。在任期間僅か8か月であった。何の因果か宮仕えはよくよく縁の遠い、気が短くて喧嘩ばやい男であった。二度と勤めはすまいと誓い、大地に新天地を求めて、やがて開拓の鍬を担いで赤城の山に入ることになる。

 

    赤城の山が呼んでいた

 

    一 開拓地入植

 

 [赤城山]は広大な裾野を引き、関東平野北西の奥まったところに…優雅に端座する上州(群馬県)の秀峰である。古くから妙義、榛名と共に上毛三山と称され、標高1828メートル(黒檜山)の二重式円錐火山である。すり鉢状に放射した山麓は…東は足尾山塊に接し、西は利根川によって絶たれ、北は沼田盆地に、南は関東平野に向かって延びる。

 此処は…緩やかな傾斜をなした赤城の南面山麓で標高400から500メートルに位置し、当時の地名は勢多郡大胡町字金丸といい、小学校のある大胡本町からは凡そ一理半(6キロメートル)北に登った山腹の集落である。ぽつんぽつんと民家は点在するが、開拓地一帯は鬱蒼たる赤松の樹林に覆われ、北にお椀を伏せたような鍋割(岳)を間近に仰ぎ、その右肩に長七郎、地蔵岳が駱駝の背のように稜線を連ねて天と地を隈取る。南は関東平野が限り無く広がり、澄み切った冬の日には地平線の彼方に白い富士山が観望出来た。夜になると眼下に伊勢崎、前橋辺りの値千金の夜景が浮かび上がり、この世のものとは思えぬ幻想の空間が出現するのである。

 小生が二十四世帯の開拓団の一人に加わり此の地に入植したのは昭和二十二年、春はまだ浅く小雪の舞う三月の初めのことであった。

 一所帯当たり一町歩であるが、国・県有地などの公有山野の払い下げを受けて、開拓団員になるためには、それなりの資格やら条件を満たすことが必要であった。例えば資格としては…海外からの引き揚げ者であること、農家の二・三男であること…など。また条件としては…五体強健にして営農に徹する意志があること、妻帯者であること、自立できるまでの間、自活の保障が得られること…などであった。

 小生にはその資格、条件とやらの何れにも適合するものが存在しない…所謂、無資格者なのである。当然のことながら、開拓事業を所轄する県の農政課?でクレームがついたらしい。

 「桐生工専を出た者が何故に開拓者になるのか…」その動機が異常であると判断され

 「生涯を農業で身を立て、成功するとは考えられぬ…」というのである。常識的には尤もなことである。それでは何故、[資格と条件]に適合せぬ小生が開拓者の仲間入りが出来たのか…今でも不審の念が、当時のことを追憶するたびに思い出される。

 開拓団の正式名称は[大胡金丸協同開拓就農組合]と称した。組合員の構成は組合長以下海外在住者・満蒙開拓移民の引き揚げ者が主体で、他に数人の農家出身の二・三男坊と異端者の小生を加えて計二十五町歩(約25ヘクタール)であった。

 入植には妻帯者たるべきことが原則で、小生はじめ独身者は速やかに妻帯することが条件であった。

 この開拓団を統率する団長(正式には組合長)は北爪Nといい当時33才、年が小生とは一回り以上も離れた、母方の従兄である。畏敬する従兄Nは、多少血の気が多く、戦前より青雲の志を抱いて支那大陸に渡り、山東省青島の市公署(市役所)に勤めていた。敗戦に夢破れて帰国するや、新天地の開拓に新たなる夢と情熱を掛けていた。その目指す新天地が赤城山麓であったのである。

 従兄のNは折にふれ、新天地開拓の抱負とその青写真を、小生に熱っぽく語り聞かせたものだ。

 その頃、小生は日進電機に就職していて、工場長との反りが合わず、次第に険悪の溝が深まりつつあった。そしてほとほと宮仕えには、嫌気がさしていた時でもあった。そんなある日…

 「これからの日本の農業は米や麦の耕作や、養蚕だけでは成り立たなくなる。生産から加工、地域の特性を生かした産業…例えば酪農とか果樹の植栽、綿羊の飼育などを協同して行い、付加価値の高い形態に持っていく、つまり…今までの百姓の殻を捨てて、180度の発想の転換が必要なんだ…」と、畏敬する従兄は持論を前置きしてから

 「赤城山麓は…ニュージーランドと環境がよく似ている。まさに綿羊の飼育に最適な条件を備えている。数百頭の放牧は可能だろう…。

原毛から毛糸の加工、さらにホームスパン布地の生産迄を一貫して行うようにする…これが俺の夢なのだ。それにはお主の協力が要るのだ…」と、既に小生の同意を前提としての言い方であった。

 小生が赤城入山を決意したのは、(俺には宮仕えには向かぬ男…)とはっきり自覚したこと。更に従兄Nの抜きがたい情熱にいたく共鳴し、[人生意気に感じた]からであった。

 小生が入植者の一員になれたのは、従兄Nの、関係県議に対する得意の“根回し”によるものがあった…と考えられなくもない。

 Nの他に開拓団の中に、小生の従兄弟が二人いた。いずれも農家の二、三男で、その一人は団長Nの実弟で北爪Tといい、小生より一つ年長の従兄である。もう一人は二つ年下の同じく母方の従弟で細井Mという。

 Tは牛の如く逞しく、忍従にして勤勉な性格で、入植当時、彼には随分と厄介になったものである。

 一方のMは、従兄弟ながらTとは対照的であった。六尺の長軀に童顔、気質は短慮にして些か粗暴。親・兄弟も腫れ物に触るが如くに接したため、長ずるに及んで増長し、放蕩無頼の徒に成長してしまった。二の腕に[○○之命]などと墨を入れ、一ぱしのヤクザを気取っていた。

 そんな男を有無を言わせず…開拓地へ引き入れたのは団長のNであった。ヤクザのMも、その従兄Nには頭が上がらず、うわべには恭順の体を装っていた。

 そんな訳で、不在がちな団長に代わり…Tと小生は、放蕩児Mの監視役を仰せつかった。そんなMも、何故か小生には従順であった。

 さて、何はともあれ開墾を開始する先に、まず寝起きする当座の住まいを作らねばならない。それから銘々にとって一番の関心事である土地の所有権を、早くも確かなものにすることであった。

 既に土地の区画割は県側の線引きで、杭打ちは完了し、松の伐採が始まっていた。後はそれを如何に公平に配分するか…である。

 全員による合議の末、土地の割り当ては、籤引きで決めることにした。抽選の結果、小生の土地は籤運よく開拓地のほぼ中央、従兄弟のTは中央よりやや上手、Mは一番下の南端の土地を引き当てた。

 松に覆われた開拓地は南北に延びる丘陵の台地で、台地の東側はなだらかな斜面をなしてV字状の渓谷になっていた。

 渓谷には、土地の人が(一杯清水)と呼び清水の湧き出る摺り鉢状の窪があった。窪の底は一反分(300坪)程の平坦部を形成し、一面に熊笹や茅が生い茂っていた。水が手の届く所にあり、仮小屋を建て日常の生活を営みながら、開墾地に通うには格好の場所であった。

 因に、この窪地から小生の開墾地までの距離は凡そ100メートル位。従弟のMの土地までは5〜600メートルは離れていた。早速、清水を中心に銘々の巣作りが始まる。

 小屋作りに具合のよい水辺の平坦部は、限られた戸数を建てる面積しかなく、其処は、所帯持ちでしかも家族構成の多い順に占められることになる。必然的に、所帯道具もろくに無い独身者は、立地条件も水の便の悪い傾斜地に追い遣られる。

 小生は、同じ不便をかこつなら、いっそのこと見晴らしの効く斜面の最上段に居を構えることにした。

 粘土質の土手を切り崩して、三坪程の宅地を造成した。その位置からは関東平野が睥睨出来た。

 建築資材は開墾地から切り出した皮付の松丸太である。今でいうログハウスである。

 建坪は2坪、北側は土壁をそのまま活かし、なるべく手をかけぬ省力型にすることにした。

 素材が曲のある丸太なので、外壁は隙間だらけであった。その隙間には風の侵入を防ぐために、茅や薄を束ねて、丹念に埋め込んだ。屋根は片屋根で、垂木は丸太を並べ、その上に20センチ位の厚さに茅・薄を敷いた。雨のことは念頭になく、外観にのみ拘って屋根勾配を3寸以下にしたのは…我ながら不覚であった。この不覚が…悔いを後々に残すことになった。

 出入り口と、南に開けた半窓には筵を垂らした。半窓の筵を巻き上げ

 「香魯峰の雪は筵をかかげてみる…」などと…清少納言の枕草子の一節を思い出し、ロマンチックに風雅を気取ったものだ。

 ワンルームを半分に仕切り、戸口側を土間に、奥の半分は丸太を組んで上げ床にした。丸太の床には畳代わりに藁を敷き詰め、その上にござを敷いて、弾力のある寝台兼用の居間にした。

 従弟のMもこれに倣って、我が新居の横隣にほぼ同様の丸太小屋を築いた。が…彼は屋根を切妻にして5寸の勾配にした。生活の知恵で…雨に弱い藁葺き屋根のことを本能的に会得していたのである。

 長雨で、我が家の雨もりがひどい時には急いで彼の小屋に避難したものである。こんな共同生活を共にしているうちに、Mは小生に対して、以前に増して親しみを示すようになっていた。

 そしてある晩のこと、Mの処で白米の夕飯(彼は時々米だけを食する)をよばれていた時…

 「Tさんの奴、この頃俺のことを細井、細井…と他人扱いにして、態度も言葉づかいも、やけに他人行儀になったような気がして…ならねぇ。ヒロシさん(小生のこと)は…そう思わないかね?」と、何やらTに対して[忿懣遣るかたなし]と言った口振りで語り掛けたことがあった。

 小生も最近のTの言動には、以前と違うよそよそしさを感じぬではなかったが…その時は、Mに

 「Tには組合長の弟という立場があるんだ。俺たちだって組合長とは従兄弟なんだ。従兄弟同士が余り馴れ馴れしくするのは、他の組合員に…組合長としての気遣いがある。それを考えて、恐らくTに言動を慎むようにと…注意したのかも知れねぇな。それに、組合長は不在のことが多い…その間、俺たちを監視する役を申し渡されているのだと思う。恐らくTの一挙手、一頭足が組合員に注視されていると見ていい、それを思うとTの言動にも合点がいく…」と、Tの立場になって答えておいた。

 「なるほど…ヒロシさんの言うのが本当かもしれねぇな…」Mも納得したようであった。

 さて、どうにか塒の格好がつくと、早速本業の開墾に掛からねばならぬ。

 山中の生活は野生の動物と同じで、身なりなど気にしなければ、食料の他には、これといって現金を使うこともない。入山のとき準備した軍資金を上手にやり繰りすれば半年位は持ちこたえられる筈…と安易な胸算用を弾いていた。だが当時は未だ肝心の食料の調達が容易な時でなく、一月の配給米はやっと一週間しか持たない。足らずめを闇の食料で補うとすれば、軍資金など一月も持たぬ…不図そんな不安が脳裏を掠めた。小生には他の従兄弟達のように食料の援助を仰ぐ後ろ楯は無い。

 入植の条件の[自立できるまでの間、自活の保証が得られること]という意味のもつ重さをしみじみと感じた。小生の家内事情を承知している…組合長のNが

 「困ったことがあったら何でも相談しろよ」と言ってくれはするが…

 男一匹、志を抱いて郷関を出たからには、他人の援助に縋ることには、何となく拘りがあった。

 然ればと言って“武士は食わねど高楊枝”などと、気取って居られる場合では無いので、開墾の鍬を振るう合間にも“あれやこれや”と現金収入の方策に、思案を巡らしていたものだ。

 馬鈴薯、陸稲の播種の時期も迫っていた。誰しも、一鍬でも多く地面を起こし、植えつけ面積を広げたいと願う思いは同じで、日の出と共に自分達の領地に出かけ、日没と共に塒に帰る日課が続く。

 独り者は、開拓の傍ら炊事・洗濯など、家事諸々を一人でこなさねばならず、思うように仕事は捗らない。戦時中のような[日、月、火、水、木、金、金]の勤労が一週間も続くと、両手の掌の豆は潰れ、体中の筋肉はしこり、小便は黄色く濁る。栄養失調なのか…伸び放題の蓬髪と無精髭は、茶褐色に変色してくる。

 疲労が重なると食欲も失せて、時々、寝床に棒のように倒れ込んで…そのまま寝こんでしまいたくなる。

 入植の条件に[妻帯者であること…]の一項があるが、身に染みて実感できた。

 だが、その納得した実感とは裏腹に、あまりにも落魄した今の生活と、裏ぶれ果てた己が姿を打ち眺めるにつけ…妻を娶ることなど

夢のまた夢であった。

 (物好きな学校出の青二才に、開墾の難行・苦行がいつまでも勤まる筈がない。そのうち尻尾を巻いて逃げ出すに違いない…)大方の好奇の目が、この俺に注がれている…と思うと、今ここで弱音を吐いたら(それ見たことか…)と物笑いの種になること必定である。だから、例え今の仕事がどんなに辛くとも、音を上げることは、己の良心と意地が許さない。                  

 開墾に使う大鍬は、普通の鍬に比べて歯幅が広く、頑丈で重い。芝根や篠根がびっしりtpはびこった表土を短冊型に切り取って、掘り起こしてはその土塊をほぐす。開墾とは、一鍬一鍬に力を込めて大地と格闘する、単調で忍耐の労働である。小生の体力では一日10坪の開墾が限界であった。

 開墾を始めて二月が過ぎた。どうにか、二反分(600坪)の新地を掘り起こした。所々、掘り起こした松の根株があり、正味の耕作面積は500坪に満たぬ。

 遅咲きの山の桜が咲き始めた頃が…種まきのシーズンであった。開墾の作業は、しばし中断する。掘り出され、干上がった篠根や芝草の根は、山積みにして火をかけて焼く。その残灰がカリ肥料になるのだという。夕暮れの山肌に紫煙が棚引く様は、なぜか幼い頃の郷愁を誘う。

 耕地の凡そ一反分に、陸稲の種を蒔いた。残りの耕地には馬鈴薯の種芋をうえたり、先輩のすることを身倣って、玉蜀黍や大豆なども蒔き付けた。何となく一段落した気分になる。

 この頃から、小生の身の回りが開墾の仕事とは別な事で…何となく、忙しくなった。

 ある日、組合長のNに伴われて、この部落の長老・金子某氏の屋敷に連れて行かれた。屋敷とは名ばかりで、竹林に包まれた、古ぼけた隠居屋であった。

 金子老人は大胡町の町会議員で、海千山千の古狸だという。而も、我々開拓団を金丸に誘致した実力者だという。金子老人は、組合長のNに、小生に関わることで何事か…依頼があるらしい。何やら嫌な予感がしてならぬ…。

 

    二 見合い顛末記

 

 古狸老人の年の頃はさっぱり見当がつかない。毬栗頭は胡麻塩で、薄暗い電灯の光に浮き出した日焼けした顔には、深い幾条もの皺が刻まれていた。

 白いものが目立つ長い眉毛の下に、翁の面のような眼は…笑ってはいるが、電灯の光の具合か炯々たる光を帯びていた。声はしわがれていて、低音であるが、語る口調は政治家らしく、一語一語に力が篭る。

 老人は一人暮らしらしく、さして広くない屋敷には人の気配は感じられなかった。薄暗く燻すんではいるが電灯の下で、炭団火鉢を囲み…金子議員と組合長の従兄と小生との三者会談は…小一時間に及んだ。といっても小生が口を挟む余地は殆ど無く、古狸老人の一方的な話に従兄のNが時々合いの手を入れるだけであった。

 その電灯の下で交わされた話とは、およそ次のようなものだった。

 「藪から棒のような話で、返事は今直ぐということには…まいらぬと思いますが…」と老人は切り出す。

 「実はオギワラ君を私の避暑として、暫く拝借したいと思いましてな、これは直接本人の意向を伺う前に、組合長さんの承諾を頂かねば、物の道理が通りませんので、共々のご足労を煩わせたわけです」と議員先生の口から、思いも及ばぬ言葉が吐き出された。

 (人並みの宮仕えが出来ぬこの俺に、田舎議員の秘書など勤まる訳がない。冗談にもいい加減にしてくれ!)と、小生は腹の中でわめきつつ…従兄のNを見遣る。組合長のNは、暫し思案の間を置いて

 「この男は未だ畑仕事も半人前で、開墾のほうも他の者より大分遅れているのです。それに…」と言いかけて次の言葉を濁してしまった。(それに…)の言葉の後は(些か問題のある男なので、開墾にあまり停滞が生じると関係者の覚えが一層悪い…)と言いたかった…のであろう。その言葉を引き取るように

 「それはわしも当事者として、重々心得ておるつもりです。わしの演説会の原稿の整理や、関係者と会うときだけ、わしの秘書として振るもうてもらえばええんじゃ。それも大概夜で、毎日というわけじゃない…」などと、この俺様を、多寡が田舎議員のカバン持ちに仕立てる積りでいるらしい。

 いよいよ持ち前の“勘の虫”が目を覚まし騒ぎ始めた。従兄のNがいなかったら、憤然とその場を蹴っていたろう。

 「正直言って北爪さん!大仰の話だが、わしは大胡金丸のために政治生命を賭けているんじゃ。金丸は面積こそ広いが殆ど山林ばかりで、町からは遠く…人口が少ないため分校も作れず、子供たちは一里以上もある山道を歩いて、町まで通わなければならないでいる。わしが開拓地の誘致に…積極的に動いたのは、この部落の活性化と分校の設置に夢を掛けていたからで、このことは先刻北爪さんもご承知のはず…」老人の語り口に一段と熱気がこもる。

 一介の開拓団員の端くれに過ぎぬ小生は、開拓地が何故に金丸に誘致されたのか、その政治的背景の一端を初めて垣間見た思いがした。

 「それに付きましては…私も先生と同じ立場でして、全く同感なのですが、それとこの男とどう結びつくのか?、開拓者としては未熟のオギワラを指名する理由が…もう一つ、納得がまいりませんし、組合長の立場としても、この男が開拓者として適格か否か…不安があるのですょ」と従兄のNは明らかに戸惑っているような対応であった。

 「組合長さん、はっきり言ってわしの腹には…秘書には独身者の、この人しか居ない。多分オギワラ君に為にならぬ話ではない積りです。返事のほうは今直ぐとは言いません、考えて見てください…」と半ば一方的に言い切って胡麻塩頭を下げた。Nい向かってか、小生に対してか…。

 会話の内容を斟酌すると、町議会対策や議会関係者の協力を得るには、小生を秘書に仕立てることが好都合だ…と考えている…のかもしれない。

 古狸老人は背中を丸め、前屈みで歩くので五尺そこそこの小柄に映る。くたびれた中折れ帽子に色褪せたよれよれの洋服を纏った姿は、傍目にも…風采が上がらぬ田舎紳士である。若い書生を従えて、己の存在を誇張したい願いも…無いとも言い切れぬ。

 だが一方で、老人が最後に、断定的に言ったあの言葉の裏には…何か(別の彼の思惑)が潜んでいるような気がして、ある種の不安が残った。

 (田舎議員のカバン持ちなど…滑稽じみた道化師以外の何者でもない。俺には生得…政治家くらい性に合わぬものはない)ことを従兄のNには念を押しておいた。

 それから二、三日の間を置いて、従兄のNは熟慮の結論を小生に…斯くの如く宣告した。

 「お前には…これからは開拓とは別に俺の代わりになってしてもらわねばならぬ仕事がある…」と、日頃見せたことの無い難しい顔をして

 「お前の気持ちは分かるが、この際条件抜きで金子翁の申し出を受けてくれぬか。電灯のこと、水のことそれに分校のことも…今は、議会に顔の効く金子議員の政治手腕を借りなければならない事が多い。お前には一町歩の開墾は無理なことは初めから解かっていたことだが、自給自足するだけの畑地と屋敷分の五反歩だけはなんとしてでも確保しておくこと。残りの五反歩については荻原名義にして、開拓団共有の耕作地にして希望者に開拓させてもよし、あるいは綿羊の放牧地にしてもよいと考えている…」と。

 こうした考えは、恐らく当初から彼の胸の内に有ったことで、たまたまそれを口にするに丁度いいチャンスだったのかも知れぬ。

 「それにな、これは他所から耳にした風聞だが…老人はお前に“嫁の口を世話したい”

心づもりがあるらしい。妻を娶る娶らぬはお主前自身のことだから、俺がどうのこうのと口を挟む問題ではない。…だが、このことだけは心掛けて置いてもらいたいのだ。生涯の伴侶を決めるのだから、目先の利害に目を眩ませて悔いを千歳に残すことはするな。あくまで自分の信念に従って…慎重に対処することだ。」と諭す。相手の術中に嵌るな…という従兄の遠回しの親心であろう。

 人それぞれに、初対面の時から何となく、うまの合う者と会わぬ奴がいるものだ。己の存在を誇示するような金子議員は、小生にとってまさに後者の部類であった。それはそれとして、従兄のNのたっての要望もあり、数日後古狸老人に…「お依頼の件…しかとお受けします…」と、組合長を通して返事をした。

 その頃の小生は、石器時代に戻って古代人の生活をエンジョイしていたので、開拓者の条件であった“妻帯者たるべきこと”の条項には抵触するが、結婚する気持ちはなかった。いや…到底、結婚できる状況ではなかったのである。

 古狸老人には(今のところ風聞だけで…まことの理由は知るべくもないが…何らかの目的に、俺を利用しようとしている)という疑念が、黒い霧のように小生の心を包んでいた。よほど眉を唾で湿して掛からぬと、狸に化かされると…褌の紐を締め直す。

 それから、さ程間を置かずして、噂の“お嫁さんの話”が、正式に持ちこまれたことを…従兄のNから聞かされた。

 小生とて、学生時代より極道にかけては、人後に落ちぬ(つわもの)の自負はあった。その時は…話に乗ったと見せかけ、逆手を取って、古狸の鼻を開かしてやろうかとも…密かに思った。

 五月に入って間もなく、端午の節句の前後だったと思う。狸老人から

 「明後日…後援会の有力者と会うので同行して欲しい…」の連絡があった。が…その時は、見合いらしきことは、一言も無かった。

 多少意気込んでいたので安堵した反面、拍子抜けした気も…無きにしも非ずであった。

 随行は、秘書の名目であるからそれなりの体裁は整えなければならぬ。むさくるしい蓬髪と無精髭の手入れは従兄のTに頼んだ。Tは軍隊仕込みの、本職顔負けの理髪の腕を持っていた。箒のように逆立った毛髪に椿油を擦り込み、櫛で撫で付けてみたが、寝癖のついた髪の毛はなかなか様にならなかった。

 会社勤めをしていた時分に拵えてあった一丁羅の冬の背広に身を包み、議員秘書の初の出勤である。

 大胡の町まで一里余の道程の往復は、勿論徒歩であった。その行き帰りとも議員殿のカバンを持つことはしなかった。何となれば無報酬の、雇われ秘書であったから…。

 町について最初に訪れたのは町役場であった。狸議員の用件は何か?目ざす相手は誰か?…小生を顧みることもなく、すたすたとカウンターの中に入りこみ、姿が何処かで消えた。

 新米の秘書にはこうした場合、どう対処すべきか要領を得ないまま、カウンター前のベンチに腰を下ろし、ひたすら老人が現れるのを待つ。待つこと30分ほどで古狸が姿を見せた。相もかわらぬ“一人合点承知の助”を決め込む古狸議員は

 「そんな所で君は何ボンヤリしていたんだね…関係の職員に引き合わせようと思ったら、君の姿が見当たらぬではないか…」と言う。そんなことでは秘書は勤まらぬ…とでも言いたそうな顔であった。

 空とぼけた…そうした狸の無神経さが、いちいち小生の勘に触るのである。「今に見ていろ…」と無言の抵抗で答えた。

 町役場から程遠くない所に、大通りに面して目立つ看板を掲げた肉屋があった。店主の名を清水某といい、ずんぐりむっくりの体軀をした恰幅の良い風貌の店主であった。本業は家畜賞で、金子議員とは古い付き合いで後援会の有力者でもあった。

 店の入り口から入り、土間になった狭い通路を奥に抜けると広い敷地があり、立ち木の中に二階造りの母屋があった。此処は表の通りから隔離された閑静な空間であった。

 金子議員と駆け出しの秘書は、母屋の瀟洒な客間に通された。そこで改めて金子老人が、此の家の主に小生を紹介した。此の家の主は、古狸老人と他愛ない世間話を交わしながらも、間合いに、時々若い秘書に目線を送り、気安く話しかけ…秘書たる小生の、故事来歴を質したがる。

 ここに至って、遅まきながら…これは“見合いかもしれぬ”と、古狸が演出したお膳立てであることに気がついた。かくなる上は、成り行きに任せるしかないと覚悟を決める。

 やおら、しゃなりしゃなりの形容とはおよそ縁遠いが、肥満を持て余し気味の体型の女性が二人…畳を軋ませて入来した。一人は茶器を、一人は湯飲み茶碗を乗せた盆を捧げ持っていた。鼻陵が、豊満な赤い頬の間に沈んだ…共通の顔立ちは明らかに母子である。まじまじと、母と娘の顔を見遣ったのは此の時だけであった。

 茶碗を携えた地味な衣装の、以外に若い(そう見えた)女が母、湯茶を持つ華やかな衣装の主が、当の娘である。ボリューム豊かなことはさて置くことにして、面上に並ぶ目鼻立ちの一つ一つは尋常なのだが…その配置に愛嬌があり、まさしく“おかめ”の面相であった。娘はどう見ても貧弱な小生よりも貫禄があり、年が上…に見えた。

 蓼食う虫も好き好き、ただ小生の好みではない…というだけで、見合いの相手と思わなければ肉付きの良い福相な娘である。この場はあくまでも“見合いの席ではない”と割り切って振る舞う腹であった。

 目の前に置かれた湯飲み茶碗の蓋を開けると、白湯に桜の花が一輪浮いていた。なかなか風雅なもてなしであるが、このまま飲むものか、それとも花を残して飲むものなのか…暫しためらった。が…人に聞くのも可笑しな話なので、目をつむり一思いに飲み干す。舌に微かに塩の味が残った。

 昼時のこと、昼食の準備が用意されていた。馳走に与ってよいものなのか…この縁談は断わるつもりの小生は迷った。ここは小生の一存では判断のつかぬことで、狸老人の意のままに行動を共にするしかない。老人は自若として腰を上げぬ。秘書の自分はそれに倣うしかない。

 膳の上には、絶えて久しく口にしたことのない白米と、惣菜は肉の珍品であった。小生は催眠術に掛かったように、不覚にも飢えた餓鬼の如く食い漁った。清水宅を辞したのは二時近くであった。

 「気に入ったかね?」帰路松並木に差し掛かってから狸老人は二、三歩後ろに続く小生に声を掛けてよこした。勿論清水宅の過分なもてなしと、娘のことが…であった。

 「あのご馳走には驚きましたよ。何年も忘れていた味で…有難いやら、情けないやらで涙が出そうでした」そろそろ“狐狸合戦”の幕が開いたようだ。然れば、小生は空惚けて…そう答えた。

 「あの娘さんは?…」…どうだったかね?

と小生の腹の中が気になる老人。後ろからではその時の老人の表情は解からなかった。

 「……」小生は黙して、「ノー」と言う返事に変えた。暫く、重苦しい沈黙が流れた。

 「君は娘の出した…あの桜湯を飲み干したようだったね?」と老人の口から妙なことを尋ねられた。

 「えぇ…、一思いに飲み干しましたよ…それが何か?」

 「この辺りの風習で、桜湯に口をつけることは…縁談を承知したことになるのだ…」老人は予想だにもしていなかったことを宣告する。これには流石の小生…開いた口が塞がらなかった。

 「そんなこと…俺は知りませんでしたよ。第一、見合いのことだって俺は聞いちゃいませんでしたし…」と、小生は向きになって抗弁をした。が、我ながら…その抗弁は負け犬の遠吠えの泣き声でしかなかった。如何にも古狸が仕掛けそうな老獪な手口に呆れて…憮然と天を仰いだ。

 見合いの席だということは、部屋に漂う雰囲気で気がついた。だが見合いの時に“桜湯の風習”があったとは知る由もなかった。老人も[一言…耳打ちくらいは、当然してくれてもよい筈]ではないか。

 これも高邁な奇襲戦法とすれば、初戦は、世故にたけた古狸の見事な作戦勝ち、当方の完敗であった。

 斯くなっては、世情に疎く、直情多感な若者に残された手段は、[虚構の口実]を掲げてでも、敵陣を中央突破するしかない…と思い定めた。

 だが…これが若者の純情というものか?遣り場のない青春の哀愁のようなものが、己の胸中にしこりとなって残り…消えなかった。

 ペテンに懸かった、愚かな風来坊は未だ我慢できよう。が…承知の上で見合いし、〈所の風習(桜湯の)では成立する筈の縁談〉が無粋な男の所業によって、欺かれた女が…いとも哀れである。

 この結果の本当の責任は、一体誰が負うべきなのか…?。小生だけが負って済む問題ではない…ような気がする。見合いは、所詮〈俺の性には合わぬ…〉ことを悟った一幕であった。

 

    三 諸 行 無 常

 

 時の流れは…諸行無常を嘆き悲しむ人の心を癒す妙薬である。

 後味の悪い…くだんのこと(見合いの一件)があって以来、胸にわだかまっていた“しこり”も、いつの間にやら消えていた。

 山麓の日の出は早く、かつ、日没までの時間は長い。春から夏にかけて、一日にして移り変わる自然の営みは、“目にはさやかに見えねども”…匂いや肌で感じ取ることができた。今(初夏)の頃は、空は低く関東平野を仕切る地平線は、薄墨を垂らし込んだような水墨画の中に埋没し、茶色がかったグレーの鍋割の山肌は山葵(わさび)色から新緑へと色彩を転じていた。

未だに、“一杯清水”の窪地に陣取った雛壇式部落から通いながらの…我々開拓者の営みには、これといった変化はない。敢えて目に見える変化といえば、日の長さと共に労働時間が増えたことに伴って、人手の多い篤農家では…それなりに耕地面積は拡張され、独身者(個人差はあるけれど)のものとは大分差が広がっていた…ことである。

 開墾の腕は半人前の小生と、放蕩癖の抜け切らぬ後生楽な従弟Mの耕地面積には、目立った変化はない。

見合いの一件がまずい思いを残して落着し、古狸議員のカバン持ちも…自然消滅のかたちで開放された。

さてこれから腰を据えて開墾に取り組まねばと思っていた矢先…

[父親の容態が悪化した…急ぎ戻れ…]の知らせがもたらされた。

よく…“草ぼきの頃は人間の体調が変わるものだ”…と聞いていたので、病床にある父親のことが気にはなっていた。

もともと胃腸が弱く、ここ幾年となく薬籠に身を委ねていた父であった。そんな父が、長くて暗い戦争の混乱期を必死にくぐり抜け、終戦の土壇場で…衣・食・住の全てを空襲で失い果てた。その時既に、父は生命に宿るエネルギーの半分は、消耗してしまっていたのである。

思えば…当時、家族は三所帯に分散して、夫々に独立した生活を…余儀なくされていた。

両親は、8月15日の空襲で家を失って以来、借間していた官庁舎の宿直室を、翌年(21年)の三月一杯で引き払った。

 転居した先は、焼け跡に建てられた八畳一間のバラック小屋である。この小屋は、元の地主兼家主(大家)が終戦直後に建てた仮設住宅である。

 家主は、老いたりとはいえ、未だかくしゃくたる大工の棟梁で、間もなく隣接地(焼ける前は我が家がそこにあった)に本建築の住宅を新築して移り、住んだ。その空いた仮設住宅に、家主にとって馴染み深い、昔の隣人を招き住まわせたのである。

 同じ年の4月、父親は県庁の土木部に転勤になった。伊勢崎から前橋までを、汽車による通勤が始まったわけで、環境が一変したことになる。父にとっては、初めて体験する通勤である。

 その頃小生は、関東産業を退社して、日進電気に入社、つつがなく宮仕えに甘んじていた。別居生活のため、たまに会う父親であったが…その頃の父は未だ、少量ながら好きな酒を飲み、紙たばこを半分に千切って…煙管に詰め、旨そうに喫していたのを思い出す。

 矢張り、体力が衰えていた父には毎日の通勤が堪えたのか、持病が悪化、翌22年の年が明けると、目に見えて衰弱し、時々勤めを休み、床中で横臥することが多くなった。

 それから間もなくして…現職官吏であった父は休職願いを出し、病気療養に専念することになった。

 その事(父の病が意外に深い)を承知していながら…小生は、母の慰留を振り切って赤城山に入植したのである。此のことが心の枷(かせ)となって、後々まで親に対する負い目になる。

 更に…親父の症状が悪化したため、小生が呼びつけられたという…ことであった。

 この時、家族の話では…往診に立ち会った二人の医師の説明によると、重度の胃潰瘍と腸の不活性化を伴い、予断を許さぬ状態という事であったが…二人の医師は何やら専門語(ドイツ語であろう)で首を傾げつつ囁きあったという。だから今でも、真の病名は不明のままである。

 現代とは違い、当時は医術といい、薬剤といい、重病や難病を治癒するには…おのずからに限界があった。食糧事情も最悪の時代で、活力を維持する源の米の支給さえ事欠く始末、精が付く物といえば、せいぜい鶏卵位であった。そうした苦境の中、病床の親父の、全ての面倒は家族に任せぱなしであった。

 八畳一間だけの病間は、付き添いの母や姉妹達が雑魚寝の状態であった。看護の役には立たぬ男の存在などは…むしろ手足まといであった。

 その後暫く、父の容体は小康を保っていた。

 小生は山に在って…、仕事の合間に折を見ては、燃木用の松の枝を束ねた荷駄を積んだリヤカーを引いて、病床に伺候した。徒歩で往復十里の道程は、まる一日掛かりの仕事である。が…そうすることが、今の自分に出来るせめてもの奉仕であり、何の役にも立たぬ男の…自責の思いに対する言い訳でもあった。

 7月1日朝、高校2年の次弟が汗だくになって、山道を自転車を漕いで馳せ参じ…

 「父さんが…父さんが死んだ…」と告げ、自転車を投げ出しその場にもつれるように崩れた。疲労困憊の極みに達していたのである。

 この日の近いことは覚悟はしていたが、一瞬、顔面から血の気が引くのが分った。

 弟も朝飯は未だであった。至急に実家に急がねばならぬが、何はともあれ、この事を従兄弟連中には告げておかねばならぬと思った。

 生憎、従兄(組合長)のNは不在であった。何処かでこの訃報を知れば、駆けつける筈である。

 従兄弟のTとMには…この旨を伝えた。Tは気を利かせ、すぐに…残りの麦飯ではあったが、朝食の支度を整えてくれ

 「こんなものしかねぇが…兎も角、腹ごしらえして、急いで帰れや…。俺たちも、後から駆けつける…」と言う。こんなとき身内は有難いものだ。

 下山には自分が自転車のハンドルを握り、弟を尻に乗せた。

 ペダルを踏むまでもなく自然の惰性に任せて坂道を下った。加速がつきスピードがあがり過ぎたので、慌ててブレーキを掛けた。が…ブレーキは「キィーキィ」悲鳴を上げて泣くが、ブレーキは効かずスピードは衰えない。

 気がせくあまり、下り坂のことも重量オーバーのことも頭になく、初期からの速度制御を怠っていたのである。危険を肌に感じたので、咄嗟に弟に〈飛び降りるように〉命じた。

 車から飛び離れた弟は慣性で前に転倒したが、柔道の受け身の心得があったので一回転して…立ち上がり事無きを得たようだ。山道は雨水の通路でもあり、窪んでいるので枯れ松葉が堆積していたのも幸いした。

 自転車は土手に乗り上げ、太い松の幹に追突して止まった。その弾みで小生…空に投げ出され地面に肩から落ちた。昔、身に付けた柔道の受け身の術は、咄嗟に発揮されるもので、さしたる怪我はなかった。二人とも無事であったのは奇跡であった。

 「死んだ親父の霊魂が俺たちを見守ってくれたのかも知れるな…」と、しみじみ小生が呟くと…

 「僕も…同じことを考えていた…」ぽつりと、弟は言う。

 自転車は親父が愛用していた二十八インチの舶来物であった。追突の衝撃でハンドルは30度ばかり捻られ、前輪がわずかながら湾曲していた。ハンドルの捻りはわけなく矯正できたが、前輪の修正は無理であった。

 凸凹道を走るような振動を全身に受けながらも無事わが家に辿りついた。

 それからのことは…只夢中の一言で、記述するには余りにも記憶が空白である。その希薄な記憶の中に、鮮明に思い出されることは…大家の老夫婦が親身になって葬儀を取り仕切ってくれたこと、父が現職であった故に関係者の参列者が多く、真夏の炎天下、路地裏の粗末なバラック小屋を取り巻くように、黒い喪服の人垣が埋めつくした光景…である。

 父の葬儀が一段落して、小生が赤城山に戻ったのは一週間余の後であった。

 大胡の町から金丸の開拓地に登る途中に堀越という地名の字(あざ)がある。そこに[山口姓]を名のる大きな農家の親戚がある。小生が金丸に入植するまでは、一度も尋ねたことはなかったが、山口家は母方の、近しい親戚である。

 山口家の“小母さん”というのが、小生の母と同い年で、気質は母と丸で違うが…気の合った従姉妹であった。そんな関係で小生が金丸に、住み着くようになってからは、通り掛けにたまさか寄っては、食料を無心したり融通してもらったものだ。

 この度の葬儀のことで、母の伝言でもあり、それを…もっけの幸いに山口家に立ち寄った。気の良い小母さんだから、何がしかの食料を頂戴する…さもしい下心があった。おそらく、我が山小屋には食する糧は何もない…からである。

山口家の小母さんは色白で人形のように整った…鄙には希な、灰汁(あく)抜けした婦人である。若かりし頃は人も羨む、深窓の麗人であったに違いない。その婿殿は、対照的に色が黒く、無口で、頑強そうな男であった。

口の悪い…我がお袋の、堀越の小母さんに対する批評は…

「堀越の小母さんは、大百姓の家付き娘で、一人っ子だったから…昔からお嬢さま顔で納まって居たものさ。もともと体の弱い人で、おっとり者だから…娘の頃は、滅多に野良仕事なんかしたことがない人だった。普通の農家の嫁だったら、一日だって勤まらなかっただろうよ…」である。

成程、おっとりした小母さんで、小生に対する心使いも鷹揚で…温和な人柄が、自然と滲み出るのも育ちの所以であろう。

「この度は…大変なことだったねぇー、ほんとに…」と、言葉すくなの挨拶に心情が籠もる。

「今夜は…泊まってゆっくり休んでゆくがいい…気疲れもあったろうし、暑い盛りに…此処まで歩くだけでも大変なことだ…泊まっておゆき。な?…そうするがいい…」とも言ってくれた。

開拓地の山小屋の方も、一週間以上方ってあるので、何としても今日中には帰るつもりであった。

 

こんな会話の途中に、何処で何をしていたのか?山口家の長女で、セーラー服のT子が忽然と現れた。T子は大間々女子高の2年生の筈である。

小母さんの子供には似つかわしくない顔立ちで、父親譲りの…色の浅黒い、至極健康そうな娘である。彼女は5人兄弟の真ん中で、たった一人の女の子である。

未だ学校にいるはずの時間だが?と訝しく思っていると…

「ヒロシさん、丁度好い時に現れてくれたわ…」と言う。これまた明朗闊達で邪気がない。

明日から期末試験なので今日は半ドンだという…ことで納得がいった。

小生の出現は彼女にとっては、まさにグッド・タイミングであったのである。何となれば…試験勉強には遠慮の要らぬ家庭教師が目の前に居たのであるから…。彼女にとっては鴨が葱を背負って遣ってきたようなものである。

前にも二度ほど、彼女の数学と何か?を見てやったことがある。彼女は頭の回転が早く、飲み込みが良いので教え甲斐のある娘であった。恐らく学校の成績も上位クラスなのであろう。男の兄弟衆は一人娘のT子に一目置いているようであった。

ここで点数を稼いで置けば、当分の食料は補給出来ると…咄嗟にそんな〈さもしい〉打算がはたらく。“貧すれば鈍する”とは、まさにこのことであろう。

泊まる口実も出来た事ではあるし、翌朝、涼気のあるうちに早立ちしたほうが、むしろ仕事の能率が上がる…そんな思慮も働いた。

こんな成り行きで、この晩は山口家に厄介になることになった。その代わり夕飯を挟んで5、6時間程、たっぷりとT子の家庭教師を務めた。

小生にとっては、開墾より、この方が…はるかに楽な仕事であった。

翌朝、小母さんは目籠に五升ばかりの米のほかに、馬鈴薯やら時季の野菜を一杯に詰めて、小生の背中に背負わせてくれた。肩に掛かる目籠の重みが心地好く、重い筈の足取りは軽かった。

家庭教師の報酬としては破格の代償である。これは、小母さんの、これからもT子の面倒を頼むという願いと、“水飲み百姓への哀れみの心付け”があってのことだ。

何はともあれ、一月は心置き無く働ける十分な食料であった。

大胡町の中心から堀越の親戚までは凡そ半里(2キロ)、そこから金丸の開拓村迄は約一里(4キロ)の山道である。男の足で約一時間の道程であった。

朝の陽光を赤松の連枝が遮り、土手の雑草の葉に止まった朝露が、木洩れ日にキラリと光る。

今日からはまた新規一転して、[日、月、火、水、木、金、金]の休み無き本業の開拓に取り組まねばならぬ。

 一層のこと…暑い夏場は、二宮金次郎式“晴耕雨読”の古い思想を変えて、月下に土を起こし、雨の日にも鍬を振るい、炎天下は…“ひたすら睡を貪りてエネルギーの消耗を防ぐ”これが一番、作業の能率があがり、合理的な開墾かも…知れぬ。

…などと愚考に耽りながら、額の汗を拭いつつ山道を登る。

 

    四 祭りばやし

 

 この夏(昭和二十二年)は、かんかん照りの続く空梅雨であった。にも拘らず…

 父親の初七日を済ませ、十日振りに戻った我が山小屋の佗住まいには、黴の異臭が部屋中に満ちていた。土塁の壁、土間は湿気を帯び、床の筵や布団には霜のようにうっすらと黴がはびこっていた。父親の訃報に…慌しく下山したため、そのままにしてあった鍋釜や食器の類には夥しい黴が一面に群生していた。

 早速、戸口と窓を覆っていた筵を外し風を入れ、布団と床の筵は、戸外に出して夏の陽光に曝した。黴に覆われた食器の類は清水の川瀬に運び洗浄した。それにしても火を炊くこともない無人の住まいは、忽ちのうちに菌類の生息場所に変身するものである。

 小生にとって心残りであったのは、唯一慰安の楽器であった愛用のギター(入山に際し友人から贈られた代物)が、接着部が剥げてばらばらに分解していたことである。後になって…割と手先の器用な小生はこのギターをどうにか修復した。

 耕した新畑に、蒔き付けてあった陸稲や諸々の作物は雑草に埋まっていた。日照のため作柄は概ね不良であった。

 生命を支える大事な食料なるが故に…二、三日掛けてようやく雑草を退治し、その後で硫安を追肥した。

 開墾したての田畑は滋味が肥えていて、初めての収穫は豊作だ…という話である。この道(百姓)にはズブの素人の小生にとって初めての収穫なので、是非そうあって欲しいと、天に祈る気持ちであった。

 我々が金丸の開拓地に入植して半年が経った。八月も中旬は、暦の上では秋であるが…残暑の厳しい盛夏である。

 一般の農家にとって、この頃は、野良仕事の比較的に暇な時期である。何処の部落でも秋の収穫を前にして、束の間の憩いを兼ねて、豊穣を願う祭事が盛んに行われる。盆踊りもその一つである。

 戦後間もないこの時代、若者達は男も女も娯楽と言えば…各村々で催される盆踊りや、野天に小屋掛けした演芸会に繰り出して、思う様青春のエネルギーを発散させること…位のものであった。

 大胡金丸も開拓者の入植で人口が急増した。男、女の青年団組織も大きく膨れ、殊に男子の青年団は数が倍加した。その祝いも兼ね合わせ、金丸でも野外ステージ(丸木の櫓)を組み、地元青年団自前の盆踊りと演芸会を催すことになった。昨年まで此の村の若者達は、近隣の村祭りへ足を延ばしたものだ。

 男、女青年団の代表が夜な夜な団長(地元の佐藤某)宅に鳩首しては相談を重ね、祭りの準備に余念がなかった。その中にあって従弟のMは“お祭り大好き”男で、こうした催しの時になくてはならぬ有力な先棒振りであった。しかもその従弟Mには、あちこちの村祭りには泊りがけで渡り歩く、放浪性があった。ヤクザ仲間の暗黙の仁義なのかもしれぬ。

 談合の末、舞台櫓は松が切り払われた開拓地内の未墾の場所に設置することが決まり、わが開拓村にも華やいだ祭りムードが次第に高まっていた。

 小生も生来は浮かれ者で、お祭り騒ぎは嫌いな質ではないが、盆踊りだけはどうも“踊る阿呆より見る阿呆”の口で、踊らにゃ損々とシャシャリ出る気持ちは起こらぬ。意外に照れ屋なのである。

 何故か…この時の小生には、自分だけが蚊帳の外にはじき出されたような、いや…自ら這い出したい心境で、そのお祭り騒ぎを、遠くで虚ろに聞く思いであった。その理由は、父の死亡など…よんどころない事情が重なり、開墾が予定を大幅に遅れてしまったことが心に重たくのし掛かっていて、まさに

 「今の俺の立場は、お祭りどころではない…」という焦燥感からくるものであった。

 「怠け者のお節句働き…」と、従兄のNがよく口にして笑う典型的な見本で、皆が憩い、かつ楽しむ時に、小生は炎天下に一人懊々として鍬を振るった。

 日中は山麓の中腹といえども下界と変わらぬ暑さである。気張る程には仕事は捗らぬのだが、この徒労もただ…己の気休めに過ぎぬものであった。

 遠く、近く、よそ村から気だるい熱気に運ばれて“ピーピーヒョロロ…ドンドコドン”と太鼓や笛の稽古囃子が聞こえる。

 祭りを四、五日後に控えた或る日の晩のことである。我があばら家に、三人の女子青年団員が連れ立って訪れた。女子青年団の幹部を務める顔役である。因に紹介すると、大柄で頬の赤い金時娘が団長の富岡女子で、村で唯一の雑貨商店の娘である。その団長の肩にも届かぬ程の小柄で、色のやや浅黒い娘が副団長の伊東女子、その中間の体軀で色の白い無口な娘は書記で、男子青年団長・佐藤某の妹である。

 「お歴々お揃いでの御入来とは…恐れ入り、かつ驚きましたね。何か俺に…」重大な用件が出来たのか?…うら若き女性軍の突然の訪問を受け、一瞬、その風圧にたじろいだ。

 「オギワラさんは踊りの練習にちっとも顔を見せないけど…」どうしてなのか?と言いたげな顔で、先ず団長の富岡女子が詰問した。

 「俺は踊りという奴が苦手で、生まれてこのかた一度も踊ったことが無い野暮天なんでねぇ…、その代わり外野席で見物させてもらうつもりでいます…」内心辟易しながら答える。

 「お祭りには青年団の人は男も女も全員参加することになっているんだから…当然あんただって何かに参加しなけりゃずるい…」今度は代わって伊東副団長が口を尖らせて言う。

 「無理に押しつけられても困る…、第一俺は青年団に入団した覚えはないよ。男の団員からは別に誘われた覚えもないし…」

 小生は、「何々会」だとか「何々団」などと称する集団活動に拘束されることはあまり好きではない。だから進んで青年団に入団する意思は無かった。

 「男の人はオギワラさんに遠慮しているんだ…きっと。だけど此処の住人で、適齢者は全員加入が建て前になってんよ。女子の場合だってそうなっているんだから…」伊東女史の小さな顔の、並みの大きさの団栗眼が明らかに不満を表明えいていた。

 「男の青年団は女子とは別なんだろうから、俺のことで…あんた方からとやかく言われる筋合いは無いと思うんだがね?折角の忠告だけれど、兎に角…踊りだけはご免蒙る。着るものだって持っちゃいないし、この格好じゃー様にならんだろうし、俺は運悪く戦災にあってご覧の通り丸裸なんだ…」と弁解すると

「あたしの着物貸してもいい…ちょっと派手だけど…」と軽い冗談を飛ばしてから

 「じぁ…演芸会の方で何かやる?…歌か、隠し芸か、浪花節か…あんたに出来る芸が一つ位はあるんじゃない?」伊東女子は執拗に小生を祭りに引っ張り出す魂胆である。

 他の二人は笑いながら、彼女の大胆な問いかけに、小生の返事は如何に?と…興味深そうに伺っていた。

 口を開くのは専ら小柄ながら威勢のいい伊東副団長であった。小生の祭りへの勧誘はどうやら伊東女子本人の意図らしい。夜分、男一人の住居に、女一人が乗り込むことは…流石に抵抗があって、幹部の二人を介添いにして、堂々と挑戦してきたのであろう。

 小生とて祭りを、高見の見物と決め込むつもりはなく、誘いがあれば“自分に出来ることは協力せねばなるまい”と思っていた。

 女性達が言うように、男の団員は小生に気兼ねしている風に見える。が、それは…小生がいま背負っているもろもろの事情を気遣っての、男の思慮分別なのである。

 まさか、この土壇場になって女子団員からハッパを掛けられるとは思いも寄らぬことであった。

 「ところで君達は…どんなことをやるの?」

 「女子は盆踊りに全員参加することになっているし…ほかに富岡さんは演舞(当時流行の)、佐藤さんとあたしは唄、他の女の子も一つや二つは何かするわ…」

 「俺にできることはギターを弾きながら“影を慕いて…“を歌うこと位しかない、そのギターはご覧の通り分解してしまい…目下修理中なんだ。あとは野暮な詩吟を唸ることしか芸がない。それでよければ清水の舞台から飛び降りるつもりで、出さしてもらうよ」と、面倒くさいのであっさり引き受けておく。

 後で、それを伝え聞いた開拓団の南沢某が、小生の詩吟に合わせて“鞭声粛々夜河を渡る…”例の[川中島の合戦]の剣舞を共演することになった。

 用談はそれで済んだ筈の三人娘はまだ別の用件があるらしく、一坪足らずの狭い土間に佇んだままお互いの顔を見合わせて…なにやら目で頷きあっていた。やおら団長の金時娘が

 「ついでだから、あんたに相談なんだけど…聞いてくれる?」と口火を切り、相手の意向にお構いなく

 「実は、まだ皆には相談はして無いんだけれど…このお祭りが済んだら希望者が集まって週に一回でもいいから夜学の教養教室を開いたらどうか?…って、この三人で話し合ったの…」と言う。

 普段の彼女達の間で交わす会話は[男言葉]である。馴染みの浅い相手には自然と女言葉が出るらしい。

 「大いに結構な話じゃないか。それで?…俺に相談とは…」

 「あんたの意見を伺いたいんですよぉ…」物怖じしない伊東女子は、すかさず尖らせた口を挟む。

 「だから大いに結構な事だと言っているじゃないか…お祭りなんかよりよっぽど増しだと思うよ」と皮肉を込めて小生は遣り返す。

 「どんな内容にしたらよいか…それについて貴方の意見を伺いたいの…」と富岡女子は冷静に問う。

 「対象(受講する)や指導者にもよるけど…お茶・お華・算盤それに絵画とか書道など…いろいろ考えられるが、兎に角…団員の皆にアンケートを取ってみるのも一つの方法ではないかな?」小生は当たらず触らずに返答する。

 「オギハラさんなら何を指導してくれる?」これまた伊東小娘の意地の悪い誘導尋問である。

 「俺は指導して貰う方だ。さしずめ…米の増収法を教えてもらいたいものだ…」

 「いいですとも…それならあたしが教えてあげる、その代わり…」黒目の団栗眼を一層大きくして

 「オギワラさんは夜学の講師になってもらうことに…話が決まっているんですからね…」と断定的に言う。

 そんな突飛な発想にも敢えて小生は否定も肯定もせぬまま、女達一人一人の顔色を伺った。開墾のほかに“俺にできる事はなんでもする…”つもりでいたので彼女達の真意の程が知りたかった。無論、俺は指導者の柄ではない、ただ一緒に学ぶ事によってお互いに得ることがあればそれで良いのではないか…不図、そのことに気づいたからである。

 この時点では結論は出さず、結局のところアンケートを皆に求め、その結果で再度検討することになった。三人娘は一時間近くの間、かまびすしい会話を残して引き上げて行った。その間、佐藤女子のみは口数少なく…静かな白い微笑で皆の話に頷いていた。感性豊かな伊東女子とは対照的で、慎ましやかで温和な性格と見たが、案外…芯の強い女かもしれぬ。何時までも、小生の脳裏に残る面ざしであった。

 祭りの前々夜、初めて小生は南沢氏と盆踊りの舞台に上がり、詩吟と剣舞の共演リハーサルを試みた。その時初めて共演することの難しさを体験した。舞の間と詩吟のテンポが、なかなかうまく合わないのである。小生の詩吟に合わせると舞はスローモーションになるし、舞に合わせるように吟じると、こちらの息が上がってしまうのだ。何回か練習を繰り返すうちにどうにか両者の呼吸が合うようになったが、明日の本番が甚だ心もとない思いであった。

 金丸に待望の(小生にとっては気の重い)祭りの日が遣ってきた。

 今日はその前夜祭である。朝から晴れ上がった空に残暑の陽光が燦々と降り注ぐ午後一時近く、“ドドドンドン、ドドドンドン……“と若連の打ち鳴らす一番太鼓の音が山麓にこだまする。この合図で村内は次第に活気付き祭りムードが漂い始める。この頃は未だ打ち上げ花火はない。

 何処から集まってくるのか…綿あめ、かき氷、おでん、ところてん、駄菓子などを商う露天商が、櫓を中心にほぼ円周上に屋台を並べ、アセチレンガスの吹笛がピーピーと甲高い悲鳴をあげていた。

 祭りを仕切る四、五人の若連の他は未だ観客は疎らで、屋台店を覗き回る孫連れの老人と子供達ばかりである。元気のいい男の子供は舞台に登り太鼓を叩いたり、バッタのように跳ね回っていた。

 此の日ばかりは小生も畑仕事は遠慮した。祭りの会場は、小生の開墾畑地から幹道路(当時はまだ未整備の状態)を隔てて目と鼻の先にあった。怠け者の節句働き…が嫌でも人目に曝されるからである。

 隣家の住人、従弟のMの姿は朝から出払って見えぬ。

 ログハウスの窓と入口の筵をはね揚げ、小生は万年床に身を横たえて久し振りに、読書三昧?に耽る。そのうちに、微風に誘われて何時の間にやら…まどろんでしまった。

 太鼓の音に不図目が覚めた。入口に人の気配を感じ、見ると…入口を塞ぐように伊東女子が立っていた。もしや…物怖じしない彼女に呼び起こされて、それから太鼓の音を聞いたのかも知れぬ。

 「何かお祭りのご馳走つくった?…」いきなり彼女は〈いなこと〉を、のたまう。我に帰り

 「そんな食料が、わが家にある訳がないじゃないか。今日は仕事が無いので朝、昼と水のような雑炊で済ませ、体力が消耗しないようにこうして寝転んでいるんだ…」

 「どうせそんなことだろうと思った…。だから今夜の夕食に誘いに来てやったんです…どう?これから家にこない?お風呂もたててあるし…、鐘馗様みたいな髭を剃ったら?」

 「それは遠慮しよう。いかに厚かましくてもそれは出来ないよ。あんただって変に誤解されてしまう…」

 「そんなこと構いやしない。別に悪いことをしている訳じゃなし…、この間は、あんたの気持ちも考えずに無理に引っ張りだした…そのお詫びもあるし、それから夜学の先生になって貰うお礼のしるしなんだから…」彼女は至極…天真爛漫にして強引であった。

 小生も些か、宵祭りまで時間を持て余していた。三食続けて朝の雑炊を食べることにもうんざりしていたし、然ればといって夕食を作るのも億劫であった。潔く?節を屈して、彼女の好意に甘えることにした。伊東家では快く他所者の風来坊を歓待してくれた。さて風呂に入れて貰う段になって

 「背中を流してあげる…」と言って、裸身を曝した男の前に…襷掛けの彼女が平然と姿を現した時には、流石の髭の男も度肝を抜かれた。

 身の置き所に窮した小生は、慌てて湯船に飛び込み、茹だるまで湯に浸かっていた。それからどうしたのか…記憶が無い。

 

    五 任 侠 の 里

 

 秋の陸稲の収穫は三斗(45s)と少々、素人の小生にしては我慢の収穫であった。

 ところで…あの祭りの後、従弟のMが姿を晦ませていた。お祭り大好き男で、何処かで祭りばやしが聞こえている中は、彼が各地を転々と放浪することは…今までの例なので、然程には、気にはしていなかった。

 農繁期に入り、米の取り入れを前にしても彼の住まいは空留守で、一向に帰って来る気配はないので、組合長のNをはじめ我々従兄弟衆も、初めて彼の身に異常が起きたことを悟った。無論、実家にも問い合わせたが、立ち回った形跡は無い。

 またぞろ以前の彼に戻り、昔のヤクザの仲間と人生の裏街道にのめり込んだのでは?…小生にはそう思えてならぬ。三つ子の魂は簡単には矯正出来るものではない。

 迷子の子供を捜索するのとは訳が違うので、もう少し様子をみるより、今のところ打つ手は無い。…そんなある日、彼の実家の兄が山に駆けつけて

 (大前田村の芝居小屋に居るらしい…、大前田の親戚の者がMの姿を見た…)という情報をもたらした。

 親戚というのはMの実姉が嫁いだ先である。だからその情報は信憑性が高いとみてよい。

 大前田は金丸から東へ、およそ一里隔てた赤城山麓にあり、昔から侠客(大前田栄五郎)で名にし負う土地柄で、今でもその風潮が根強く残る任侠の山里である。

 それにしても、農繁期のこの時期に芝居小屋に屯していることが小生にはげしかねた。Mの兄は

 「奴(弟のMのこと)は恐らく俺の言うことは聞かないだろう…、誰か一緒に行ってくれ」と言う。

 たまたま従兄のNが不在なので、やむなく小生が同行することになった。連れて帰れる自信は五分々々であった。

 当時、大前田村には半ば常設の芝居小屋があって、楽屋には五、六人の者が寝泊り出来るようになっていた。晩秋の頃までは、農繁期でも毎晩のように、股旅物の演舞が催されるのである。出演者はかなり遠方からも遣ってくるらしい。現在のカラオケ競演のようなものであった。

 従弟のMは四、五人の仲間と一緒に、まさしくそこの楽屋にいた。その仲間は何れもMと同類のヤクザ風であった。彼らのしていることは、要するに世話役を兼ねた用心棒なのである。

 楽屋へは小生一人が入ることにした。なまじ彼の兄貴が一緒では…感情が先にたって、話に角が立つと思ったからである。

 彼等の世界がどんなものか…その実態を知らぬ小生は、“盲、蛇に怖じず”で…芝居小屋に赴き、楽屋に通じる梯子を登ろうと足を掛けた。たまたま、そこに居合わせたヤクザ仲間の一人に呼び止められ、えらい剣幕で凄まれた。その騒ぎを耳にしてか…楽屋口が開いて、仲間の一人が顔を覗かせ

 「上げてやれ…」と一言、命令口調で言った。この男…通称[ホシケン]こと星野憲治といい、この界隈では名の通ったヤクザのボスである。小柄ながらそれなりの貫禄があり、睨みの利く風貌であった。

 小生はその男に黙礼を返し、おそるおそる楽屋に入った。

 従弟のMは小生の顔を見るなり、薄く笑って(だがその笑いは自棄の自嘲に見えた)

 「ヒロシさんか…むけぇに来たのかい?…よく此処に居ることがよくわかったな?…折角だが、俺はけぇらねぇよ」と、居なりで言う。

 「苦労の多い百姓より、此処の方が居心地がいいようだな?…今、俺が説教じみたこと言ってみたところでお主の耳には届くまいが…一言、言わしてもらう。お前も一人前の男だ…物事のけじめだけは付けて置くものだ。組合長のNの立場を考えて、出処進退は綺麗にしたほうがいいぜ…夜逃げみたいな真似はするものじゃない…」

 「俺は何も好きで開拓に入ったんじゃねぇ。組合長や、おらぁちのもんが無理やり開拓に俺をつっぺし込んだんだ…」

 「だから、お主に責任は無いというのか?…そんな子供みたいな了見じゃ用心棒の棒の役にも立つまい。今日俺はお前さんに意見をする為に来たんじゃない。お前の兄貴に頼まれ、組合長が留守なんで…代わりに、お主の家族の気持ちと、皆が心配している事を伝えに来ただけだ。皆さん方、おおきに邪魔をしました…」と言い残して踵を返そうとした時、腕を組み目を閉じていたボスが

 「細井!お前、この人と一緒に帰りねぇ…」と重い口を開き断定的に言った。

 「だけど兄貴…このままじゃ、みっともなくて俺には…けぇるにもけぇれりゃしねぇ!」

 「なぜ…ね?お前さんはこんな所でとぐろを巻いてちゃいけねえ男らしい。俺なんぞに人に意見できる柄ではねぇが、堅気に迷惑を掛けちゃいけねぇ。今日のところは、清く帰りねぇ」ボスが、代わって頭を下げた。

 「…、兄貴!一日だけ待っておくんなさい…餓鬼じゃあるめぇし、迎えの者に引っぱられてけぇったんじゃ俺だって面ツがたたねぇ」

 「ふむ…、それも道理だ…。お使いさん!お聞きの通りです、一日だけ待ってやっておくんなさい。明日にはきっと返しやす…首に縄を掛けても連れてめいります…」ボスは力強くそう言い切った。

 従弟のMが無事家に戻ったのは、彼が姿を晦ましてから二週間振りであった。

 此の事があって、半年後の…翌年の三月。再び従弟Mに関わる、忌まわしい事件に巻き込まれることになるのだが…この時点では[神ならぬ身の]知る由もなかった。

 標高500メートルに近い山麓は、寒さの訪れは早い。〈一杯清水〉の窪地に群がった仮設小屋の住民も、やがて遣って来る冬の準備に慌しくなる。

 冷たい赤城下ろしに備えて、杣屋の囲いを厳重に鎧(よろ)う事、暖房や炊事用の薪を確保する事など、越冬するためには…いろいろとなさねばならぬ仕事があった。

 各戸ごとに家庭の事情は異なるが、これらの冬支度は開拓以外の仕事で、日常の生活に欠かせぬ裏の労働である。その点小生や従弟のMなどの独身者は、気楽トンボであった。隙間漏る木枯らしも、頭から布団を被って寒さを凌げばよい…のであるから。

 その一方で、十月に入って早々。県から住宅建設補助金の貸し付けがあった。一戸当たりの貸し付け額は一律に〈一万円〉?位であった。何しろ昔のことなので…或いは桁が違うかも知れぬが。

 返済は年三分の利息で、十年据え置きという好条件の融資であった。なお返済は、開拓組合が連名で義務を負うことになっていた。但しその使途は(住宅に当てる限り)個人の自由であった。

 この頃になると、山の仕事は開墾する以外は、然したる農仕事はない。入植者の凡そ半分の者(家族構成の大きい所帯)は、既に融資金を手元に家族ぐるみで、直営の建築に取り掛かっていた。

 後の半分(独身者と人手がない夫婦)は、建築業者に委ね…出来るだけ融資の範囲内で済ませることを望んでいた。小生は当然の如く、後者の委託組であった。

 さて、委託して一万円で建つ家とは…一体どんな物件なのか?とんと見当もつかぬ。仮に十坪の建屋とすれば坪単価は千円という計算になる。従って建坪を大きくするには、単純に坪コストを安くするしか手はない。それには同じ規格の物を量産することが望ましい

…と思案したので、此のことを委託組に計った。

 中には、同じ物では?と難色を示す者もいたが、結局…無い袖は振れず、大方の意見は此の案に賛成であった。

 取りあえず、間口四間・奥行き三間で建坪十二坪をモデルケースとし、内部は、八畳の居間と、台所を兼ねた土間だけの…大まかな図面を作り、幾つかの業者に見積もりを依頼した。

 業者から出された見積もりは、何れも屋根は切り妻のトントン葺き(厚紙位の杉板を重ねてトントンと釘を打ちつけたもの)外壁は厚さ三分の羽目板、内壁は桟の打ちっぱなしであった。まさに物置小屋に毛が生えた程度の代物であった。〈一万円〉の家とはこんなものかと初めて納得した。

 同志で検討の末…選定した業者は、運搬量も含めて融資の範囲に納めた、伊勢崎の某建築業者に決まった。

 発案した手前、発注から完成までを、小生がその掌に当たることになってしまった。それ故に、設計の変更やら、細部の打ち合わせやらで、何回となく業者との間を往復しなければならぬ羽目になった。

 何時の場合でも、責任者は上手く行ってもともと、悪く行けば陰口を叩かれる。然し、誰かが貧乏くじを引かぬ限り事は前に進まぬ…のである。

 材料は自家工場で全て加工、現場では基定になる松丸太の杭打ちと加工した部材の組み立て…位であるが最大の難問は建材の運搬であった。加工された部材はトラックに満載して優に十台分はあった。

 それも山道にかかるまでの平坦路での話で、山道ではせいぜいその半量の運搬がやっとであった。しかも開拓地は道路が未整備なので車は入れず、夫々の現場までは牛車に頼るか、皆で大八車を押し揚げる手段しか無かった。

 施工は全て業者任せ…の契約であったが、関係者は総出で、建材の積み下ろしから運搬、大工の手子まで惜しみなく奉仕した。〈水心あれば魚心〉で、各戸では見積もりに無い付帯設備(棚や押入れなど)をしつらって貰った。

 十月に起工した建築が全て完了したのは翌年の二月末で、完工に五ヵ月を要した。

 〈一杯清水〉の砦のような仮小屋から、小生を含めて八戸が新居に引っ越した。住めば都で、その小屋も…そこで暮した丸一年間の思い出が今は懐かしく、後ろ髪を引かれる思いであった。

 引っ越しが済んで…二、三日が経った或る日の早朝。小生は従弟のMと一緒に牛車(束

ねた薪と垢にまみれた寝布団を積んだ)を引いて里の実家に帰った。替えの寝具と若干の身の回り品(この中に白鞘の日本刀一振りが含まれていた)を運ぶためであった。Mも同様である。

 従弟Mの実家は伊勢崎の北の郊外、佐波郡波志江村で、道順も都合よく伊勢崎―大胡街道の沿線にある。Mの処で彼の荷物を積み、昼飯の馳走に預り、更に牛にもたっぷりと餌をつかわせた。

 牛車は借り物なので成る可く早く帰らねばならぬ。ゆっくり憩う間もなく家路に着くことにした。二人はガタゴトと、軋み、揺れる荷台に肩を並べて乗った。牛はバラス道を…まさしくのんびりと牛歩して、北に向かって歩む。赤城山の尾根から吹き出す空っ風が砂塵を巻き上げ、情け容赦なく吹きつける。寒さに震え、二人の会話は途切れがちであった。不図、Mが

 「ヒロシさん…、そこにある白鞘は本物かい?」囁くように聞く。

 「うむ…本物だ。一尺九寸の小刀だが藤原兼広の業物だ…」

 「切れ味、試したこと…あるんかね?」

 「無いな…。親父が俺に軍刀として用意してくれたものだが、今は形見だ。うっかりした処に置けぬのだ。」

 「俺に拝ませてくれねぇかな?」Mは手綱を緩めて、ぼそっと言う。

 「こんな処では駄目だ。人目に付いたらえらい事になる。所持・携帯禁止の品だぞ…」

Mに対して何時になく厳しい口調で嗜めた。刀のことは、それきりで話題にしなかったが、Mのだんまりには諦め切れぬ余韻を感じた。

 人目に触れてはならぬ日本刀は、その日の中に新居の押入れ深くに仕舞い込んだ。

 

 新居に移って間もない頃の、或る晩のこと…。〈トントン……〉と新居の戸口を叩く音で目が覚めた。月の無い、闇の濃い深夜であった。真っ暗な闇に耳を澄ますと

 「もし…、オギワラさん?…おりやしたら、戸を開けておくんなさい」と声がする。聞き覚えの無い男の声であった。得体の知れぬ真夜中の訪問者に、一瞬異常を感じ、背筋に悪寒のようなものが走った。

 〈トントントン…〉戸口を叩く二度目の音に、中から

 「どなた?…今開けますから、暫くお待ちを」大声で怒鳴ったつもりであったが、その声は上ずり、震えているのが自分にも解かった。手探りで石油ランプの灯をともし、土間に下りてもう一度

 「どちらさんです?こんな夜更けに…」

 「すんません…ちょっと細井の件で話があるんで…立ち話も出来ません。あんさんにも関わりのあることなんで、兎も角、開けておくんなさい…」押し殺したような、低く重い声である。その声で…戸の向こう側の男の顔が浮かんだ。と同時になにやら不吉な予感が胸を突いた。

 「大前田のホシケンさんですね?今開けます…」急いで鍵を外し戸を引き開けると、音もなく…かの男が左の肩からぬーっと入ってきた。後ろに回した右手には、白鞘の刀が握りしめられ、異様な格好であった。

 「夜分に遅く参上して、失礼さんにござんす。早速ですが…これはあんさんのもの(刀)か?お確かめ願いたいので…」と言って、白鞘に納まった刀を小生に渡す。改めるまでもなく、つい最近持って来たばかりの形見の軍刀であった。それが何故彼の手に在ったのか?狐に摘まれたような思いであった。

 「確かに、僕のものです…それがどうしてあんたの手に…?」その問いには答えず

 「処で…この刀は登録してあるので?もしそうでねぇとすると…刀剣類所持法違反となる。あっしの手からその筋に届けようと思いましたが…そうなるとあんさんが困ることになる…と思いましてね?」

 「ホシケンさん…これは、細井の手にあったんでは?」小生が所持していることを知り、持ち出せるのは従弟のMしかおらぬ。

 つい二日前であったが(刀を見せてくれ)といってMが突然現れ、(一日でよいから預からせてくれ…)と言った彼の真剣な顔を思い出した。

 「その通りでござんす。今夜…ヤクザ同志のつまらねぇ出入りがありやしてね?その時細井の奴が、こいつを腰につっと差していたんで、早速…手前が取り上げたという次第なんで…。その時あいつの口から…これは、従兄のあんさんの所から…黙って借りてきたと、こう申しますんで」

 「年甲斐もなく面目もありません…全く弁解の余地はありません。これは誰の目にも届かぬ所に始末しますから、それで…」と言って、彼に垣間見た任侠の心に痛く打たれ、素直に頭が下がった。

 その後、思案の末に刀の保管を組合長のNに委ねた。刀の事は忘れたまま時が経った。今は何処にあるのやら、その所在は…杳として解からぬ。

 

    六 縁は異なもの

 

 山の春の訪れは遅い。里の桜は既に咲き、散り始めていた。

 赤城山麓に入植して二度目の春である。地蔵岳の頂には冬の名残の雪が、霞の中に、陽光を浴びて淡く輝く。そんな四月の初旬のこと…。従兄の頭領Nから、唐突に

 「明朝早立ちで赤城山を縦走するから、二食分の弁当と登山の装備を整えて置くように…」と、三人の従兄弟連中(小生とT、M)に言い渡しがあった。名目は、水道用水の水源調査であった。

 従弟のMが、遊侠同志のいざこざに顔を突っ込み、あまつさえその折に、小生の日本刀が物議を醸した忌まわしい事件があったのは…つい先だってのことである。日頃、不在がちで、身内共の監督に目の届かぬ頭領としては、立場上些か憂慮に堪えぬ始末であった。

 何故か、この事件以来従兄弟同志の付き合いは疎遠になり、冷ややかな隙間風が吹き抜けているような気配が漂っていた。元締めのNもそのことを肌に感じ取っていたのかも知れぬ。

 あたら青春の身を、開墾という苛酷な労働に投じて…一年の歳月が明け暮れたのである。この間に、若者の心に鬱積した屈託は計り知れぬものがあった。心機一転するには、〈長閑な春の日、従兄弟同志が打ち揃って山野を跋渉することが、一番効果的であろう〉と、彼が思案の末に考え付いた一計である。と…小生には思えた。

 地図にない山頂に通じる道は険しく、[赤城山はわが家の裏庭だ…]と自称して憚らぬ隊長Nのガイドなくしては百歩も進みえぬ、それこそ篠と熊笹に覆われた獣道であった。

 その獣道を隊長は軽快な足取りで、迷う事なく、先導を務める。隊長よりは遥かに若輩である我々一行は喘ぎつつ、一列になって隊長に続く。

 幾つかの尾根を越え、崖沢を渡り、道無き道を東に一里(約4キロ)程進むと粕川の渓流に出る。

 粕川は赤城の小沼に源を発し、早瀬となって山麓を櫛削りつつ平地に達する。さらに瀬川に変じて流れを緩め、関東平野を蛇行しながら…やがて利根川と合流する。

 粕川の渓流を遡行して、源流の小沼に辿り着くことが今回の探訪の目的であった。

 その渓流沿いに、鄙びた一軒家の温泉宿があった。この温泉は正確には滝沢鉱泉といい、古くから土地の者から親しまれていた秘境の湯治場である。

 此処で朝食を遣い、しばし休憩の後いよいよ探検隊は水源の探査に挑んだ。

 渓流を遡るほどに両側の断崖は高く、深くなる。岩を噛む清流に添って、岩伝いに一縷の歩道がジグザグに我々を上流へ誘う。

 滝沢の湯治場から凡そ一q遡上した辺りの左手に、岩が大きな口を開けたような洞窟があった。

 その昔、代官所の役人に追われた国定忠治が隠れ潜んだ[忠治の岩屋]がそれである。思わず“名月赤城山”の歌詞が口ずさみたくなる。

 そのすぐ上流の右手に、絶壁を背にして、如何にも風雪に耐えた古堂があった。このお堂は、古くは霊山の修験者の道場として知られた[滝沢不動]の明王堂である。

 この辺りからは[不動の大滝]の瀑音が水飛沫に乗って聞こえてくる。人のかよえる道らしきものは、この大滝の懸かる断崖で断ち切られてしまう。ここからは、鹿も通わぬ…

目の前の断崖絶壁を越えて前進するのみであった。

 リーダーのNは溶岩の折り重なる岩場を、丸でわが家の裏山を駆けるが如く、はたまた獲物を追うマタギの如く、迷う事なく急勾配の岩肌をよじ登って行く。

 ようやくに辿り着いた滝口の上は、風景が一変する。そこには…遠望する赤城山の流麗な容姿からは想像もできぬ、荒々しい男性的な溶岩台地の奇景が展開する。

 その極め付けが[銚子の伽藍]の異名を持つ、高さ七、八十メートルに起立した奇峰であった。この奇峰を乗り越さぬことには、目的の水源地に到達することが出来ないのである。

 這う這うの体でその頂に立つと、眼下には一大パノラマが展開する。それは、小生にとって會て出会ったことのない壮大な絵巻であった。四人の山男は岩上に息を呑んで、暫し忘我放心の体で佇む。

 此処からは余り勾配のきつくない尾根伝いの小道である。が、俗に[馬の背]と呼ばれ両側は切り立った危険な懸崖であった。

 左の崖は、擦鉢状の白い瓦礫の素肌を曝し、一歩踏み外すと千尋の谷底に吸い込まれるようで足がすくむ。右手は、灌木が疎らに生えた、累々たる溶岩塊の断崖であった。

 まさに活火山の痕跡その儘に留めた賽の河原であった。

 [馬の背]を横切ると視界はまたもや一変し、我々はやがて、幽玄な原始林に誘い込まれる。これぞ名にしおう[お伽の森]であった。

 この森は、右手前方に聳え、頂上に残雪をいただく長七郎山(1580メートル)の裾野を覆い隠すブナの原生林である。

 森の妖精のように、奇っ怪な形状に幹枝を躍らせたブナの巨木が群生し、その様は…まさしく幻想的なお伽の世界であった。

 [お伽の森]を抜けると、やがて粕川の源流小沼である。小沼は周囲1q、ほぼ円形をした火口湖で、さまざまな小沼伝説を秘めた、神秘的な沼であった。

 里は既に春半ばだというのに、小沼の岸辺に群れるドウダン躑躅の芽は固く、湖面を渡る風も冷たい。

 四人は日だまりに屯して、空けた腹に握り飯を詰め、開拓地の飲み水…となるかも知れぬ湖水で口をすすぎ、喉を潤す。

 帰路も、地図にない獣道の跋渉であった。

 不気味に静まり返った[血の池]のほとりを抜け、灌木と熊笹に覆われた荒山(1572メートル)と鍋割山(1332メートル)

を結ぶ稜線を辿り下山。無事、赤城山南面探検の紀行を終えた。

 この紀行は、小生にとっては“終生忘れじの思い出”である。故に自伝の栞に一節を書き留めた。

 ところで、この紀行には意外な伏線が隠されていた。

 それは、この日(小沼で休息を取っていた折に)隊長のNから、ある女性との[見合いの日取りが決まった…]旨の伝達があり、さらに…

 「それ(見合い)に先立って、近々…その娘さんの兄が金丸に遣ってくることになっている。お前に今来たコースを案内して欲しいのだ…」と断定的な申し渡しがあった。

 従兄のNは、時々…今回の探検のように、人の意表を突く行動にでる。だから彼の言動にはさほど、驚かぬつもりの小生であったが、この時ばかりは些か動揺し、彼の周到な根回しに驚いたものだ。

 ここで…小生の見合いの相手の家庭と、従兄Nの関係について振れておく。

 見合いの相手は藤木M子といい、生まれも育ちも中国山東省の青島である。

 従兄のNは青雲の志を抱いて、昭和十七年支那大陸に渡り、土木技師として同じ青島の市公署に務めていたことは既に述べた通りである。

 Nが天性というべき社交術で藤木氏(M子の父)に接近し、親交を深めていったことは、容易に想像できることであった。

 宿命の昭和二十年、日本は無残な敗戦を喫し、ために在留邦人は、強制撤去の運命に遭遇することになった。住む家を失った従兄Nの家族は引き揚げの日まで、親交のあった藤木氏宅に厄介になった。

 中国に根を下ろし、在支三十年余に及ぶ藤木氏には中国人に多くの既知・要人がいた。それ故に終戦後も彼等から迫害を受けることがなかったのであろう。

 一方藤木家の次男T氏は、戦時中から日本本土にあって大学を卒業、この時は、既に富士重工業の技術開発部に務めていた。T氏の研究グループは超小型エンジンを開発し、それを動力にしたチェーンソー(チェーン式電動鋸)の試作品はほぼ完成していた。

 チェーンソーの試験には、開拓地の松の伐採は格好の対象であった。T氏からは従兄Nのもとへ、試験に松林伐採の依頼が届いていた。

 故意か、偶然かT氏の金丸訪問は、たまたま、妹の見合い相手の品定めと、チェーンソーの実験という公用が重なった…ことになる。

 話は前後するが…今年の正月、小生は従兄N宅(母の実家)に新年の挨拶に伺候した。その時従兄嫁が

 「ヒロシさん…いい人がいるんだけれど、見合いしてみない?…その人、私達が青島で大変お世話になった方のお嬢さんなんだけれど…年は確か二十歳か、二十一。丁度良いと思うんだけど…」と言った。

 小生は前の見合いで懲りていたし、所帯道具は鍋釜と寝具のみという…とても結婚など出来る状況ではなかったので

 「乞食同様の今の俺には、とても人間一人を養っていく自信はありませんよ…」と一応辞退したが

 「今直ぐという訳ではなし…昔から一人口も二人口も一緒と言うでしょう?それにその人も引き揚げ者で大変な苦労をしているし、確りものだからきっと大丈夫。見合い写真…なにかある?」と、従兄嫁は一人で納得し、見合いを前提にした口振りであった。

 小生はどうも弁舌爽やかな女性との対話は苦手である。この時は…曖昧に返事を濁して退散したものだ。

 それから一ヵ月経った…二月のある日。〈一杯清水〉の丸太小屋に、従兄のNが遣ってきて

 「そろそろお前も…身を固めねばならぬな。一人では開拓の仕事は無理だ…。キヨ(従兄嫁)が乗り気になっている娘さんと一度会ってみぬか?。その気があれば俺からも、お前のお袋にも話を通したり、相手方にも正式に申し入れすることにするが…」と言う。多分…従兄嫁の意向を受けてのことであろう。

 もしNからこの話があったら、有難く受けることに腹を固めていたので

 「見合いなんかしなくても、俺はその人と結婚するよ。この前の見合いで懲りたので、俺は見合い恐怖症になっているんだ…」正直に己の心境を吐露した。

 「そうはいかんさ、相手のあることだ。お前が良くても相手がお前を見て、あんな野暮な山男は御免だ…という事だってある。これも見合い結婚のセレモニーの一つなんだから仕方あるまい」そう言われてみれば、まさに道理である。裏ぶれた落ち武者の如き、俺の姿を目にしたら…相手が腰を抜かすかもしれない。

 「そのお嬢さんはな、お前より大分背が大きいぞ、棚の上の物も軽く手が届く。あぁいうのを半鐘泥棒というのだろうなぁ。だが昔から…大は小を兼ねるといって、お前には分に過ぎる娘だ…」と相変わらずの減らず口を叩いて、笑ったものだ。

 どうも、俺に縁のある女性は、自分の体型にはアンバランスな体型の持ち主なので、我ながら“天意の摩訶不思議な配剤”に苦笑したものである。

 従兄Nが(小沼のほとりで)語ったのは…見合いの日取りは五月某日、その兄であるT氏が小生の山での生態を観察に、此処(金丸)に遣って来るのは四月の二十日前後…ということであった。

 そのT氏が予定していた某日の午後、従兄Nの案内で、二人の相棒と一緒にくだんのチェーンソーを携えて訪れた。既にNと打ち合わせが済んでいたとみえ、三人とも登山の装備姿であった。

 三人の中で一番背が高く、痩軀で眼鏡を掛けた優男が…兄のT氏であることが一瞥して分かった。

 「素晴らしい景観ですなぁ…」到着して、先ず彼等が口にした最初の一声がこれであった。

 「明日は、もっと素晴らしい赤城山を、オギワラが皆を案内しますよ…」とNは客人に小生を紹介した。

 先日、従兄弟同志で道行した粕川遡行の冒険旅行も、さては、この日のためのリハーサルであったのか…と、小生はすべてが納得出来た。

 あの時は、獣道を隊長に置くれじと後に続くのが精一杯で、周囲の景色を眺める余裕はなかった。

 さて、隊長のNに代わってガイド役を務めるとなると、甚だ心もとなく気が重かった。妹の亭主になるかも知れぬ人物の下見に現れたT氏の手前、臆することもならず、儘よ…と覚悟を決め、頼もしく頷く。

 ところで、チェーンソーの試験の結果はどうであったのか…?、目通りの径が20p程の松を伐採するのに四苦八苦の苦闘を強いられていたが…。

 彼等の専門は木挽職ではなく…れっきとしたブルーカラーエンジニアである。立ち木切断は初めてらしく、実演には大分てこずっていた様子であった。

 代わる代わるに、凡そ10本程の松の立木を倒して実験は終了した。満足すべき結果が得られたのか、得られなかったのか…その辺の事情はとんと記憶にない。

 翌早朝…山は晴れわたり、絶好の行楽日和であった。

 登山の為の完全装備に身を固めたT氏外二名と、地下足袋にゲートルの足拵え、握り飯のみの風呂敷包みを腰に巻きつけた至極軽装の小生と…四人は勇ましく開拓村を出発した。

 小生は二度目の体験なので、気分的にも大分余裕があった。が…ブルーカラーのエンジニア達には、獣道と溶岩台地の彷徨は流石に強行軍であった。粕川の渓流を遡行する辺りから、賑やかな話し声は途絶え、荒い息づかいが聞こえる。完全装備が反って重荷?…に思えた。

 然し、彼等の眼に映る…異様な自然界は、彼等をして驚嘆の声を発せさせずには置かなかった。

 その極致は[銚子の伽藍]からの壮大なパノラマと、幻想的な[お伽の森]のブナ林であった。T氏達一行にとって、この日の探訪は小生と同様…〈終生忘れえじ感動〉を味わった様子であったが…

 山のランプ小屋に二泊して彼等は帰っていった。T氏が赤城山に残した心証はどうであったのか?知るべくもない。が…彼の妹に寄せる兄妹愛の深さに感動を覚えた。

 M子との見合いは…昭和二十三年五月五日、場所は東京・杉並の藤木方の親戚(遠藤氏宅)であった。

 見合いをする前までの状況は克明に脳裏に蘇るのだが、さて…見合い本番の実況と、それからの事は夢幻の如く、深い霧の中であった。

 

    七 友あり、遠方より来る

 

 見合い恐怖症にかかり、M子との見合いを前にして

 「見合いなんかしなくてもいい…俺はその人と結婚する……」と言って、中に立った従兄Nに笑われ、嗜められたことがあった。その気持ちは些かも変わることはなかった。

 だから、小生にとって、この度のM子との見合いは〈容姿には関わりなく〉結婚を前提にしたものであった。

 そのつもりがあったが故に、見合いが済んで二週間も経たぬうちにM子のもとに、ラブレター?と思われても致し方ない内容の手紙を書き送ったものだ。傍で、気を病むほど不純なものではなかった。

 このことが、やがて思わぬ波紋を巻き起こし、小生がいかにも、常識の無い、単純にして無知、加うるに甚だ軽行直情な男…と云う不名誉なレッテルを貼られる羽目になった。

 …閑話休題…

 今までずっと、侘しい男やもめ暮らしにも慣れて、それなりに独身をエンジョイしていたし、仙境三昧の生活を送っていた。

 ところが、見合いを済ませた途端…しばし冬眠していた〈人を恋うる煩悩〉が没然と蘇ってしまったのである。見合いした相手とは申せ、臆面もなくラブレターまがいの文を送り付けるとは、いささか理性を欠いた小人の所業であった。このことは後になってからの反省である。

 その時は、己が“恋文”には些かの自惚れもあって、自信満々の体であった。だがその期待は裏切られ、必ず来る筈の返事は無かった。

 ことによると自信が裏目に出て、相手に振られたのかもしれるな?と思った。矢張り…

「都会育ちの娘が山の中の生活…しかも開墾の荒行が勤まる筈がない…」などと自問自答し、半ば諦めかけていた。だが…

 “釣り落とした魚は大きい…”の例えで、逃げた魚に、未練がましい思いが絶ち難く、柄にも無く悶々の日々が続いたのも事実だ。

 そんな或る日…、庭続きの新畑で野良仕事をしていた時、組合長のNが、例の忙しい足取りで、開拓道路を登って来るのが見えた。

 昼間、彼の姿を見かけるのは珍しい事だが…と訝しく思っていると、畑を横切って此方に遣ってきた。

 近づいて、輪郭がはっきりすると、その顔は…まさに仏頂面で、満面に不快の色を浮かせていた。何かこの俺に文句がありそうな顔付きであった。小生の顔を暫く睨んでいたが…やおら

 「お前は想像以上に愚かな奴だ…。破廉恥で、犬のような男だ…」と吐き捨てるように言う。

 「?……。」Nの言わんとする腹のうちが解からぬまま、黙然として従兄の仏頂面を見遣る。

 「婚約も整わぬのに…相手に変な手紙を書いたらしいな?。今が肝心な時に、さかりのついた犬みたいな真似をするものではない…」と、人を軽蔑した、苦りきった表情があらわであった。

 その時、小生は棍棒で頭を殴られたような、目が眩む幻覚に襲われた。俺は率直に心境を相手に伝えたまでだが、それが従兄Nから“さかりのついた犬“と面罵されたのである。

 俺としたことが…さかりのついた犬と罵られる程に恥ずべき行為だったのか?。我と我が品性を疑った。

 「手紙を書くことが悪いとは言ってはいない。まだ、そんなことをする時期では無いと言っているのだ。見合いをしたと言うだけで、未だ海のものとも山のものとも決まった訳ではない。お前のしたことは一人善がりで、徒に相手の心を惑わすだけだとは思わぬか。まさしく…小人・痴漢の悪戯の類で、世の常識にもとると非難されても仕方がない。実はな、見合いに立ち会った、彼女の後見人の叔父さんから、お前の手紙のことで…苦情の手紙が届けられたのだ…。何と返事をしたものか、俺の気持ちにもなってみろ」と、そんな内容のお説教であった。

 従兄Nの言葉は正論である。まさに、小生の肺腑をえぐり、泣き所を衝いていたのでグゥの音も出ない。ただ汗顔のていたらくであった。だが心の何処かで、男の自尊心が反発し、こんな風にも囁いていた。

 「年頃の娘が、男から真情の籠もった手紙を付けられて、心をときめかさぬ筈はない…これは人生永劫の理なんだ。さかりのついた犬とは、言語道断な話だ…」と。

 俺は見合いなどしなくとも、兄事するNの勧めてくれる相手とならば、結婚するつもりでいた。ただしそれは、相手が俺を気に入ってくればの話のことで、そこに小生の誤算があったのだ。

 なまじ見合いをしてしまったばかりに、小生の理性が狂い、気に迷いが生じてしまったのである。

 手紙を受け取ったM子女子も、その処置には、さぞかし思案に暮れたであろう…と思うと気が咎めた。

 どうも小生には…見合いは鬼門に思えてならぬ。以降、見合いは二度とせぬことにした。

 赤城山麓に入植して迎える二度目の夏である。赤城山を包む緑陰はすっかり夏の厚化粧に変わった。

 従弟のMはこの春、早々と所帯を構えていた。その相手は、以前から彼と交際のあった女性である。

 女子青年団の副団長、団栗眼の伊東女子も、同僚の開拓団員で小生同様の独身ものと結婚してしまった。

 今、目の当たりにする開拓地の景色も様変わりし、去年のものではない。さればといって、開墾が完了して畑地に変貌したわけでもない。

 台地を覆っていた松林は、僅かに屋敷回りの防風林にその痕跡を留めるのみで、あらかたは伐採されて裸にされた。開拓地の中央を南北に走る三間幅の道路は整備され、荷車が通行できる様になった。

 渺々と開けた原野は、開墾を終えた畑地が開拓地二十五町歩の面積の凡そ半分、あとの半分は松の切り株と、下草のむした未墾の荒れ地である。

 打ち払われた松の枝が、未墾地の所々に野積みされたまま置き去りにされていた。これが我々開拓者にとって大いに有用であった。

 日常の生活に欠くことのできない竈の薪に重宝されたり、時には、これを束ねて荷車に積み、町の銭湯に運んだりして、結構現金収入の足しにもなった。

 判を押したように…些かも変わらぬ光景は、黙々と鍬を振るう開拓者の人影と、朝な夕な…両端に溜桶を吊した天秤棒を担ぎ、水汲みに通う男の姿である。水汲みはくだんの〈一杯清水〉の窪地である。

 〈一杯清水〉は、小生の今の住まいからはわりに平坦なルートで、百メートル足らずの近場にあった。

が、従弟のM処からは、登りの坂道で数百メートルの距離があった。だから水汲みも、彼にとっては大変な重労働であった。

彼は水汲みに往復する道すがら、十八番(おはこ)の[ハワイ航路]を大声で歌唱するのが常であった。岡春夫の歌声よろしく…

 “はーれた空、そーよぐ風、港出船の、ドラの音たのし。………あぁー憧れのハワイ航路”

 己の歌声に陶然としながら、天秤棒を肩にした長身を…ゆらりゆらり…リズムに乗せて歩く彼の姿には、如何にも屈託がなかった。

 開拓道路を隔てて、向かい隣りのIさんも印象に残る一人である。Iさんの口ずさむ歌は、

 “今日もくれ行く異国の丘に、友よ辛かろ切なかろ…我慢だ待ってろ、嵐が過ぎりゃ…“

 決まって[異国の丘]であった。Iさんは満州開拓団の引き揚げ者である。遠い満州への望郷の思いが募るのか、抑揚の無いIさんの歌声には…そこはかとない哀愁があった。

 小生も皆と同様に天秤棒を担ぎ、歌で調子を取りながら水汲みに通ったわけであろうが、歌った歌詞も曲名も記憶は無い。

 さてもう一つ、変わりそうで…なかなか変わらないのが、小生の身の回りである。

 M子との結婚話が持ち上がったのが正月、そして見合いをしたのが五月のこと。その人と結婚することに決めていた小生は、見合いの後…ためらわずに彼女の許に手紙を書き送った。多分歯の浮くような…気障な文面であったに違いない。

 これがとんだ茶番劇で、独り相撲であった。行事(従兄N)の「待った…!」が掛かり、以来、しばらくは結婚の話は宙に浮いたままであった。

 そのころ、遠謀術策に長け、人生の機微にも通じた従兄Nの腹の内は…見合いを済ませた若い二人を、何時までも据え膳の儘、お預けにして置くのは…精神衛生上?良くないこと…と判断し、秘裏のうちに、それなりに手を回していた…らしい。だが…

 如何にせん、関東の群馬と彼女のいる関西(西宮市)とは遠く、離れすぎていた。

 当時は現在のように、電話という文明の利器が一般には普及しておらず、情報を伝達する手段は、もっぱら手紙に頼るだけの時代であった。関西まで一信の往復には少なくも十日を要した。

 故に、文面で…双方の見解を一つに纏めるには、かなりの手間ひまがかかり、埒が開かぬも当然のことであった。人間万事塞翁が馬というが、今は人事を尽くして天命を待つしかあるまい…の心境であった。

 六月の下旬か?、七月初旬の暑い日であった。畑に出て、松の根株を掘り起こしていた。五、六年も放置しておけば根株は腐敗して、やがて土に帰る。

 だが今のままでは、耕作するのに邪魔で、折角開墾した三反余りの土地の有効面積は、せいぜい二反歩であった。

 (俺には一町歩の土地を開墾する気持ちは無い…、今ある耕地を有効に活用するだけでよい。あとの未開地は緬羊の放牧に当てよう…)そんな気持ちになって、鍬を振るっていたのかも知れない。

 たまたまその時、郵便配達が開拓道路を赤い自転車を押しながら、汗を拭き拭き我が屋敷へ遣ってきた。

 「オギワラさんですね?小包ですが…」と言い野良着の姿を目にして。

 「印鑑か…無ければサインでもいいですよ…」と言う。

 差出人を見ると、住所は兵庫県武庫郡○○○、名前は藤木M子とあった。

 紛れもなく…見合いした彼女からの送り物であった。小包の中身は、己が襟元を飾るには分に過ぎた…渋い槐(えんじゅ)のネクタイえあった。これは、彼女が…婚約に同意した意思表示の印と…思った。

 以来…不思議なことに、遠隔の地にいる彼女が、急に身近な存在に感じられるようになったものだ。

 当然、我としても彼女に対して、座右すべき何か?を贈らねばならぬ。

 小生未だ會て、女性に物を贈った経験がなく、その何か?が見当もつかぬ。価値ある品物に越したことはないが、無職同全の分際ではそれ相応の物を選ぶしかない。思案の挙句、化粧用のコンパクトに決める。

 意を決して、リヤカーに松枝を束ねた束を積めるだけ積んで大胡の町に下った。往きは下り一方なので荷駄の運搬には、さほど労力は消耗しないで済む。

 出来れば此処(大胡)で処分したかったが、駄目なら伊勢崎まで運ぶつもりでいた。幸い馴染みの銭湯で引き取ってくれた。リヤカーはそこで預かってもらう事にした。

 さて、目当ての品物は奈辺にて贖うべきか…?迷った挙句、前橋に足を向けることにした。そこには、幾つか知った名前の店があったからである。

 化粧品を贖う店に入るには、あまりにも似つかわしくない我が風采であった。せめて、床屋に寄って首から上と、人目に晒す手ぐらいは人並みにしてからにしようと、上毛電鉄駅前近くの理髪店に入った。

 鏡に写る自分の顔に驚き、赤面した。だが登った血の気が判別できぬほど鼻の穴から、耳たぶまで燻煙と垢でくすんでいたのである。散髪と髭の手入れが済んだ後、久しぶりに頭を洗浄してもらった。その時石鹸水が真っ黒に濁っていたのを、今でも恥ずかしく思い出す。

 そんな思いをして買い求め、彼女に贈ったコンパクトは…何故か、M子の許には届かなかった。

 

 八月某日…。小生はM子と婚約した旨を、中学からの竹馬の友に手紙で知らせた。一人は高井英世、もう一人は金井吉雄の両君宛である。

 その当時、両名共に学生で親の臑を齧っていた。高井は日本医科大学に、金井は日大農学部醸造科に身を置いていた。高井はいずれ渋川で、実家(高井医院)の二代目を継ぐことになるだろう。金井の実家は酒造業である。が、不思議なことに彼は、酒は一滴も飲めない。

 たまたま、両君は夏休みで帰省していた。打ち揃って〈婚約のお祝いに参上する〉という返事がもたらされた。それから間もなく、彼等二人が赤城の山に遣ってきた。

 我々は三人で、よく旅をしたものである。上高地、日光の中禅寺湖…など、テントを背負って、泊りがけのキャンプは、夏休みの決まった行事であった。その頃は、乗り物の便は悪く、山道は歩くことを専らとし、わざわざ朴歯下駄を突っ掛けた、蛮唐スタイルを常としたものである。

 だから今度も、あの当時の格好で現れるかも知れぬな…と、想像していた。

 彼等には事前に、県立種畜場(富士見村木暮)から開拓地までの地図を描き送ってあった。渋川からその種畜場迄の間、二人がとった交通手段については、聞かなかったのか…記憶に無い。

 久しぶりに会した友人達は、学帽の代わりに麦わら帽子、長袖のワイシャツを着てリュックを背負い、朴歯下駄は靴に代わっていた。

 想像していた姿とは違う…ハイカラな軽装であった。何か、時代のうつろいを垣間見る思いがした。

 彼等が背負っていたリュックには、婚約の祝い?を兼ねた陣中見舞の酒肴が詰められていた。山小屋には、酌み交わすべき酒も、口にすべき肴の無いことは先刻承知の両人であった。

 その晩は、彼等持参の酒肴を友に…眼下に展開する値千金の夜景を愛でつ、満天の空にきらめく星を賛歌しつつ、深更にいたるをしらず、往年の思い出に花を咲かせた一夜であった。

 [友ありて、遠方より来る。また楽しからずや…]まさにそんな感慨が胸にしみた。

 

    八 金   策

 

 昨年秋の取り入れ以来、開墾した耕地の面積はそのままで増えてはいない。未開墾地は羊を放牧する予定があったので、敢えて開墾の鍬を入れなかったからである。

 その代わり、耕作地に残骸を晒していた松の根株を丁寧に取り除いたので、三反の畑はまるまる有効に使えるようになった。お陰で、作切りや除草も至極スムーズに出来た。

 陸稲、馬鈴薯その他の作物の収穫は、去年を大幅に上回った。陸稲は二俵(120s)

を越える収穫があった。この分だと収穫の一部を、現金に替えられるかも知れぬ…などとほくそ笑んだりもする。

 来年春(三月二十四日の予定)の結婚に備えて、二人分の食料の確保も然る事ながら、最低限の所帯道具を揃える為の現金が…今は喉から手が出る程欲しい。毎度のことではあるが、この時ばかりは泥縄的な自分の惰性が情けなかった。

 赤城山麓に入植して二度目の収穫があらまし片付いた秋も末の頃…。

 五十頭の“めんこい”子羊が開拓地に運ばれてきた。家畜用に共同購入したものである。

 堆肥は土壌を活性化する、農業には欠かせぬ有機肥料である。その堆肥を作るのに無くてはならぬのが家畜の糞尿なのである。

 だが、堆肥作りだけを目的とするには、羊はさして有効な家畜ではない。むしろ、牛や豚の方が即実践的であった。にも拘らず、敢えて、緬羊を優先させたのは…

 我々の開拓事業は、発足当時から新天地の未来像に…緬羊の飼育と羊毛の加工を描いていた。羊の導入は構想を具現するためのワンステップであった。

 もともとこの開拓団員は、皆が同じ夢とイデオロギーを抱いて集まった集団ではない。言わば…敗戦処理の義勇軍?なのである。

 従って、全ての者が必ずしも、団長(従兄)の意図する構想に同調するとは限らず、陶然のことながら二十四戸の開拓者の中には、独自の営農方針を目指し、羊の飼育にはあからさまに背を向ける者もあった。満蒙開拓団の引き揚げ者が、概ねその組であった。

 五十頭の緬羊は、希望に応じて十数戸に配分された。

 わが家への…半ば強制的な割り当ては、雌雄一匹ずつの二匹であった。小生にとって二匹が限界であった。その羊はコリデールという品種であるそうな。

 緬羊を引き取る際に、従兄のNは小生に 「工場掛け持ちのお主には…家畜の世話は無理だと思うが、堆肥が無ければ山の百姓は成り立たぬ…。お前が留守する場合には(従兄弟の)TなりMに頼んで行けばよい。二人には俺からもよく話して置く…」と言ってくれた。

 何かと…公私の雑用で留守がちな小生である。そうした立場を念頭にして配慮したものであろう。

 ちなみに、現在世界で飼育されている羊は、改良品種だけでも三十種があるという。このうち日本に輸入飼育されたのは2、3系統10品種で、現在主として飼育されているのは、日本の風土に適したニュージーランド原産のコリデール種である。

 コリデール種は毛肉兼用で、雌雄共に角がなく、姿勢は堂々として体幹の強健さを示している。羊毛はメリノー種に比べてやや太く、織物地に向いているとか。

 従来、緬羊は草食性と群居性によって、放牧飼育のイメージがつよいが、我が開拓地の現状はその段階ではない。畜舎飼育で堆肥を製造することが…羊の目下の使命である。

 いずれ…家畜小屋を拵えねばならぬが、取りあえず土間を仕切って畜舎に当てた。当分の間、夜は人間と家畜の同居生活である。

 思えば終戦直後…戦災で焼き出されて、農家の納屋に身を置く一時期があった。その時は、鼻毛もよだつほどの名状しがたい異臭に悩まされながら…牛と同居したものだ。その思いに比べれば、ペットのような子羊との同棲ははるかにましである。

 雑草に覆われた未開墾地に簡単な柵を張り、昼間はその中に羊達を放牧することにした。

 今のところ、体重は20s足らずの子羊なので、仮設畜舎から放牧地に抱えて移すことも苦もなくできたし、放牧地の飼料も十分すぎるほど豊かであった。この子羊も、生育すると体重は凡そ雄が70s、雌が60sに達し、繁殖率は130%だという。

 ゆくゆくは五反歩を放牧地にして、手の掛からぬ放し飼いにする計画でいるが、果たしてその面積で何頭ぐらいの緬羊が飼育できるのか?今のところ見当もつかぬ。

 家畜を飼うことが初体験の小生にとって、動物との付き合いは…肉体労働以上に気の安まらぬ疲労が伴った。

 「めぇーめぇー……」と哀れぽい声で泣くだけの生き物ゆえに、人間の赤ん坊のように…その扱いには気を遣ったものである。

 家畜の飼育は[習うより慣れろ…]で羊も飼い慣れてみると、泣き声一つで彼等の欲求が…、またつぶらな目の表情からは不満が理解出来るようになる。

 正月(昭和二十四年の)が明け年が改まると、いよいよ尻に火が付いたように気忙しくなった。去年までは夢か幻のようにしか思っていなかった我が身の結婚が…現実の影となって、目の前に立ちはだかったのである。一方、来春緬羊の毛の刈り込みが始まるまでには、伊勢崎に紡績工場の目鼻を付けねばならぬ。

 未だに結婚に対する備え…例えば箸・茶碗の類に始まり一切の炊事用具、衣類と収納箪笥・鏡台…等の所帯道具は何一つ整ってはいないのである。

 先立つものは金であるが、今小生の懐は逆さに吊っても鼻血も出ない有様。問題はその金策であった。

 多分、従兄のNに相談すれば相応の資金援助か、融資の斡旋はしてくれるかもしれぬ。だが俺自身の結婚に嫁の世話から軍資金の援助まで、仲人のNにおんぶにだっこでは、男一匹、あまりにも情けない話である。

 丁度冬の農閑期で、山にはこれと言った仕事もなかった。この際、暫く住まいを留守にしても…金策に奔走することに意を固めた。

 金策…といっても、その頃は今で言う日雇いのアルバイトが有った訳ではない。清水の舞台から飛び降りるつもりで、ある品物を闇のルートで捌く仕事(闇屋・担ぎ屋の類)をやろうというのである。実は、或る男から

 「伊勢崎銘仙を扱って…旨味の有る仕事があるんだが、一緒にやる気はないか?…ヒロシ君には、友達に杵淵君が付いているんだから…打ってつけの仕事なんだがなぁー」と誘われていた。

 杵淵は桐生工専の聴講生時代からの親友で、伊勢崎では屈指の織物工場[杵源]の御曹子である。

 朋友を金儲けに利用することは努めて避けてきた小生は、これまで[渇しても盗泉の水

は飲まず…]と、その誘いには乗らず、君子面を装って清貧に甘んじてきた。

 しかし事ここに至っては、その主義主張に拘ってもいられず[背に腹は替えられぬ…]と節を屈する境地になった…のである。

 従兄のTに、二週間ほど緬羊を預かって貰うことにし、赤城の山を下りた。Tは快く引き受けてくれた。これは飽くまでも従兄のNには内緒の仕事であった。

 旨い仕事の話を持ち掛けた或る男とは…

 その名を内山由郎(以下Y)といい、本来なら…伊勢崎でも名の通った織物買継商(問屋)の旦那でいられる結構な身分である。小生とは母方の再従兄弟で、俳優の天田敏明の叔父御でもある。

 戦争の煽りで織物が不景気とはいえ、Yの屋敷は戦災にも逢わず、傍目には幸運の星の下に生まれた男のように見えた。ところが、

“小人閑居して不全を為す”の伝で、Yは落語に出てくる呑む、打つ、買うの三拍子揃った放蕩旦那であった。先代からの財産も飲み尽くし、今は勘当同様の浪々の身であった。

 当時、伊勢崎銘仙を京都の業者に持ちこむと異常な高値で取引されたものである。商売柄Yはそれに目を付けたのである。さすが餅屋は餅屋である。

 小生の役どころは[杵源]から反物を信用で借り出すことで、Yの役はその反物をいかに高く捌くか…と言うことであった。儲けは…切りよく折半することで話が付いた。

 小生が一番心配したのは、仮に途中で警察官の検問に逢い、売品を全て没収された時のことであった。Yは空馬に怪我なしで済むであろうが、小生は…大袈裟に表現すれば、親友を裏切り、結婚はお預けまさに地獄のどん底に喘ぐことになる。その事をYに質すと、手練手管の放蕩旦那は…

 「心配ないよ、見つかるようなへまはやらんし…今まで捕まったことはない…」と妙な理屈を言い

 「万が一パクられたところで、ヒロシ君には迷惑は掛けぬ。俺は伊勢崎の内山だ!」などと、大きな啖呵を切った。その彼が勘当同然の身だから心配なのである。

 不本意ながら今の窮状を朋友杵淵に訴え、銘仙を三十匹(六十反)を信用で借り受けた。厚かましさついでに旅費の分まで都合してもらったのである。

 戦後間もない古いことなので…金額は記憶にないが、手渡された祝儀袋には、京都往復の汽車賃にしては多すぎる額の金子が入っていた。その時杵淵は

 「少ないが…これは君の結婚への祝儀の印だから返さなくてもいい、餞別のつもりで自由に使ってほしい」と言った。

 戦災でわが家が焼け落ちた早朝、真っ先に駆けつけ、後片付けをしてくれたのも杵淵である。いざという時、友達とは有難いものだ。

 Yと小生、二人の野次喜多コンビは伊勢崎を振り出しに、東海道は五十三次、京までの珍道中が始まる。

 五尺そこそこの矮矩なYは金縁の鼻眼鏡をかけ、黒いフエルトのハンチングを被り、二重回し(マント状になった外套)で身をすっぽり包み、足には白足袋にござ引きの草履という出で立ちであった。一つ一つは如何にも呉服問屋の若旦那風に見えるが、全貌はまるでサントリーウイスキーのダルマ瓶であった。手には信玄袋のようなバッグを提げていた。

 その相棒の小生は、一見紳士風で髭の剃り後が青く、ソフトを目深く被り、だぶだぶの外套をぎこちなく鎧っていた。二人の足取りは何となく重そうに見える。

 両人のそれぞれの二重回しと外套には、二十反以上の反物が仕掛けられていた。残部は胴回りに装着していたので、達磨顔負けの格好であった。なるほどこれならば検閲の目も眩ませるかもしれぬ…と思った。

 然し、転んだら起き上がるのに容易ではなかろう…と苦笑が込み上げた。

 その当日の午後8時頃の東海道線下り夜行列車に乗りこむ。

 急ぐ旅ではなし各駅停車の鈍行であった。車両は横腹に赤い筋の入った三等車である。客室は既に満杯で、通路は足の踏み場もないほどに塞がっていた。

 車内は人息と煙草の煙でむんむんしていた。人垣を掻き分けて中央部に進もうとするのだが、脹らんだ身体が邪魔して思うように身動きができない。

 やっとの思いで中程にたどり着くと、そこには割りと空いていた。昇降が楽のように大概の者がデッキ近くに群がっているのだ。各駅停車だから最寄の駅で下車する人たちなのであろう。

 Yはバッグから用意してきた新聞紙を数枚取り出して、半分を小生に渡し…

 「これを床に敷き、オーバーを脱いで畳み、それを尻の下に敷いて腰を下ろすと楽だ…。寝る時は尻の下の奴を延ばせば布団代わりになる…」と言う。

 幾度となく体験済みのYには、すること為すことに卒がない。小生は彼の言うなりに行動すれば良かった。これで儲けが折半とは話が旨すぎると思った。

 小田原を過ぎた辺りから大分乗客の数が減った。通路も歯が抜けたように疎らになった。

 「寝る前に一杯やろう…酒なくて何で己が桜かな」と言いつつ

 Yはトリスの角瓶とグラス二つと柿の種、スルメを…まるで手品の如く、くだんのバッグから取り出す。彼の行動の一駒一駒がシナリオの台本通りに演出されていた。

 Yは身上を傾けたほどに無類の酒好きである。今はその酒も…意のままには飲めぬ彼である。それゆえにかかる珍手の商売を思い付いたのであろう。まさに“窮すれば通ず”と言うべきか、それとも“貧すれば鈍する”の方かもしれぬ。

 呑むほどに酔うほどに、酒焼けしたYの赤い鼻が一層濃度と光沢を増してくる。

 熱海を過ぎた辺りであろうか、一度だけ車掌が車内巡回に遣ってきた。一瞬身が縮むような緊張感が全身に走った。さすがにYは毛ほどの動揺も示さず、何食わぬ顔でグラスにウイスキーを満たし 「遅くまでお役目ご苦労さまです。元気付けに一杯いかがですか…」と言って、グラスを差し出した。

 車掌はにっこり笑っただけで、手を振りながら通り過ぎていった。役者顔負けの演技である。

 翌朝6時頃、つつがなく京都駅に着いた。東山の稜線が陽のさし始めた空に浮いてみえるるが、街は森閑と深い帳に沈んでいた。噂の通り冬の京都は凍てつくように寒い。ストーブのある待合室で持参の握り飯を食べつつ夜明けを待った。

 Yの知り合いだという呉服問屋は、どこをどう歩いたか全然覚えはないが…八坂神社の近くで、四条通りにあった。Yは手馴れた商談の末、仕入れた値の倍の値を付けて捌いた。この時、小生が手にした金額はおよそ3000円であった。

 帰りは晴れ晴れと、気ままに、道草食いながらの双六道中であった。

 

    九 台   風

 

 昭和二十四年三月二十四日。

 小生とM子は、伊勢崎の自宅で神式に則って、至極簡素に結婚式をあげた。時に、小生は二十四才と十か月、M子は二十二才三ヵ月であった。

 その間に、屡々手紙の遣り取りはあったが、見合い以来ほぼ一年振りの再会であった。関東と関西という距離の隔たりがあったにせよ、現在では考えられぬような古風で、折り目正しい婚約者であった。

 父が亡くなってから、兎に角…一家揃って生活ができるような住居を求めて転々とした。現在の住まいは久保田鉄工所(姉が勤めていた)の寄宿舎を借り受けたもので、八畳が三間も付いた…焼き出されの家族にとっては贅沢なものであった。

 仲人は従兄のN夫妻、式への参列者は、新郎側からは親族と伊勢崎在住の親戚数人と、友人は代表して杵淵一人。新婦の側からは、母親が大阪から、兄が東京から遠路遥々の参席であった。

 式を司るのは、もとの大家で実懇の金子翁であった。金子翁はもともと老練な大工の棟梁であるが、華道・茶道の造詣が深く、祭事の作法にも精通していた。それ故に神官もどきの祝詞はお手の物であった。挙式は簡素ながら型通り厳粛なものであった。

 渋川の友人、高井と金井の両君からは、祝い酒五本と祝い金が連名で届けられた。

 昔から、結ばれる男女は“生まれた時から、小指と小指が赤い糸で結ばれている”と言う。ロマンチックで夢のような話だが、それを信じるほど小生はロマンチストではない…。

 曾ての小生は、同僚からは放蕩無頼な男と見なされ、自分でも外見は硬派を装っていた。

 〈鐘馗の異名で呼ばれ…色恋には無縁なバンカラ男と囁かれもしたが、俺にだって思い思われた相手が…満更無いわけじゃぁない。つき合った女は指折り数えても五本の指では足りぬ…〉と、嘯く程…色香に迷う多情多感な一面もあった。

 その何れの恋も、青春の血をたぎらせただけで、実ることもなく、何時の間にか…線香花火のように儚く消えてしまった。多分、赤い糸が小指に絡まっていなかった?…のかもしれぬ。

 見合いするまで、見も知らぬM子であるが、不可思議なくらい彼女は、小生と…縁無き衆生ではなく、目に見えぬ糸で結ばれていた…ような気がしてならぬ。

 彼女は生粋の中国生まれの中国育ちである。偶然にしては出来すぎた話であるが…

 小生が富岡中学の在学時代、在職していた校長はじめ国漢、図画、英語など数人の教師が青島女学校(中国山東省)に赴任して、M子達の教鞭を取っているのである。

 お互いが…異国の空の下で、同一の、而も複数の教師から学んだのである。結婚してからそのことを知り、吃驚した。

 また、畏敬する従兄のNが中国大陸に渡り、M子の父親の知遇を得たことも、まさしく偶然であった。そして、仮に小生が開拓地に入植していなかったら、恐らく結婚の話はなかった…であろう。

 等々のことを考え併せると、まさしく、“縁は異なもの味なもの“としか言い様がない。

 それ以上に、粛然と胸に沁みる衝撃的な偶然は…M子の長兄の英霊が、上州の榛名山中に眠っている事実である。

 遭難した当時、M子の長兄は陸軍航空士官学校を卒業して少尉に任官したばかりの青年将校であった。

 昭和十六年八月某日、長兄の駆る偵察機(新視偵)が先頭で、数機の編隊を組み、榛名山に上空を掠め飛んだ。折りしも、榛名山は厚い雲に包まれ、視界0であった。

 先導した長兄の機は不運にも掃部岳(かもんたけ)の絶壁に激突、散華したのである。掃部岳の麓には今もその鎮魂の碑がある。長兄の魂がM子を上州に呼んだ…因縁めくが、小生にはそう思えてならぬ。

 式の済んだ翌日、約束通り従弟のMと開拓仲間の小池さんが牛車を引いて遣ってきた。新妻の荷物やら、寝具など所帯道具の搬送を依頼しておいた牛車である。

 ついでなので、私達もその牛車に便乗させてもらうことにした。何とも風変わりで、粋な新婚旅行であった。この新婚旅行にはM子の母親も同行した。

 牛車に揺られての…新婚旅行の行く先は、間近に霞んでみえる赤城山である。当分…投宿することになる宿舎は、宿賃ただの金丸開拓村のランプ小屋である。

 ここには残念ながら温泉はない。入浴は盥桶の行水か、ドラムカンの露天風呂である。

 その露天風呂も当初、わが家には無かった。屡々、隣の井田さん宅や、前の青木さん宅のドラムカン露天風呂に入れてもらったものである。

 わが妻女も、やがてこの腰高のドラムカン風呂を不器用に跨ぎ…恥も外聞もなく、あられもなき裸体を、露天に晒すことになるのである。

 ところで、先だって再従兄弟のYと反物を京の都に運び、闇で荒儲けした3000円は、新所帯の準備に大いに役立ったことは言うまでもない。

 先ずもって、半反程の…扉の付いた立派?なトイレを新設した。かりそめにも都会育ちの新妻に、自然の中での用足しも…哀れと思う夫(その時は未だ婚約者)の思いやりであった。

 折角の新品トイレも、住居からは東側に四、五間ほど隔てて建てた外便所であった。暫くの間、M子は不気味な松籟のざわめきに、真夜中のトイレ通いには不安を覚えたようである。庭先で気恥ずかしく用を足したこともあったらしい。

 その他に…鏡台、下駄箱、洗たく板と盥、勝手の流し台、三升釜(行水用の湯を沸かすための)…なども、思いつくままに買い揃えた。

 畑地に変わった開拓地は、砂埃が大変なので食器類をしまう茶箪笥が欲しいと思ったが、そこまでは資金が続かなかった。

 だからといって…もう一度、Yと組んで担ぎ屋をしてまで闇金を稼ぐ気にはなれなかった。

 それにしても…今まで、家畜の異臭が漂い、寒々としていた侘住まいは、花嫁を迎えて、萎れた花が水を吸い上げたように馨(かぐわ)しさが蘇った。

 これが家庭というものかと、しみじみ実感したものである。

 この充実感がある限り…清貧に甘んじても地道に、二人の将来は二人で切り開けばよい…その時は心底そう誓った…筈である。

 一緒に山に来て一週間ばかり滞在して、M子の母親は…一抹の不安を残して帰った。両毛線前橋駅まで、二人は見送りに同行した。さてこれからは、天涯孤独…他国の空で、正体不明の男と道連れで逞しく生きて行かねばならぬ彼女である。生命を生み、育てねばならぬ女性の生活力には、男には計り知れぬ雄

々しさがあると思った。

 その頃、既に山里は農繁期に入っていた。同時に、伊勢崎の織物工場も稼動の準備に追われ、小生の体も忙しさを増してきた。

 M子は、戦後内地に引き揚げてから…一時期、大阪にある父方の実家に身を寄せていた。その実家は大きな地主で、稲刈りや脱穀など…いろいろと農仕事の手伝いをしたという。まるきり初めての農作業ではないらしい。しかも、見掛けは人並み以上の体格である。小生には、まさに頼もしき…パートナであった。

 四月下旬、あらかたの種蒔きが片付き、去年導入した緬羊の毛の刈り込みも済んだ。

 毛を剥がれた羊は、見るも哀れに、痩せ細って見えたものである。

 この頃になると、小生の伊勢崎参りが定期券で通うほど頻繁になった。勢い…野良仕事もそれだけ、M子に掛かる負担が大きくなる。今のところ畑の仕事は一服状態えあった。

 彼女は胸を張って、得意そうに

 「私は…戸外の仕事は気持ちがよくて、好きよ…」と元気溌剌と宣言してもの珍しさもあってか?…自分で出来そうな仕事を、積極的に見つけては惜しみなく体を動かしていた。

 所詮女の細腕では始末に負えぬ相手?だが、M子は健気にも松根っ子に取り組み、それの掘り起こしに挑戦したりもした。よほど気丈で、意地っ張りなのであろう…。掘り起こしきるまで、執念深くしがみついていたこともあった。

 また彼女は羊の世話や、亭主不在の時は、見よう見まねで堆肥造りもした。

 工場の仕事は…未だに試行錯誤の状態であった。軌道に乗せるのにもう一歩という段階である。

 その工場というのは粕川の近くで、以前小生が赤城山に入植するまで勤めていた日進電気からあまり遠くない場所に在った。

 前身は[尾内紡績]と云う織物工場であった。そして現在、その呼称を[金丸開拓協同組合毛織伊勢崎工場]と改称し、尾内氏を[

工場長]、開拓組合からは小生が[専務]として加わり、共同経営の形態を取っていた。尾内氏の本業は紡績であるが、彼は研究熱心で、ユニークな発想の持ち主であった。足踏みの脱穀機を改良して梳毛機を考案したのも彼である。

 小生も機械屋の端くれで、血が騒ぐのかつい仕事に熱が入り、新妻の待つ我が家へ帰宅する時間を失することもあった。

 ある晩のこと、仕事に手張り山に帰りそびれて、実家に泊り込んだことがあった。その時、お袋から

 「馬鹿だねぇーお前は、可哀想に…M子を一人山ん中に残して…。帰れぬ時は一緒に連れて来るもんだよ…今からでも帰れたら帰っておやりな…」と言われた。

 「今からじゃ無理だ…電車がない。遅くなったら泊まって来ると言ってあるし…、それにアレ(彼女)は一人でも大丈夫だ…と言っていたから…」

 「馬鹿なこと言うもんじゃないよ。若い女を一人にして、お前は平気なのかい…若し拐されでもしたらどうするのさぁ…。もしものことがあったら、向こうのお母さんに顔向けが出来ないじゃないか」と酷く叱られたものだ。その後で…

 「それにしても、あの子は気立ては優しいが、気丈な子だねぇー、うちの子供にはとても真似は出来ない…」と、つくづく感に耐えた顔で呟いた。

 お袋にそう言われると、山のことが急に心配になった。泥棒に入られても、〈持って行かれて困るものは何もありはしない〉と思っていたが、〈一番盗まれて困る生身の女房〉のことは念頭に置いて無かった。当時、山の閑村では心ない夜這いが頻りであった。とんでもない迂闊さが悔やまれ、その晩はよく眠れなかった。翌日は早々に仕事を切り上げ、陽のある中に飛ぶように我が家に帰った。

 赤城山に入植して、三度の暑い真夏が遣ってきた。

 M子の食欲が急に無くなり、トマトをしきりに欲しがった。他所のものは大きく育ち熟しているのに、なぜか我が家の庭先のトマトは、やっと大粒の梅の実ぐらいにふくれ、青くて固くとても人間の食用にはならぬ。M子は恨めしそうに貧相な我が家のトマトを睨めていた。朝な夕な…睨まれて萎縮してしまったのかもしれぬ。事情を話し…隣・近所から熟れたトマトを貰いうけて食べさせたものである。

 もしやと思ったが…矢張りM子は悪阻が始まっていたのである。出産の予定は来年の春三月の末だという。

 九月のある日。工場の方もほぼ軌道に乗り、毛糸の生産やら、ホームスパン地の加工も順調であった。秋には東京の白木屋百貨店で展示販売の計画である。これに成功すれば、将来の希望は明るい。

 朝からラジオが台風情報を流していた。昼の予報では、台風の中心が関東を襲う可能性が濃厚であった。黒い不気味な千切れ雲が東から西へ、怪鳥のように走る。生温かい風がヒューヒューと電線を奏でる。

 最新の情報では今夕6時頃、台風の中心が駿河湾に上陸するらしい。而も、かなり大型の台風らしい。群馬地方の直撃は必至の様相であった。もし交通機関がストップしたら、また足止めを食ってしまう。

 4時、早めに工場を出、風に押し流されるようにして両毛線駅に急ぐ。前橋両毛線駅から上毛電鉄中央駅まで約1qを徒歩、途中で雨が落ちてきた。大粒な雨の波状攻撃である。

 大胡行きの電車に乗り込んだ辺りから、風雨が強くなってきた。全ての窓を締め切った車内は、まるで蒸し風呂であった。

 窓ガラスには横殴りに雨足が走り、外の景色は暮色に霞んでみえた。予報によればそろそろ台風が上陸した頃だ。台風が北々東に時速40qで進むとすれば、中心がこの辺りを通るのは夜の8時か9時の間になる…だろう。M子が一人でおろおろしている姿が目に浮かぶ。気丈といっても…女である。

 大胡駅から金丸まで急ぎ足で帰っても、M子の待つ我が家に辿り着くのは7時半頃になる。山道に掛かると、風雨は激しさを増してきた。生憎雨具の用意はしてないが、なまじ在ったところで何の役にも立たない。頭から足の先まで、バケツで水を被ったようにずぶ濡れであった。が、汗を洗い流しているようで気持ちがよかった。

 山道は忽然と川底に変貌する。雨水が瀬音をたてて流れ、足もとを掬う。山道はローム層の赤土なのでよく滑る。転びつ、まろびつ…這う這うの体で我が家に辿り着いた。

 山麓を舐めるように吹き上げてくる辰巳(南東)の風雨は、マッチ箱のような華奢な掘っ立て小屋を、容赦無く煽り立てていた。

 M子は居間の南側ガラス戸を内側から、両腕を広げ、必死に押さえていた。それしか自然の猛威に対して抵抗する手立てはない…まさに、そんな格好であった。

 小生の突然の出現と、雨坊主のような異様な姿に一瞬愕然となった。夫であることを確認すると、一度に緊張の糸が切れ、へなへなとそこに崩れた。

 

   十 エピローグ(人間万事塞翁が馬)

 

 それは、昭和二十四年の秋の半ば、多分十月初めのことであった…。

 〈大胡金丸開拓協同企業組合製造・直売の純毛製品〉と言うキャッチフレーズで…東京は浅草の白木屋百貨店(今のデパート)で、我が[開拓団毛織物伊勢崎工場]で作られた毛製品が、にぎにぎしく展示、販売されることになった。

 出展物は、まさしく上州赤城山麓の開拓地で飼育された緬羊から剥ぎ取って紡いだ100%の毛糸、手芸品(主に女性向きのセーターやマフラー)、男性用の手織り服地(ホームスパン)などで、掛け値なしの自家製品であることには違いない。

 但し、出展物の一部(手芸品)は、後述の藤生工場で委託生産したものであった。

 赤城山麓に入植して苦節すること三年有半、二十余戸の一握の開拓者が、試行錯誤の末に…やっとの思いで物にした羊毛の加工品が、所は花の都のど真ん中で…衆目にお披露目されることになったのである。

 柄に無く、引っ込み思案で、人目を気にする小生にとって…この度のイベントは、晴れがましさよりも、ドサ回りの田舎役者が、無理やりに晴れの檜舞台に押しあげられて大見栄を切らされたような、面食らった思いであった。些か照れくささもあり…穴が有ったら入りたい気持ちとは、まさにこんな気持ちをいうのであろう。

 売り場の一隅に設けられた[地場物産店特設コーナー]は、いざ蓋を開けてみると、案に相違し人足を止め展示品の評判は好調で、その日のうちに売り切れた。世の意表を突いたこの特攻作戦は意外な反響を呼んで成功裡に終幕した。

 このイベントの仕掛け人は、生後間もない我が殖産工場(金丸開拓協同組合毛織伊勢崎工場)の良きアドバイザーである藤生氏であった。

 藤生氏は当時、前橋市内に毛織工場を構え、小規模ながら羊毛とスフ混紡の婦人服地や、半自動式の毛糸編み機で婦人物のセーター等の加工を専業にしていた。出展品のうちセーター類の手芸品はすべて藤生氏のデザインである。

 彼には二つの顔があった。表の顔は、戦前から十数年にわたって羊毛の加工と販売に携わってきたこの道のエキスパートで、羊毛品の製造から流通に至るまで、その裏表を知り尽くしたベテランである。

 藤生氏のもう一つの顔は、知る人ぞ知る…県・硬式テニス界の重鎮で、県を代表する名プレーヤーであった。

 そのあたりに、スマートで強靭な彼の人格が秘められているのかもしれぬ。

 駆け出しで一本気の小生と、深謀遠慮で熟成した藤生氏とでは比肩することすらおこがましいが、性格は勿論のこと処世術、物の価値観…など何から何まで小生とは対照的であった。

 にも拘らず、馬が合うというのか…小生にとって藤生氏は、親近感が通う兄貴分であり、かつ腹の底を打ち明けられる良き相談相手であった。

 不思議なことに…小生が何時、何処で、どのようにして藤生氏と関わりを持つようになったのか、その出会いの経緯については、まるで記憶がないのである。

 偶然の出会いということはまず考えられぬので…事の起こりは、従兄Nの引き合わせによるものか、或いは工場長の尾内氏の紹介か、それとも朋友杵淵君の仲立ちがあったのか…その何れかであろう。

 先般、一応の成功を納めて終幕した東京・白木屋百貨店での展示・即売会の直後、その藤生氏はいみじくも…

 「荻さん(彼は小生をそう呼ぶ)…、この先二度と東京で前のような展示会が開かれることは無いと思いますよ。あれが最初で最後のチャンスだった…と思う。例えにも〈柳の下には同じドジョウはいない〉というからねぇ。あの時はたまたまタイミングが良かったのと、素朴な田舎臭さのが案外都会人の意表を突いて受けたんで、これからは果たしてどうなりますかねぇ…」と、小生には些か気にかかる暗示的な言葉を漏らした。そして

 「これからはもっとアメリカ風スタイルで、安くて洗練された衣服が一般には嗜好されるんじゃないかと僕は思いますね…」と予言したのである。

 「…なるほどそうかもしれませんね…アメリカの兵隊は如何にもスマートで垢ぬけた格好をしてますものねぇ…」と素直に頷いたものの、流行にはとんと音痴な小生には彼の言わんとする思惑が解かったようで解からなかった。

 「手作りのホームスパンや太い毛糸で編んだぼてぼてのセーターには、それなりの味と良さがありますが、僕の感触ではそろそろ前時代的なものになりつつある。…今のものが全て時代遅れとは言い切れないけれど、余程目先の利いたものを作るか、西陣織のように古典的な特色を持った地場産業でない限り、大衆から飽きられることは確かでしょう。これからは一層そうした傾向が強くなると思うんです。…この間…僕ね、新町にある鐘紡[鐘淵紡績]に見学に行ってみて実に驚きましたよ…」と一呼吸おいて、藤生氏はさらに話を続けた。

 「大企業の凄さというか、資本の底力というか…そこ(鐘紡)では、原毛の仕入れから紡績、染め、機織りまでの一貫した生産工程が自動化されていて、どんどん大量生産化が進んでいるんです。それは想像以上の光景でしたよ。彼らには国内のすべての原毛買い占める資金がある。さらにはニュージーランドあたりから安い羊毛を買い付けることも出来るでしょう。やがて…それも近い将来、下請けが頼りの我々のような零細企業は踏み潰されてしまうか、呑み込まれてしまうんじゃないかと…恐怖を感じましたね。…恐らく来年あたりは…大企業から、より安くて品質の良い[高級な服地]が市場に氾濫するんではないかと思いますよ…」と

 重ねて予言した。小生は瞠黙したまま、彼の意外な物語に耳を澄ましていたが、堪りかねて

 「すると、うちのような半端な殖産工場は…所詮成り立たぬということですか?」

 東京で思わぬ好評を博したばかりだったので、いくらその道にかけては先輩の藤生氏の断定的な予言であっても、まさかと信じがたい気持ちで聞き返した。

 「あるいはね?…だが流行なんてものはその場限りで、所詮は…根無し草みたいなものです。気まぐれであぶくみたいなものなんですよ。温故知新で…何時かは古いものが見直されて、ホームスパンのような味わいのあるものが、また流行る時期が来ることはあるかもしれないが、当分は大企業が流行を先取りすると思いますね…。然し、地場産業にはそれなりに、例えば紬のように…機械化や量産化の出来ない…何かが有るはずです。大企業では出来ないもの…これを見極めて先取りするのが地場産業の生き残る術でしょうね。それには忍従で地道な努力と、苦節十年…長い時間がかかります…」

 それ以上のことは…その時になってみないと解からぬ…といった表情で、深謀遠慮の藤生氏は淡々と述懐を締め括った。それは恰も…

 (お主達の目指している理想の農・工複合の企業も今のままでは夢物語で終わる。これまで以上の苦労と時間が掛かる…。井の中の蛙では早晩、資本の力に叩かれて大企業に捻り潰されるであろう…)と諭す宣言であるようにも聞き取れた。

 藤生氏の予言は、それから半年を待たずして現実のものとなった。

 昭和二十五年の初頭から舶来品のような国産服地が潮の如く巷に溢れた。それはまさに、品物も値段も我々が生産する品物とは段違いに新鮮なものであった。

 昭和二十四年の年末、颯爽と伊勢崎にデビューした筈の開拓者殖産の毛織工場も、在庫の原毛が底を突くと…ぷっつりと、糸を紡ぐ音が止まってしまった。

 何処からも原材料の羊毛が入ってくるあては無く、操業は完全にストップしてしまったのである。事実上の工場閉鎖であった。

 三月前の十月の初め、東京で華々しく打ち上げた三寸玉の花火も、それから僅か三ケ月後には線香花火の如く儚く萎んでしまったのである。

 この間、在庫の原毛で作られた製品は、辛うじて…委託販売の形で前橋や伊勢崎の洋品店のウインドーに飾られたり、藤生氏の流通ルートで捌かれた。

 さて、小生の生涯で一番悪戦苦闘を強いられた体験は、倒産した工場の後始末であった。

 仮そめにも開拓協同組合の代表(名ばかりの専務)として乗りこんだ以上、尻を捲くって逃げ出す訳にも行かなかった。

 経理担当の事務屋が雇えなかった事情で形ばかりの専務の肩書きの故に、工場の経理は否応なく…簿記のボの字も知らぬ小生が担当する事になってしまった。

 技術屋畑に育った小生にとって…経理とか簿記だとかいう事務屋の仕事は、なんとも頭痛の種で、まるで目隠しして算盤を弾くようなものである。

 因にこのぼんくら専務は、発足当時の資本金がいくらで、工場(尾内氏との)の賃貸契約がどうなっていて、緬羊の原価が幾らなのかも知らなかった。いわんや…適正な製品の原価計算など出来る訳がなかった。

 製品の市場価格の決定は、藤生氏の胸三寸に委ねられたのである。

 小生はただ組合長のNの意のままに、その日その日の金の出入りを、大福帳に記録して置くだけが精一杯であった。

 仕事の忙しいときは付け忘れたり、数日分を纏めて記入することもたまさかでなく、誤記もあった。斯くの如く、小生の経理は…我ながら呆れるほど杜撰なものであった。

 故に、いざ収支の決算となると当然の如く帳尻があわず、まさに〈勘定合って、銭足らず〉の侍商法を地で行くようなものであった。

 とどの詰まりはドンブリ勘定で…当時の金でおよそ数万?円の赤字を計上して帳尻を合わせた。

 倒産の理由はどうあれ、組合長である従兄のNは

 「倒産の責任はお前ばかりのものではない。…赤字は組合連帯のものだ。後の始末は俺に任せろ…」と言ってくれたが、小生は立場上…赤字を出した応分の責任は取らねばならぬと腹を括っていた。

 どう始末を着けるか…あれこれ思案の末、開拓地の所有権を放棄することで赤字補填の一部に当てる事に意を決めた。徒手空拳の自分に成しうる手段はこの一手しか無かったからである。

 小生が離農することについて、組合長である従兄のNは一応慰留した。が…殖産工業の見通しが立たぬ以上、農業では小生の未来が暗いことを見通して同意した。

 男子志を抱いて郷関をいで、赤城山麓の開拓に新天地を求め壮途についたが、時に利非ず、経霜四年にして夢幻の如く消え果てるとは…まさに男子の本懐とするところに非ず、痛恨の極みであった。

 妻の出産(予定日は三月末)のこと、開墾も進まず、猫の額ほどのささやかな田圃ではとても家族を養うことは不可能であったこと…を考えれば、行く道を転ずるもまた止むを得ない仕儀であった。

 小生が開拓を断念し、赤城山を下ることに決めた理由はもう一つあった。

 伊勢崎に授産施設の織物工場を開設するに当たって、当分の間、小生は家を空けねばならぬ。開墾は所詮、新妻のか細い腕では歯が立つべくもなかった。

 そこで小生が家を留守する間、仲間同志の互恵の精神で…未墾地二反分の開墾を手伝うことが組合の約定であった。

 その当時は未だ、開拓者は自分達の身の回りの仕事が手一杯で、他人の頭の蝿を追えるほどの余力が無かったこともまた実情であった。

 故に小生も、そのことに余り期待はしていなかったが…その約定はおろか、実りの秋の取り入れにも手を貸す者はいなかった。この事が…開拓に見切りを着けた間接のきっかけであった。

 人は小生にこう言うであろう…

 「お前は…あたら青春の四年間を棒に振ってしまったではないか…」と

 小生胸を張り答えて曰く

 「人は人、俺は俺…人生至る所に青山あり。明日は明日の風が吹く。人間万事、塞翁が馬…」と

 なにがしかの、得体の知れぬ借金を背負って、昭和二十五年三月某日赤城山を去る。

 それから数年を経て、得体の知れぬ借金のことで…前橋地方裁判所から呼び出し状が届いた。その顛末については後述の機会に譲り、この章をひとまず終える。

 

 

 

 

 

 

   デモシカ先生奮戦記

 

 私は昭和二十五年四月一日付で、渋川町立(新制)中学校の教師になった。時に二十六才の新任である。

 かつての私を知る学友達は、異口同音に…

 「お主が教師になるとはなぁー、まさに青天の霹靂…。日本の教育もいよいよ地に落ちたと言うべきや…」と、好き勝手なことを言って“嘆いた”ものである。中には

 「宮仕えだけはしたくないと言っていた君だ、誰が見てもお主は教師の柄ではない。一体何の心境の変化が起きたのか…?」などとお節介を焼くものもいた。その度に

 「食うためには腹は背に変えられぬ。凡夫、生きるためには…変節もまた兵法のうち…」

と敗戦の将、多く兵を語らず…デモシカ先生は苦笑するのみで、それ以上返す言葉もない。

 

    一 三つ子の魂百まで

 

 “すまじきは宮仕え”の節を屈して“柄でもない教師に変身”した男の…実像(本性)を質す為に、私の来し方26年の過去帳をひもとき、殊に…小年期(小学生から中学生の頃)のエピソードを回想することにする。三つ子の魂百まで…と言うから。

 私は昭和六年春爛漫の4月、前橋市立桃井尋常小学校に入学した。

 校庭の満開の桜の老樹が梢を重たそうにたわめいていた。当時は現代(いま)よりも桜の開花は遅かったようである。

 満開の桜の下で、新入生の写生会があった。綿帽子のような桜の樹梢の上に、赤屋根の教会の尖塔が二つ並んで立ち、ブルーの空に映えていた。私はその光景に感動を覚え、夢中で画用紙の上にクレヨンの色を重ねた。描き上げた八つ切りの小さな絵が…ずーんと大作に見えた。この絵が展覧会で一等賞になった。以来、私の一番好きな教科は図画であった。

 何時であったか記憶にないが…入学早々の出来事である。校舎の屋根瓦が降って落ちるような大きな地震があった。教室内は騒然となり、女の子は悲鳴をあげ先生の所に走る。顔色を変えた先生は…

 「落ち着いて!落ち着いて…机の下にもぐるんだ!」と指示を与えたが、初体験の一年坊主は右往左往するばかりで為す術をしらなかった。

 ところが、私は咄嗟に窓から飛び降り、落ちる瓦を掻い潜り中庭に走り出た。さらに渡り廊下の潜りを抜けて広い運動場に逃げた。校庭には幾筋もの地割れが稲妻のように走っていた。

 後で、受け持ちの先生から大目玉をくった。がその時は、なぜ叱られたのか…はその理由が解からなかった。

 その事件から間もなくのこと、所持禁止の[肥後の守](折りたたみ式のナイフ)をポケットに忍ばせて校庭で皆と戯れていた。何気なしに…肥後の守を掌の上で遊ばせていた。それを見咎めた女の子が

 「先生に言いつけてやる…!」と騒ぎ立てた。皆の顔が一斉に私と女の子に集まった。

 私は無意識のうちにナイフの刃を拡げ、右手に握りしめてその女の子を追いかけた。その女の子は悲鳴を上げて仲間の中に逃げ込んだ。皆は蜘蛛の子を散らすように、この危険な男から遠ざかってしまった。白昼夢から覚め、虚脱した私は、肥後の守を手にしたまま…校庭で一人茫然と佇んでいた。

 この時の科せられた体罰は、厳しいものであった。放課後遅くまで[閻魔堂]に監禁された。

 閻魔堂は階段の踊り場下の空間を仕切った物置兼用の折檻部屋で、出入り口には頑丈な格子戸が嵌っていた。昼なお暗いこの部屋は、児童達が怖がって滅多に近付かぬ場所である。念が入ったことに、暗がりの奥まった隅に大きな目玉をむき出した、赤い顔の閻魔様が置いてあった。さすがに、その時の恐怖は想像を絶するものであった。懲罰にはもうひとつおまけが付いていた。それは…私がこれ迄に起こした罪状を縷々したためた、父兄宛の手紙である。そのことで母親は激怒したが、父は沈思黙考であった。

 一学期が終わり、初めての[通信簿]が手渡された。それがどんな意味を持つものなのか知る由もない。

 「これは…お父さん、お母さんに見てもらう大切なものですから、きちんと渡すのですよ…」とか何とか言われ、有難く推し頂いたものである。

 図画は甲、修身が丙…これだけは確かなことで、他の科目は概ねあひる(乙)の行列であったようだ。修身が丙というのは、組中私一人で、一年生では滅多に与えぬものであるそうな。自慢にはならぬ悪戯の勲章であった。この丙の字は転校先まで…慕うが如く付いて回り、三年の終了時まで続いた。

 これが…我が波乱多き、長い学舎(まなびや)の生活の幕開けであった。

 2年になった時、父親の転勤に伴って安中尋常高等小学校に転校した。受け持ちは宮地と云う怖い女の先生であった。紺色の矢絣模様の着物に紫地の袴を付け、白い足袋に赤い鼻緒の草履を履いた姿は当時の女教師の正装であった。その頃の私には未だ女に対する審美眼?はなかったが、尖った顎、切れ上がった目をした先生の顔が何となく狐に似ていた。新入りに向ける先生の冷たく光る目が、絶えず自分を監視しているように思えた。目には目で、私は受け持ちの先生に…密かなる反抗心を抱いていた。

 秋の運動会の日、先生達の徒走競技があった。女の先生達はテニスのラケットにボールを乗せて走るスプーンレースであった。わが宮地先生も、黒髪に白い鉢巻きを凛々しく締めてレースに加わった。その白足袋が紫の袴を勇ましく蹴散らして先頭を走った。ところがゴール寸前で派手に転倒してしまった。瞬間、私は殆ど無意識にその艶やかな光景に拍手を送ったものだ。その時…怒りと侮蔑をあらわにした同僚の眼が一斉に自分に注がれた。

 以来、受け持ちの先生の私に向けられる目線は一層冷ややかなものになった。二年末の通信簿では案の定、操行の欄が丙であった。でも図画だけは甲が記されていた。

 三年になって受け持ちは男の先生(大塚?という姓であったような)に代わった。

この頃になると、女の子の顔が眩しく映るようになった。かつて味わったこともない心情の変化であった。

 「男女七歳にして席を同じゅうする勿れ…」と、昔支那の国の聖人が喝破し給うた[人間永遠の理(ころわり)]は、後日になって思い知ったのである。

 或る日、体操の時間が終了した時のこと。校舎の昇降口の傍らにある足洗い場に、椅子に腰を据えた先生を取り囲むように数人の女の子が群がっていた。覗いてみるとバケツに突っ込んだ先生の裸足を、女の子達が喜々として洗っていた。その女の子の中に、眩しく映っていた子の顔があった。直情多感であった私は前後の見境もなく

 「そんなことは止めろ!」と声を荒げて言ってしまった。女の子は怪訝そうに私を顧み、先生は(小生意気な洟垂れ小僧が…)というような顔でニタニタ笑っていた。

 これも或る日の国語の時間でのことであった。私の座席は廊下寄りの後ろから二番目で、教卓の先生からは生徒の仕草は良く観察できる位置である。知ってか知らずか…

 国語の本を衝立代わりに立て、陰でノートに本の挿し絵(松島の風景であったと思う)を不乱に写していた。すると…突然、白墨が飛んで来て本の背に命中した。先生が投げたものであったが、それにしても見事なコントロールである。ニヤニヤ笑った先公(先生の敬称)は

 「(白墨を)拾って持ってこい…」と言う、私は白墨を拾い上げると、先公目掛けて投げ返した。白墨は大きく逸れ、黒板に当たって跳ね返った。

 三年時も矢張り…操行の欄は丙であった。が此の頃になると丙の持つ意味の異常さが理解できて、通信簿は机の奥に隠し両親に見せなかった。両親も半ば呆れて敢えて「見せよ…」とも言わなかった。

 

 四年になった時再び父親の転任に伴って、今度は富岡町の尋常小学校に転校した。

 [孟子三遷の教え]を地で行った訳ではあるまいが、たまたま転居した家が学校のまん前であった。或いは両親の思いがそこにあった…のかも知れぬ。

 担任は師範学校を卒業(おえ)て間もないばりばりの先生であった。その先生の姓は吉田といって、海軍士官もどきの服装を身に付け、背筋をピンと張って歩く姿は幼心に眩しいほど凛々しく映った。その先生が朝と夕方、颯爽とわが家の前を通るのである。夕方たまたま路上で顔が合った時には、先生は気さくに

 「やっ…弟のお守りか?えらいな…」などと、凛々しい顔をほころばせて声を掛けたりもする。

 この年(昭和九年)に県下において、大元帥(天皇)総帥のもとで陸軍の大演習が行われた。天皇陛下の地方巡業の折…貫前神社に礼拝、のち富岡中学校(明治天皇の御座所にもなった由緒ある学校)に行幸することになった。

 これに際し、児童生徒の書画などの作品を天覧に供することになった。各学年から夫々の代表者が選ばれ、絵画の部の中に私の名前が入っていた。

 写生のテーマは、歴史の古いレンガ造りの富岡製糸工場の風景で、画用紙は四つ切の大きさであった。私の絵が天覧の栄誉に浴したか否かは…定かではない。

 淡雪の如き初恋らしきもの…も四年生の時であった。二学期の初め席の組み替えで、受け持ちの先生は何故か私を副級長の女の子の隣に席を与えた。

 副級長の彼女は深沢K子といい、色白で下ぶくれした顔が…転校した時から目に焼きつき、憧れ以上の存在であった。その時は夢見る心地で、嬉しさを通り越えて…胸の血が逆流する思いであった。

 彼女の指導と助言のお陰か?四年の時からの操行は、忌まわしい丙からようやく解放されて乙のランクに昇格して五年生に進級した。通信簿も誇らしく両親に見せることができるようになった。

 五年生になると男女共学ではなくなり、毬栗頭だけの殺風景なクラスに変貌した。

 私にとって初恋?の彼女との離別が無念至極で、空洞になった胸に秋風が吹き抜けるような…やるせなさが何時までも消えずに残った。

 [男女七才にして席を同じゅうする勿れ…]とは此のことか、もしその離別がなかったら進学する夢も消え、狂った進路を歩んでいたかも知れぬ。末恐ろしい…マセた色餓鬼?であった。

 男だけの島(クラス)には、兎角勢力争いや派閥の意識が表面に現れやすい。男のもつ本能的な闘争意識が目覚めるのかもしれぬ。

 学年の構成は男・女別のクラスが夫々二組、一クラスは約50人でその中2割位の者が上級学校への進学を希望し、後の八割前後が家業を継ぐか、奉公に出る(現代の就職)かであった。

 その頃、漠然と中学校に進むことになるだろうと思っていた。が、進学するとすれば試験を受けねばならず、今の成績では到底合格する望みは持てず、甚だ情緒不安定の精神状態であった。

 クラスのボスは木戸(以下Kと呼ぶ)という男で、就職組ではあるが成績も良く、指導力もあり番長に相応しい貫禄があった。その番長にも、一人目障りな奴がいた。その奴とは…ボスなるKに何かと反抗的な態度を示す新参者である。(何時かは必ず対決することは避けられぬ…)と私は勝手に思い決めていた。

 新参者の立場は目下、孤立無縁の一匹狼であった。援軍の多いKには百に一つの勝ち味はないが、戦わずしてKの軍門に降ることは何としても男の一分が立たぬ…のであった。

 或る日の朝、Kからの「昼休みに余人を交えずに二人だけで対決したい…場所は講堂前の銅像の裏」と、几帳面な文字で書かれたメッセージ(帳面を裂いた紙片)が机の上に置かれてあった。指定の場所に赴くと、既にKは銅像の敷台に腰をついて待っていた。そして…

 「果し合いするかね?」と、笑みを浮かべて問いかけた。心憎いほど度胸と自信に満ちた態度である。

 「俺はどっちだっていい…お前しだいだ」と痩せ狼は力み返る。

 「じゃー喧嘩は止めよう…弱い奴を相手にするのは俺は嫌いだ…」とKは言う。

 「弱いかどうか…遣ってみなければ分からないぜ。…しかし本当にお前一人だとは思わなかった…」

 Kの仲間に寄ってたかって嬲り者にされることを覚悟していたので、密かにナイフをポケットに忍ばせていたので、Kの取った言動にほっとしながらも、同時にKの心の底が計り兼ねた。

 

「君は進学する気なんだろう?…だったら喧嘩なんかより勉強の方が大事と違うか…」とKは大人びた説教に及ぶ。出鼻を挫かれた痩せ狼は返す言葉が見つからず、頷くばかりのていたらくであった。つづけてKは

 「俺の家は貧乏だから上級学校には行けねー…だが勉強だけは人に負けたくねーんだ。お前達…進学組にもな…」と、暗に…肩肘張った直情経行の男に忠告・諫言している風にも取れる対応であった。Kは苦労人で、野獣の如き私とは、比肩あたわざる大人であった。

 (俺は完全にお前には負けたよ…これからは俺の話し相手になってくれ…)と心に思いつつ、その場から踵を返した。今まで胸に突っ掛かっていたしこりが取れ、目の鱗が落ちた…心境であった。

 富岡小学校では四年・五年・六年と三か年にわたり、比較的長期間の学校生活を過ごすことが出来た。その間、幸せなことに受け持ちは継続して、凛々しい吉田先生であった。Kをはじめ友達も随分と出来た。生来の直情型トラブルが全く解消される筈はないが、記憶に残る程の事件は無かった…ようだ。

 六年に進むと中学に進む勉強で、放課後薄暗くなるまで居残り勉強が続けられた。居残りの仲間は七人であった。直ぐ隣の教室は女子の残留組で、時々漏れ聞こえる嬌声の中に初恋の女の笑声が混じっていた。

 昭和十二年三月、富岡中学を受験し、100人中65番目で合格した。桜花香る春爛漫の四月中学校の一年生となる。これも、級友であり番長であったKとの出会いがあったから…私はそう信じている。

 入学式の当日、中国山東省の青島女学校の校長として新たに赴任する中島前校長の離任式があった。

 私が一年の時、教えを受けた漢文の飯島・図画の根岸の両教諭が、その翌年に揃って青島女学校に赴任した。後日談であるが…後年奇しくも妻になる人は、青島女学校の出身であった。

 翌十三年四月、私もまた富岡中学に在籍すること僅か一年で、父親の転勤に合わせて渋川中学に転校した。

 日華事変は拡大の一途を辿り、やがて大東亜戦争に繋がる…長い暗黒のトンネルに入る。

 

    二 故郷の町は待っていた

 

 [開拓協同組合授産工場]と銘打って伊勢崎市に開設した毛織物工場が六ヵ月足らずで、あっけなく倒産した。その責任の一端をかぶり、負債の抵当に自分名義の開拓農地と、まる一年新婚生活を過ごしたマイホームを明け渡して、立つ鳥後を濁さず…丸裸になって赤城山を降りた。時に、昭和25年3月初旬…赤城に入山して丸四年経った初春のことである。

 職と家を失った我が夫婦の落ち行く先は、とりあえずお袋と兄弟達が暮す伊勢崎の仮住まいであった。

 親の反対を振り切って赤城山麓の開墾に身を投じた男が、今更おめおめと、親元の敷居を跨ぐことは忸怩この上ないていたらくであった。

 出産予定(三月下旬)を一ヵ月後に控えた女房を抱えた自分にとって、糊口をしのぐ新しい職を捜すことが焦眉の問題であった。

 磁石の極に引かれるよう、足の赴く先は會ての古巣渋川町であった。どうせ宮仕えするならゲンの悪い伊勢崎よりも渋川の方が増しだと考えたからである。

 まさにニキビ華やかなりし頃、紅の血をたぎらせた中学時代を共に過ごした友達が渋川町にはいた。今でも十人位はいる筈である。

 暗い戦争中であったが、昭和十三年から十七年まで五年間を過ごした懐かしい町である。

 ―終戦の年(昭和二十年八月十五日終戦前夜)、空襲でわが家は焼けた。住み家を失った我が家族は離散、一時、農家の牛小屋付きの納屋を間借りしたことがあった―

 ある日その仮寝の小屋に、中学時代の友人安部正一君が居候として転がり込んだ。文系の彼は戦禍で東京(中央大学)での就学が不能になり、終戦の年の十月、地方の桐生工専への編入を余儀なくされた。

 編入が中途半端な時期だったので桐生市内に下宿が見付からず、当分桐生までの通学には伊勢崎の拙宅が格好の足場だったからである。

 その安部君は桐生工専を卒業して、今渋川高等学校の教師をしていた。

 もう一人のポン友で、当時教職員組合渋川支部の顔役でもあった田部井禄郎君が新制渋川中学校の教師をしていた。その他にも旧友の何人かが近村部の小中学校の教職に身を置いている筈である。

 戦後学制の改革が行われ、六年制だった義務教育が小学校六年、中学校三年のいわゆる六・三制になった。当然の結果、学校不足と教員不足が生じた。

 あまつさえ、戦争の煽りで二十歳代の若者は戦地に駆り出され、多くが戦場で華と散った。そのため殊に発足当初の新制中学校にあっては男子教員の不足は深刻であった。〈デモシカ先生〉が登場したのは、この時代の男性教員不足を象徴的に物語る産物であった。

 同じ宮仕えするなら、重いで多い渋川の地で、中学時代の仲間のつてを頼って〈デモシカ先生〉の仲間入りすることが職にありつく近道だろう…と思った。

 桐生工専在学中は学徒動員やら勤労奉仕に明け暮れ、まともな授業も受けず、放蕩無頼の不良学生であったが、戦争のお陰で…卒業時に中学校と高等学校のお情けの[教諭普通免許]の資格が貰えた。別に邪魔になるものではなし、折角くれるという資格は遠慮なく貰っておいた。

 どさ回り同様の私には定まった故郷はない。だが人から…

 「お主の故郷はどこか?…」と問われれば、こだわりなく

 「それは渋川だろう…」と答えることにしている。

 私の生まれは渋川町の隣村の豊秋(現渋川市)であるが、そこは一年足らずで他所の町に引っ越してしまった。従ってその頃の思い出は何一つある訳ではない。

 二度目に渋川に来て暮したのは多感な中学時代の四年間であったが、この時の印象が強烈で、何処へ行っても思い出すのは渋川中学時代の仲間と…山紫水明の風景である。だから、我が故郷は渋川と断言して憚らぬのである。

 県の官吏であった父親の転任に伴い、二度目に渋川に転居することになったのは昭和十三年四月初旬のことであった。その時の情景が未だに鮮明に蘇る。その追憶は何時も…

 上越線に揺られ、利根川に添って北上すると、次第に赤城山麓と榛名山麓が利根川を隔てて接近してくる。八木原という駅近くになると、電車の右手車窓に銀色に輝く奇っ怪な塔が写し出された。鉄骨を組んだ櫓の上に円筒を乗せた…その怪塔は、高崎の観音様よりはるかに高い巨体であった。父親の説明によると、佐久発電所の貯水タンク(サージタンク)だという。

 その怪塔の足もとから、なだらかな赤城山麓を這うように延びる満開の桜の並木が、春うららかな霞の中に幻の如く棚引いていた。

 さらに渋川の町に近付くと数条の巨大な煙突が立ち並び、もくもくと煙を吹き上げ天に沖していた。駅の近くには大きな工場が群居している景観に目を見張った。

 降り立った国鉄の駅舎は以外に小さかった。駅前から延びる目抜き通りには四輪のチンチン電車が走っていた。町並みは榛名山麓の斜面に沿って開け、緑の多い坂の町であった。そのためであろうか自転車を漕ぐ人の数が意外に少ない。

 好奇心旺盛な若者の目に映る万象が…今まで住んでいた町の雰囲気とは一味も二味も違ってエキゾチックに写った。

 また渋川は旧三国街道の宿場町であり、関東平野の北限の町である。南は利根川の流れに沿って開け、東には赤城山、西は榛名山、北は子持・小野子山、三方を名峰に囲まれ、その山奥には三国連山・谷川連峰・武尊岳などの上越国境の連山が続く。三国連山を発する吾妻川が、坂東太郎(利根川)と渋川で合流する。その合流点みある大正橋に佇むと、名にし負う谷川岳が春の名残の雪をかぶり、白銀の光芒を眩しく放っていた。まさに山紫水明がぴったりする町であった。

 これが初めて(実際は二度目)渋川の地を踏んだ時の印象であった。

 今回の渋川訪問に先立って、自分が置かれている現況(失業中のこと)と、妻が間近に出産を控えていること、身の振り方(教員になりたい希望を含めて)のことなどをしたためて、安部と田部井の両君に宛て手紙を書いた。文面の末尾に三月○日と安部君宅訪問の日時を書き添えておいた。

 三月初め約束の○日、前橋駅前から久しぶりにチンチン電車に乗り、渋川新町停留場で降りた。渋川へ来たのは、恐らく赤城山に入植して以来はじめてのことであった。

 (手紙では自分の身の振り方について…厚かましく依頼したものだが、両君とも困惑しているのではあるまいか?それともうまい具合に教員の口があってくれれば良いのだが…、もし、渋川で教員か何か職にありつけた場合、三度目の転入ということになる。直ぐにでも住む家を探さねばならぬ…)と、そんな希望と不安が交錯する思いに耽りつつ、平沢川縁の道に沿ってアベショウ(安部正一君の通称)宅に向かった。

 彼の屋敷は街のほぼ中央に位置していて、県道渋川―高崎線が平沢川を跨ぐ橋の袂、丑寅の角にあった。彼の家から平沢川を隔てて真向かいにある[市松座]は、彼の祖父が建てたという古い芝居小屋である。

 彼の家は大きく、中学生当時から我々朋輩の溜まりであった。学校帰り日課のように、誰かが勝手気儘に入り浸っていた。

 アベショウの人徳のしからしめる所以であろうが、気兼ねなく出入りできたのは…むしろ飄々としていて、モナリザの微笑を絶やさぬ彼のお袋様と、多少おきゃんで、伝法肌の美人姉御の存在が大であった。

 不愛想で無骨者の男(自分ではそう思っていた)であったが、そのお袋様とおきゃんの姉御の受けは悪くなかった。

 そのお袋様が〈珍しい山男の入来〉を、くだんのモナリザの微笑で快く迎えてくれた。

 安部君の他に、若林先生と田部井君が一緒に顔を揃えて窮鳥の飛来を待ち受けてくれ、温かく歓迎してくれた。思いがけぬことだったので私は大いに恐縮し、感激したものである。

 若林先生は渋川高校の英語の教師で會ての我々の恩師でもある。(ついでながら…若林先生は安部家の同居人であり、アベショウの美人姉御は先生の恋女房である)

 私が到着する前に〈窮鳥を教師に仕立てること〉で、既に三者の下話は出来上がっていた。私の意志一つで直ぐにでも話は決まる手筈が整っていた。三者会談の結論を要約すると…

 当人が高等学校の方を希望する時は、若林先生が定時制を含め新採用の可能性について校長に打診する。但し高校の人事権は県教育委員会にあるので、今からでは来年度の新採用は時間的に無理かも知れぬ…という疑問符が付くものであった。

 一方中学校を望むなら、今はひと頃のような〈デモシカ先生〉の出番は無くなったが、田部井君がその方面に顔を利かせ、多少無理をしてでも押し込めると言う。それに…今彼がいる渋川中学には同級生がいないので、是非にも渋川中に私を引っ張る…というおまけが付いていた。

 友情というものは有難いものだ。この時ほど[持つべきものは友達である]と…しみじみ思った事はない。

 新年度まで余すところ一月足らず、最早二兎を追う余裕はなかった。

 ここは後がない窮鳥にとって、この際希望を中学一本に決めるのが安全な道筋であった。

 かりに高校の数学か物理の教師になったとしても、放蕩無頼の学生であった男には所詮…荷が重すぎる。微分・積分など高等数学は遠の昔に忘却していた。生徒に舐められ、悪評を蒙ること必定である。

 ならば[君子危うきに近寄らず…]の故事にならって、分相応の中学の先生を選択することが最善の策であった。中学の教師だって今の自分には、分に過ぎた話かも知れないのだが…。

 自薦、他薦の志願者が四・五人あったらしいが、田部井君の引きで、窮鳥はどうやら希望の渋川中学校教師とい聖職[今は教育労働者というらしい]におさまることができた。

 生まれてこの方、夢にだにもしていなかった…まさかの[学校の先生]になろうとは、神ならぬ身の知る由もなかった。

 昭和二十五年四月三日十時、新任と転任合わせて数人の教師に招集が掛けられていた。

 宮仕えの初出勤は、新米教師が洗礼を受けねばならぬ…恒例の町教育委員会への挨拶回りと、群馬県教育委員会の辞令の受領であった。

 渋川での自活のめどが付くまでは伊勢崎からの通勤である。この日の出勤の朝、出産が予定日を一週間近く遅れ、お産が秒読みの妻は…洗い髪しながら

 「今日当たり生まれそうだから、成る可く早く帰ってきて…」と言う。

 教員としての初仕事を済ませると、世話になった安部宅にも寄らず、とんぼ返りで帰宅。溝板を鳴らして我が家の玄関を開けると同時に赤ん坊の産声が聞こえた。生まれた赤ん坊は男で、母子共々健在であった。

 この日(昭和二十五年の四月三日)は長男の誕生と、勤めが決まり初の出勤日が重なり…自分にとって偶然の一致だとは片付けられぬ宿縁の日であった。

 四月七日、始業式。私ことデモシカ先生の出勤姿は、背広にネクタイの畏まっての出で立ちであった。

 新設の中学校には、まだ全校生徒を収容できる講堂兼用の体育館は無かった。従って全生徒の集会は校庭で開かれる。

 春はたけなわ、校庭周囲をかこむ若い桜並木は健気に今を盛りと咲いていた。近くにある女子高校の古桜は豪華絢爛に咲き誇っていた。山も里もまさに桜…桜であった。

 式は型通り学校長訓話のあと、校長から新任教師の紹介と新任教師代表の挨拶で終わる。新任者代表の挨拶は年配の転任者がやるものと思っていた。その直前になって…

 先輩格の新任教師をさしおいて、こともあろうに…新米の自分が代表に指名された。校長からの唐突の名指しには些か困惑した。私には生来、大勢の人前に立つと、頭に血が上り失語症になる欠陥があった。

 それこそ1000人を越える群集を前にして、壇上から挨拶することは始めての体験であった。が…

 いさぎよく清水の舞台から飛び降りる思いで、お立ち台に上がったものの、足が震え、喉がカラカラに乾き、我ながら意味不明な言葉を喋った苦い記憶は…今でも忘れられぬ。

 僅か数分の悪戦苦闘に、すっかり教師への自信を失ってしまった。〈デモシカ先生〉も傍で見るほど気楽な家業ではない。

 赤城山で培った不屈の根性も、弁の回らぬ自分には[喋ることが商売]の先生には通用せず、それまで沸々とたぎっていた自信がすっかり萎んでしまった。

 新米教師の配属は三年生で、4組と5組の副担任であった。5組の正担任はA先生で、学年主任を兼務する学校で一番多忙な先生であった。

 それゆえに、新米の私が5組のホームルームの指導を代行し、実質的なオーナーであった。担当科目は、三年複数クラスの数学と理科それに職業課程という目新しい教科であった。

 我が新制渋川中学は、各学年とも生徒数50名のクラスが夫々8クラス、全生徒数は凡そ1200名で県内有数の大規模学校であった。職員数は校長以下40数名であった。

 三年所属の職員はA学年主任以下10数名で、新任の自分より年配者はA先生と保健体育のT先生が二人いるだけであった。4名の女教師を除く他は、皆旧制中学時代の後輩で、殆どが〈デモシカ先生〉組であった。

 この時代は中学同窓の先輩と後輩の仁義の掟は厳然と存在していた。故に、どうやら今の職場では余り小さくなって下済みに甘える事もなさそうである。

 

    三 デモシカ先生ご乱行

 

 昭和二十五年四月下旬、妻子の産後の肥立ちも良く…私達親子三人は伊勢崎から渋川に引っ越した。遂に三度目の渋川定住が現実のものになった…訳である。恐らく此処が永住の地となるであろう。とりあえずの仮寝の宿は安部君の家であった。

 「困っているときはお互いさま…今度はあたし達が世話をする番…。いい所が見付かるまで気兼ねなんかしないで此処にいればいい。その代わり何も構わないからね…」と

 安部君のお袋さんが心から言ってくれる。一緒にいた伝法肌の姉御が

 「あたしの知り合いも多いから…心当たりを聞いてあげる…それまで此処にいればいい…正一だってさんざんお宅には世話になったんだもの…」と女房に言う。

 終戦直後、アベショウが桐生工専に編入した時、桐生に下宿が見付からず、しばし伊勢崎の我があばら家に居候したことがある。その時の事があるので、他人事では済まされぬ…という気持ちがありありと伝わり有難さが身に染みたものだ。

 それを良いことにして好意に甘んじることは、男として…何とも気が重い。俺一人ならまだしも、今は女房と赤ん坊の癌つきの所帯持ちである。只(無賃)で厄介になることは余りにも厚かまし過ぎるし、かといって下宿代のことを口にすれば

 「そんなこと気にしなくてもいいんですよ。お互い様なんだから…」と言われるのに決まっていた。他に寄る辺無き身の悲しさで、思案の挙句安部家に迷惑を掛けることになったのである。

 貸し与えてくれた部屋は母屋とは別棟で、渡り廊下で連結された土蔵の二階であった。その部屋は十二畳以上あり、窮鳥には勿体ない上等の巣であった。

 寝具布団一式と取りあえず必要な衣類はチッキで送り、最小限度の炊事用具は背負ったり手に提げた…ヤドカリのような簡単な引っ越しであった。

 私の出勤姿は始業式以来、背広にネクタイ、黒と白のツートンカラーの皮靴という…当時としては結構粋なスタイルであった。赤城山に入る前、最初に宮仕えした時に新調した一張羅である。戦災で衣類を消失してしまい、農作業用の仕事着のほかには持ち合わせがなかったからである。

 当時男の先生の服装は、校長や年配の幾人かが背広を着ているだけで、その他大勢の者はジャンパーに下駄履きというラフな格好であった。戦前の厳めしい教師像とは、かなりかけ離れたものであった。

 終戦直後の一時期(一年間の宮仕え)を除き、赤城山に籠もり浮世から隠遁していた4年間に世情は大きく様変わりしたものである。

 教育界もその例に漏れず、民主化の波に洗われていた。自分には聖職のイメージしかない教師も、今は教育労働者と自認する時勢なのである。

 日本が民主主義国家に生まれ変わったとはいえ、教育者たるものが己の魂までも捨てることもあるまい…新米のデモシカ先生大いに憤慨したものだ。中学生だった頃の、恐ろしかった旧師の顔が懐かしくさえ思い出される。

 戦後、国民が言論の自由と結社の自由を得ると、教育界も水を得た魚の如く社会主義の思想が燎原の火の如く広がっていた。先生という職業は余程暇なのか、気楽な家業なのか…現実を離れて理想の未来を論議する(例えば非武装中立論とか勤務評定反対とか)ことが好きなようである。

 教職員の間にも日本教職員組合(日教組)が結成され大部分の教師が加入した。権力体制に対抗する反体制派の体制(組織)で、所謂労働組合である。

 例えそれが反体制組織であっても、私は個人の自由を束縛する体制(○○組合)に組することは心よしとはしなかった。だが新入職員は、半ば強制的に日教組に加入させられるのである。

 教員採用の際大変お世話になった田部井君が教組の役員をしていた関係もあって、加入しなければならぬ義理もあった。

 戦前には多分存在しなかったと思うが、学校教育基本法、児童福祉法等という法律があり、生徒の扱いが厄介なものになったらしい。

 が…正規の師範学校を終えた訳でもなく、教員採用試験を受けた経験もない自分なので、現場での学校教育の実践は丸で音痴に等しい。未だにその法典なるものは見たことも読んだこともない。この先も恐らく目を通すことはあるまい。何となれば生徒の指導は自分流に遣るつもりでいるからである。

 それに加えてPTAなどと、横文字の訳の分からぬ組織が存在していた。アメリカあたりから輸入され教育制度で、パーレント・ティーチャー・アソシエーションの頭文字を並べたものである。公務分掌の仕事にPTA係の一項があり、係の末端に新入りの私の名前があった。

 PTAとは教師と父母が互いに手を取り合って、児童・生徒の健全な育成を図ることを目的としたものである。つまり、平たく言えば学校教育に必要な備品や教材の購入に父兄も一役買うが、代わりに学校教育にも口を出すということだ。

 当節の先生は養育委員会と父兄の監視の目に曝されていることにもなる。これでは昔のような個性豊かな教育ができる訳がない。新参のくせにこの男…

 (箆棒め!日本には昔から“子弟は三尺下がって師の影を踏まず”と言う孔子様がのたまった有難い教えが生きているんだ!親が学校に嘴を挟むとは言語道断!…)などと甚だ悲憤慷慨の体であった。

 若し父兄が俺の遣り方の対して注文を付けたら、その時は喧嘩してでも断じて己の信念を貫く…と、血の気多い新入りは腹を決めたものだ。

 何時のことであったか、校長から呼び出しがあって、私に…

 「念には及びますまいが、生徒にはけっして体罰を加えないで頂きたい…。今の学校教育はスパルタ式教育は禁じられておりますので…云々」と生徒指導上の助言をくどくど垂れたことがあった。

 血の気の多い男が問題を起こしそうな、そんな心配が校長にあったのかもしれない。体罰を生徒に与えることは児童福祉法に抵触するからである。その時…

 (ハイ…解かりました。決して先生の御助言に背く行動はいたしません…)とでも言っておけば済むものを、今の生温い指導方針に、些か忿懣やるかたない新米教師は

 「体罰とは具体的にどのような行為なんです?参考までに…凡例か手引書みたいなものはないのですか?」と尋ねた。校長は一瞬顔を強張らせて…

 「それはO先生(私のこと)…言うまでもなく殴るとか、蹴るとかは体罰の見本のようなものですが、その他でも生徒の訓戒や補導に肉体的、精神的な苦痛を伴う行き過ぎた行為は体罰に当たります。その苦痛の程度は…先生方の見識に従って判断して貰うしかありません…」と、禅問答のようなことを言う。

 それ位のことは殊更言われなくても解かっていることで、〈先生の良識に従った判断〉

という奴が曲者なのである。大概の先生はこの曲者に戸惑い、且つ、御身大切とばかり振り上げた拳を納めてしまう。

 事なかれ主義(大方の風潮)の校長の腹の底は読めた。此処で論議しても始まらぬと思い…皮肉を込めて

 「手に余る奴は、大声でどやしつけても、頭を強く撫でても…教師自身の判断と責任で宜しい訳ですね?…」と愚問を残して校長室を出た。

 “沈香たかず屁もひらず”ただ事なかれ主義の[月給泥棒]の先生だけにはなりたくないと思った。

 (今度来た新米の先公は、恐ろしく鼻っぱしが強く、熊みてぇに吠えるそぅだ…)何時の頃からかそんな風評が3年生の間に広まった。以来、誰言うと無く私を仇名して[熊さん先生]と呼ぶようになった。よしきにつけあしきにつけ…生徒は直感的に先生の仇名を付けるものである。些か機知に乏しいが[熊さん]とは愛嬌もあり言い得て妙である。感心…。

 兎角、春の新学期は何かと行事が多い。身体計測やら校医による身体検査の行事もその一つである。

 身体計測は身長・座高・体重・胸囲・…視力などで、四月中に実施することになっていた。三年生だけでも8クラス、男女合わせて約400名の総勢である。体育館が無いので各教室が計測に使われる。朝のホームルームが終わると、生徒を使い机と椅子は部屋の隅に片寄せられ、一部は廊下に出し計測の事前準備に掛かる。

 年中行事なので、改まった打ち合わせもなく先生方の指揮は卒がない。新米の熊さん先生は只動物園の熊の如くうろうろするばかりであった。教室の片付けが済んだ頃…

 「O先生、お手空きのようですから…そろそろ身長計と座高計を○組の教室に運んでください…」とK先生に声を掛けられた。K先生は身長と座高の計測の責任者で、新米の私はそのアシスタントであた。

 「何処にあるのだね…それは。生徒に指示すれば連中は喜んで運ぶだろう…」と私は憮然として呟く。

 「生徒ではいけません!計測器具の取り扱いは先生方の責任においてなすべき事ですから…」と、妙にしたり顔で命令する。

 この男は本心でそう信じているのだろうか?…だとしたらこの男は最低の朴念仁である。

 K君は旧制中学校では四年後輩であるが、教員としては二・三年先輩なのだ。それゆえに、この男…生徒の前では一応先輩教師としての貫禄を示して置きたいところかもしれぬ。愚かさ加減に呆れもしたが、その時は新入りの先輩は一歩譲り…

 「四人ばかりの男の生徒を連れていって…俺が責任をもって運んでくる。それなら良いだろう」と、腹で笑って済ませて置いた。

 「先生が責任をもたれるなら…そうして下さい。計器は傷めぬよう大事に取り扱って下さい」と陰湿そうな青白い顔を歪ませて、不満遣るかたなしの顔で頷く。

 私がKに異常?を感じたのは計測を始める前の時であった。彼は私に

「僕は背が低いので…女の子の身長の測定は僕がします。記録はO先生にお願いします。その代わり男子の方は先生に計測をお願いして記録は僕がします。いいですね先生?」と…訳の判ったような判らないようなことを言って念を押したことである。

 Kが女生徒の身長測定を買って出るのは例年のことだそうで、内聞であるが、Kには女子の体に触れることに異常な興味を持っている…という伝説がある。

 女子中学生も三年生ともなると、ある者は胸も膨らみ、太股にも脂肉が付き、すでに大人の体型である。それがシュミーズを通してはっきり匂うのである。

 生身の若い独身男が、それに魅了され煩悩を起こすことは無理もない話しではあるが、それを教師たるものが言行に顕すところに無神経さがあり、臆面の無さが問題なのである。

 Kの測定は馬鹿っ丁寧である。時に生徒の額に手を当て、顎を引かせ、背伸びをして、度の強い眼鏡で目盛りを覗き込む。そして、おもむろに…

 「154.5…そう記入して下さい」と如何にも数学の先生らしいことを言う。人間の身長などというものは朝と晩では1ミリ以上伸縮するものである。小数点以下はどうでも良いと思うのだが、そこが彼の彼たる所以なのである。

 「K先生っていやねぇ…、耳元まで顔を近づけたりしてさぁ…本当に度近眼なんだろうか…」とA。

 「ぼっとだと思んだけど…○○さんの胸に触ったんだってよ、あの人のが大きすぎるからいけないんだけどさ…」とBの忍び笑い。

 そんなひそひそ話が…耳の後ろで、女の子の固まりから聞こえてくる。察するに女生徒の間では彼の評判は余り芳しくない。

 程々に一人善がりなので、若い男の先生達もKを敬遠し、今回の場合のような時には彼とコンビを組みたがらない。新入りの熊さんは御しやすしと錯覚したのか、その後もKは時々私を顎で使う愚を犯した。

 遂に(この間抜け野郎め、曾て鐘馗の異名を持つ俺を見損なっちぁいけねぇ、そろそろ焼き入れの頃合いかもしれぬな…今に吠え面かくなよ…)と思い極める。そして、Kの横面に鉄拳を加える機会を伺った。

 たまたま、三年担当の職員だけの飲み会があった。

 この当時は、安酒(焼酎が主)をスルメか柿の種を肴に…花見て一杯、月見て一杯などと勝手な理由を付けては、宿直室か小使い室で飲んだものである。

 その折のことである。彼をそっと誘い出し、誰の目も届かぬ校舎西端の音楽室に連れこんだ。部屋には未だ暮れ残った薄明かりが漂っていた。その薄明かりに、既に呼び出された理由を悟ったらしい彼の顔が血の気を失い一層蒼白に歪んで見えた。彼の釈明に耳を貸す必要は無いので…

 私は物も言わずに彼の横面を張り飛ばした。その弾みに眼鏡が吹っ飛んだ。彼は床に土下座して

 「先輩!勘弁して下さい…」泣き声を挙げてバッタのように頭を上下に振った。

 「どうやら先輩と後輩の区別がついたようだな、もういいから…みっともねぇ真似はやめねぇか…」と、吐き出すように言ったが、こんな意気地のない男だったのかと思うと…何となく哀れになった。

 「早く眼鏡を捜して来いよ…これ以上暗くなったら捜しようがなくなるぜ」と言ってやると、Kは四つん這いになって手を泳がせ、見当違いの場所をまさぐっていた。度近眼のKにはとても捜せそうもないと思った。私には眼鏡が飛んだ行方が判っていた。黙って拾い上げ彼の手に渡し…

 「俺は一足先に戻っているから、君は少し間を置いて何もなかったような顔をして戻ってこいよ…」といって一足先に出た。何とも後味の悪い一幕であった。無頼漢もどきの、己の地を丸出しにした男に、聖職を自認にてやまぬ先生が果たして勤まるのか?…アーメン。

 

    四 熊さん先生宿縁に驚く

 

 終戦直後(昭和22〜23年)の金不足、物資不足の時代に新設された校舎は粗末な木材を使った安普請であった。

 学校は町の南郊外の傾斜地にあって、周囲を桑畑や青々した段々田圃に囲まれ、民家は少なく環境は最好であった。私はこの校庭から眺める景色がたまらなく好きであった。

 因縁めいた余談になるが、この学校の建設には私にとっても忘れがたい秘話がある…

 学校用地の東西の長さは凡そ百数十メートルあり、東に向かって低く東端と西端では数メートルの高低差があった。土木用機械の無かった当時、この敷地を平らに聖地することが校舎建設の厄介な課題であった。

 小さな町の疲弊した財政では聖地費を賄うゆとりは無く、全町民挙げての勤労奉仕の荷役に委ねられねばならなかった。

 当時の土木作業といえば鶴嘴とシャベルとモッコ、のみならず主食は配給米という時代で、荷役はまさに難行苦行であった。同じ頃、赤城山で開拓の鍬を振るっていた自分にはその苦労が身に染みて共感できた。

 その土木作業中に、崩れ落ちた土砂の下敷きになって奉仕者が死亡するという痛ましい事故が起きた。その尊い犠牲者は…宝生修司といい私の旧制中学時代の友人であった。

 宝生君は元の警察署前の宝生堂時計店の掛け替えの無い総領息子である。中学三年生の頃であったか、試験勉強と称し、彼が勉強していた二階の部屋に屡々出入りしたものである。そのある日のこと、四合瓶の赤玉ポートワインを二人で空けた。自分も彼も初めて口にするアルコールであった。甘い口当たりに、二人は交互に一気に飲み干したものだ。その後急に酔いが回り、天井がぐるぐる回り出し、腰が抜けた如く這うことも立つこともできなかった。彼にはそんな…ほろ苦い思い出があった。校庭の一角に佇みて改めて彼の冥福を祈る。

 校門を入ると直ぐ左手に五坪ほどの小さな気象観測点がある。回りを白いペンキの木柵で囲い、雑草と共生した芝生の中央に白い百葉箱が設置されていた。おそらく教材用として理科クラブ部が観測に当たったものであろう。

 その百葉箱に並んで(東経139度00分、北緯36度29分、海抜230メートル)と記された標柱があった。まさしく此処は…地球上に存在する只一の地点なのである。そこに立って、四方を見渡すと…

 東の真向かいは、長い裾野を引いた赤城山の一峰・鍋割岳である。そこから延びる山麓の稜線には、つい最近まで住み暮していた開拓村…金丸がある筈である。

 西に目を転ずるとピラミッドのような水沢山が、新緑の榛名山麓を座布団にして端座している。榛名の群峰はすべてその陰である。

 さらに北を望めば、町並みの屋根の彼方に子持山と小野子山が駱駝の背の如く連座する。何処をカットしても絵になる風景であった。

 私は余暇を見付けては…この美しい故郷の風景をスケッチした。

 例の殴打事件以来、Kの私に接する態度は一変した。私は素知らぬ顔をしていたが、掌を返したようなKの豹変ぶりは矢張り異常で、他の先生達の目にも私とKとの間には何か?があったと、うすうす感じていたようである。暫くは鳴りを潜めるつもりであった。

 私はまだ、生徒の言う[熊のように吠えて…]生徒に噛みついたことは無い。自分なりに謹厳実直に教導に励んだ。時折耳に入る生徒の風評は…

 「熊さんの説教は固くて先公らしくないが…何となく貫禄があって近づき難い…」と男の生徒の評価。あるいは

 「O先生は厳めしい髭面に似合わず…案外ロマンチストなのかもしれない…」と、大人びた批評を下すのはませた女の子である。総じて[熊さん先生]の下馬評は今のところ不評では無いようであった。

 教師の経験が全く無い新入り教師の正体が掴めず、目下値踏みの最中であり、[熊さん]の一挙手一投足が彼等の好奇の対象なのであろう。

 五月半ば遠足があった。これは春恒例の行事である。一年から三年まで方面は榛名山で一緒であるが、目的地は各学年で決めることになっていた。

 わが三年隊の行程は榛名山麓の林道を辿り、ピラミッドのような水沢山を登坂して伊香保に抜けるおよそ15キロの登山コースであった。

 開拓時代…赤城南面の難コースを踏破した体験がある新米教師は、たかが物見遊山の山野跋渉位に安直に考えていた。

 その頃はまだ決められた体育衣はなかったので、身支度は引率者も生徒もまちまちであった。

 生憎、私の履物といえば通勤用の皮靴と駒下駄しか持ち合わせがないので、やむなく下駄を着用、山道は裸足で歩くことにした。

 大方の生徒はズックを履いていたが、若い男の先生達は殆どが下駄履きであった。その下駄は、軽い桐の下駄ではなく、ぶなの木の重い駒下駄であった。当時の物不足と、裏ぶれた教員の苦しい生活が何となく滲み出ていた。

 私の家には水筒が無く、代わりに[宝]マークの付いた焼酎の空瓶がごろごろしていた。四合入りの瓶が…いささか体裁が悪いが水筒には打って付けの代用品であった。

 下駄を履き、握り飯(あるいは代用食)を包んだ風呂敷包みを腰に巻き、手拭で覆い隠した焼酎瓶を腰にぶら提げた姿は、いかにも教師には不釣り合いであった。

 山の林道は爽やかな緑滴るトンネルであった。山道に掛かった辺りから、重い下駄を脱いで両手に提げる。素足に伝わる、冷ややかで温もりのある土の感触がえも言えず心地好い。道々…

 「先生!それ焼酎みてぇだねぇ…」と誰かが言い、男子生徒が二・三人笑みを浮かべて寄って来た。

 「ふむ、元気の出る飲料水だ。どうだ君達一杯飲んでみるか?」と熊さん先生すかさず冗談を飛ばす。

 不思議なもので学校の校門から一歩出ると、先生は師たるを忘れ、生徒は師の存在感を忘れる。

 そこから、考えも及ばぬ会話が飛び出し、教室では出来ぬ対話が交わされる。そして思いがけぬ師弟の心の通う絆に結ばれるものなのである。この時も…

 「O先生さ…先生の中で午前中の授業中、酒の臭いをぷんぷんさせている先生が三人いるってぇ話…知っていますか?」と生徒の一人が異なことを尋ねた。

 「さぁ、知らぬなぁ…。俺は未だ新米のほやほやだからなぁ…、が、本当にそうした先生がいるとすれば…穏やかな話ではないな…」

 「先生も惚けるのが旨めぇねぇ…。女の子の話なんで当てには出来ねぇんですがね…そのぷんぷんさせる先生の中に、O先生の名前があるんだけどなぁ…先生は未だ知らねぇらしいね?」

 「本当かね、君。俺もその酒っ臭い三人組の一人か…そいつは呆れた新米教師だな。以後気をつけることにしよう…」

 一瞬わが耳を疑ったが、残念ながら事実を否定出来る自信がないので…その場はそれとなく惚けておいた。何故ならば、名の挙がった三人組は“長夜の飲を楽しむ”呑んべえ仲間であったから…。

 大人しそうで、陰険で、かまびすしい三年女子の噂話によると、熊さん先生は色にこそ顔に出さぬが、側によると確かに酒臭いのだ…そうなのであろ。

 酒の匂いまでが生徒の話題になるとは、教師も因果な商売である。腹のなかで…

 (大きなお世話だ、教師だって生身の人間…大酒だって喰らうし、大声で歌いもするさ。

“酒無くて何の己が桜かな…”てぇのを知らねぇか!俺の金で己が飲む酒に文句があってたまるか…)と憤慨したものの、さて、今はやっとありついた宮仕えの身である。幾分気を取り戻して…

 「どうだ…今先生の身体臭うか?夕べ飲み過ぎて未だ身体中にアルコールが残っているんだがな…」とざっくばらんに打ち明ける。

 「俺には臭わねぇけどなぁ…」と生徒達は口々に証言する。

 戸外では…殊に山道では林間を吹き抜ける春風に乗って、人間の体臭が拡散されてしまう…からだろう。

 小学校の一年坊主が明日の遠足に興奮して眠れぬように、昨晩は新米の熊さん先生…なかなか寝付かれず深酒をしてしまった。その翌朝だったので、坂道に掛かると喉が渇いてひりひりする。熊さん先生やおら焼酎瓶を取り出し、天を仰いでラッパ飲みをした。

 [呑んべぇ先生]の異名が生徒間に広まるのは時間の問題であろう。と思うと流石の熊さん先生も憂鬱になった。

 一学期が大過無く…とは言い切れぬが、夢中のうちに一段落ついた。せめて新任の一年間は(生徒に好かれずともよいが、嫌われる教師にはなるまい)と、殊勝にも新米教師の反省したものである。

 

 安部君宅から新しい下宿に転居したのは七月末、夏休みに入ってからである。その下宿というのもアベショウのお袋様の口利きで決まった。この経緯は追々明らかになる筈である。

 この年(昭和25年)は、私にとってよくよく不思議な宿縁が着いて回った年であった。

 新しく移住した先は、瀟洒な元産婦人科医高野医院の二階の八畳間で、我々中学時代の旧友高野君の邸宅である。驚いたことに…

 この部屋は、我々の中学時代の恐怖の国・漢の教師、しかも我々のクラス担任でもあった高野先生(通称寅さん)が初めて渋川中学に赴任した時に下宿していた部屋であった。

 しばし…在りし日の高野先生の回想に耽る…

 前編でも触れたが…時は、中学四年の二学期の末の放課後で、場所は本校舎北玄関を入って突き当たりの当直室と隣り合わせた、薄暗い応接室である。

 応接室の立て付けの悪い硝子戸から冷たい隙間風が吹き込む。素足の私はその部屋の冷えた床に三十分近くも正座させられていた。

 寅さん先生は青い大きな顔を引きつらせ、掌を組み合わせた(先生独特のポーズ)両腕をわなわなと震わせていた。甲高い声で…

 「既に君の思想は赤い色に染まっているのだよ!君は非国民なんだよ!君は学校を毒する一滴の泥水なんだよ…、茶碗に盛られたご飯に一滴でも泥水が振りかかっても、その飯は全部喰えないのだ、その一滴の泥水が君なのだ…云々」寅さんは大袈裟な説教をくどくど繰り返す。

 が…小生の足が痺れ、気が遠くなり寅さんのヒステリックな説教も耳に入らぬ。苦痛にたまりかねて立ち上がろうとしたが、足は痺れがきれて不甲斐なく転倒した。知覚を取り戻すと

 (かくなる上は…どうともなれ!)と立ち上がり、無意識のうちに上着を脱ぎ捨てた。

 頭に血が上り前後の見境がつかなくなって、拳を固めて寅さん先生に襲い掛かろうとしたのである。先生は思わぬ生徒の反逆に大いに狼狽したまいて…

 「君は先生に反抗するのか!…」怪鳥のような声を残して、がたんぴしゃんと引き戸を開け応接室から飛び出して行った。

 挙句の果ては…三日間の謹慎処分であった。その外にも反抗的(軍に対して)な言動など種々の余罪があり厳しい謹慎処分を喰らう筈のところ案外軽く済んだのも、表の高野先生の顔とは裏腹に、陰の助力があった。

 その同じ部屋に住まうことになろうとは…まさに奇縁と言うほか言葉が無い。[寅]の檻が[熊]の檻に変わったことになる。

 

 念のために…[寅さん]こと高野先生と高野家とは同姓であるが縁故関係はない。我々と同様の師弟の関係であったが、高野君は家主であるが故に彼は[寅さん]先生の受けは良く、恐怖の張り手一発を食らうことはなかった。

 因に、高野家は級友の一人を含め男のみの四人兄弟である。上の三人は親の後を継いで医者になったが、夫々渋川を離れ他所地の病院に勤務、一人も元高野医院を継ぐ者はいない。

 広い元高野医院の屋敷には現在、貫禄十分の肝っ玉母さんと型破りの末弟夫婦三人だけが住み暮していた。末弟のS君は中学の四年後輩であるが、女房のTさんは私と同年で、女学校時代は番長を張った姉御女房である。時々起こる二人の夫婦喧嘩は勇ましく派手であった。

 私達夫婦は、型破りの高野家親子とは当分の間共同生活をすることになるので、彼等の痛快談はこの物語には屡々登場する事になる。

 S君は道路に面した屋敷の一角に三坪ほどの小屋を設け、貸本屋を開いていた。奥の一坪が畳を敷いた店番部屋になっていた。狭い店番部屋では毎日のように賭けマージャンが開帳され、常連が屯していた。

 S君のマージャンの腕前は名人の域に達していた。だから常連はS君にとって〈葱を背負った鴨〉であり〈絞め子の兎〉であった。

 見受けたところ…S夫婦の現金収入は貸本屋の上がりと、マージャンの稼ぎであった。

マージャンの面子の揃わぬ時には、点数の数え方も解からぬ熊先生は時たま狩り出され鴨のされたものだ。

 

    五 熊さん先生大いに弁ずる

 

 時は移り、熊さん先生つつがなく教員生活二年目を迎える。月給5600円位であった初任給が、一年を経て5800円に僅かに増えた。二日か三日分位の焼酎代である。相変わらず家計は火の車であった。開墾の辛酸の生活を体験した妻は、案外あっけらかんとして苦にはしていないようだ。

 年度代わりで何人かの先生が入れ替わった。新米の私もいくらか教員らしさが身についた。だが…[先生臭い教員]だけにはなりたいとは思わぬ。

 聖職であるべき教師は自分生来の天職とは思えぬ。時節の到来を待って再び企業を起こすか、工業関係の会社に鞍替えしたい希望が自分の心のどこかにわだかまっていた…からだ。

 例えそれ(先生稼業)が一時の腰掛であったにせよ、縁あって教員になった以上教職のベストは果たさねばならぬ。男一匹、教師の仮面を付けた〈月給泥棒〉にはなりたくない。新しい学年を迎えての…あらたなる誓いであった。

 さて、二年目の熊さん先生の配属は一年生であった。[2組]の正担任で、担当教科は複数クラスの数学と理科、受持ちクラスの図工であった。図工に関しては正式の免許が無いので、仮免でのピンチヒッターであった。この段階までは教師の当然の守備範囲で、文句の付けようもない。

 職員室の先生達の机の移動・配置替えがあった。各学年ごとに一つの島に纏まっていた。一年担当組の島は職員室の西端である。

 職員の顔ぶれも大きく変わった。一年生の学年では若い女の先生が凡そ半数を占める。色香の褪せたおばたりあん教師が三人いた前年度に比べて大違い、甚だ華やいだ雰囲気である。

 が…まるで古き時代(我々が中学生だったころ)の教員室とは異質なものであった。

 島は、十幾つかの机が相向かいになって二列に配置されていた。熊さんの机はその真ん中辺りを占め、西向きであった。正面には、月例の行事予定がびっしりと書き込まれた黒板があった。

 幸か不幸か…左隣と、相向かいと、その右隣の机は女の先生であった。相向かいのSさんは去年の新人で、同期の桜である。Sさん以外は何れも先輩格であるが、年の頃は〈俺よりは三つ、四つ若そうだ〉…と熊さんは目算した。

 唾で眉を湿し、用心して掛からぬと…山家育ちで、女性に抵抗力の無い熊さん先生、白粉臭い女狐先生に手玉に取られそうだ。自戒しよう。

 教務以外の校務分掌の中でも重要な柱の一つに[生活指導部]と称する組織がある。

 生活指導部の要は、各学年から人選された

[生徒補導係]で構成する風紀委員会であった。補導係は生徒からは煙たがられ、先生からも敬遠される係なのである。

 一年の補導係兼風紀委員には半熟の熊さん先生が推薦された。熊さん先生は謹んでこれを受諾。

 先年度まで、この堅苦しいポストの元締めは…はまり役の田部井君であった。その田部井君が此年度から県教職員組合の専従として組合本部に常駐することになった。

 私が補導係になるに当たってこんな裏話があった。それは…

 「問題のある生徒の補導は、正常な教師では本当の補導はできぬものだ…。千軍万馬のベテランか、それとも不良の前歴があって、曾て補導を受けたような無頼な教師の方が、非行生徒の心情が良く理解出来るので扱いの壺を心得ている。その意味でO君は教員以外での無駄飯も喰ってるし、補導係に適任である…」と、

 〈己を知り敵を知る〉彼は熊さんを推薦する置き土産を残して学校を去った。

 学校の敷地は、二階建て校舎三棟が並列する上段と、下段のグラウンドが石垣で二分されていた。校舎は北側から三年専用の第一校舎、二年専用の第二校舎そして一年専用の第三校舎は上段敷地の南端である。教室の南側のガラス窓越に、清々とした緑の田圃が広がる。

 第二校舎と第三校舎の間は、後日体育館を立てる予定で広い空き地(第二グラウンドとして利用)になっていた。

 各校舎は一条の渡り廊下で結ばれていた。職員室から一年生の第三校舎までは300メートル位はあり、たどり着くのに3・4分を要する。

 新学期初めのある日、朝の一時限の授業をカットして一年生の総勢が中庭の第二グラウンドに集められた。中学生活の始業に当たり学年主任の説話や、各分掌の係から説明を聞くための合同集会であった。その説明の中心は…[中学校生活の躾と心得]を述べる補導係熊さん先生の説法であった。

 思えば去年の今頃であった。新任の[デモシカ先生]こと熊さんは全校生徒を前にして目が眩み、壇上で立ち往生したものだ。新任者代表の挨拶を突然指名された時の熊さん…上気したまま、何を喋ったのか上の空であった。あれからの一年間の教師の修行は朴訥な熊さん先生を雄弁?にした。

 今回の集会のことは前もって打ち合わせ済みだったので、演説の草案を練るのに十分の余裕があった。漢詩の七言絶句[起・承・転・結]の要領で、話の要点を頭に刻み込んで置いた。だから此の時喋ったことは今でも覚えている。

 地面に腰を据えた、生徒軍団の数百の目が一斉に熊さんの顔を見つめる。熊さんには生徒の一人一人の顔を見返す余裕があった。まず冒頭の[起]は…

 「…私は姓をOと言い名前はHと言います。去年までは向こうに見える赤城山麓で開墾に明け暮れていた、一介の百姓でした。去年教員になったばかりの…まだ新米教師なのでお手柔らかにお願いします…」と

 左手を東方にあげ赤城山を指さすことで口火を切った。生徒の顔が一斉に赤城山に注がれた。やおら[承]の段に入り…

 「私の十五年前は…丁度君達と同じ中学の一年坊主でした。中学校に入学早々、つまらぬ悪戯をして受け持ちの先生に酷く叱られた。罰として皆の前で…教壇の上に座らされ、一時間同僚と睨めっこしたものです。恐らくこれが中学一年生では最初の体罰でした。今もあの時の苦しさ、痛さ、悔しさは覚えています…」

 この奇妙な話に、生徒の関心が次第に熊さん先生に集まった。続けて…

 「…三つ子の魂百まで…と言いますが、四年生になって…その間にも何度か担任の先生に締められたが、四年生の後半になってから、私の成績が急激に落ち出し、とうとう落第の寸前になってしまった。その時、担任の先生は私を人気の無い部屋に連れ込み、冷たい床に正座させ、青筋をたて震えながら激怒した。反抗期の私は無我・夢中で先生に反抗してしまった。…その挙句の果てに三日間の家庭謹慎を喰らったものです…。

 当時は大東亜戦争中で、〈軍人に非ざれば

、人に非ず〉という嫌な時代でした。私は公然と軍事教練の教官の横暴を批判したものです。思えば青二才のくせに思想が普通ではなかったんです。…

成績の急激な不振の原因も多分そこにあった訳です。〈こんな成績では到底上級学校には進学できぬ〉そう担任の先生は判断したのだと思います。先生は心痛のあまり、私を目の敵のように叱ったのだ…後でそれが分かりました。…云々。」生徒は粛として聞き入っていた。

暫く間を置いて[転]の段に入った…

「一年の時の悪戯はクラスメートの上靴を隠しただけのことで、何故あれほどの体罰を喰ったのか…その先生の真意が今もって分からぬが、四年時の先生の叱責は…父親の叱責のように、後になって身に染みたものです。目から鱗が落ちた思いでした。おそろしく怖い国漢の先生であったが…それ以来その先生の教科が好きになりました。今私が有るのはその先生のお陰と思っています。」と…

当時を思い起こすかのように、熊さんは淡々と話を続けた…

 「……、自分の中学生だった時のことを思い出すと、それまでは極め付きの悪たれであり、喧嘩あり、非行があった。その中には痴戯愛すべきことと、許されるべくもない悪戯や非行もありました。…前者は笑って済ませるが、後者は断じて見逃してはいけない…と私は思うし、〈教師の首を賭けても許さない〉と教員になった時心に決めたのです…」

 最後に[結]として

 「私は…皆が暴れ回ったり、騒いだり、悪戯することは当たり前のことで…若い君達の特権だと思っています。…だがそれは時と、場所を考えての事なのだ。今自分が為さんとしている行為は…悪いこと、或いは卑怯なことだと承知しながら行動を起こす時は…潔く、男らしく厳罰を覚悟することです…。その覚悟が無ければ初めからせぬことだ…云々」と話を締め括る。

 熊さん先生は自分の体験談を交えつつ二十分余り所信をぶち挙げたものである。その間生徒は神妙な面持ちで聞いていた。と…熊さん先生満足顔であった。

 

 それから間もない、ある日。

 一時間目か二時間目、熊さん先生は自分の受け持ちクラス[2組]で数学を教えていた。その時…

 隣の[1組]の教室が騒がしく、様子が異常であるのに気がついた。[1組]は国語の時間で、担任の大石先生が教鞭を取っている筈である。大石先生は職員室では、熊さんの左隣の若い女の先生で、専門は音楽であった。

 そのうちに騒ぎも治まるだろう…と熊さん先生思いつつ授業を進めていたが、隣の教室の喧噪が次第にエスカレートしてきた。熊さんの大きな声でも授業にならない。たまり兼ねて、補導係の熊さん先生は隣組の様子を覗いて見た。見ると若い女の大石先生は黒板に向かって、項垂れて、顔を両手で覆っていた。泣いているとしか思えない姿である。

 これはただ事ではないと判断して「暫く自習しているように…」自組の生徒に申し置きして、[1組]の教室の入口の引戸を開け、入った。

 思わぬ闖入者に、教室内の騒がしさが潮を引いたように静まり返った。大石先生は途方に暮れて青ざめた顔をあげて

 「先生申し訳ありません。私の力がたりなくて…」と言って俯くばかり…

 一分、二分…熊さん先生は無言のまま生徒の顔を一人一人見遣ってから、大石を顧みて

 「なにがあったんですか?…」おもむろに尋ねた。気を取り戻したように、大石先生は凛とした声で…

 「深町君!大貫君!、貴方達のしたことをありのままに説明してください…」と申し付ける。

 名指しされた二人は素直に立ち上がった。両名は間に女生徒を一人挟んで最後列に席を置いた。

 深町は仲間の人望もありクラスの代表委員である。大貫も成績はトップクラスである。

 「投げ銭で、大貫と賭けをしてました…」と、深町君の答えは正直で明快である。流石の熊さん先生、毒気に当てられて…不審顔で

 「投げ銭の賭けとは…一体どんなことをするのか、論より証拠…後学のため先生に見せてくれぬか?二人とも前に出てきて実演して見せてくれ。皆にもとくと手並みを見せてやれ」と命じた。

 観念したのか、悪びれずに二人は教壇の前に進み出て、2メートル程間隔をおいて並び立った。二人の背丈は熊さんより一寸も高い。若い女の先生では圧倒されるのも無理はない。

 さて、彼等の演ずる投げ銭の妙技を紹介しておこう…

 深町が左の掌に10円玉を乗せる。そして手首を右手の掌でポンと叩くと10円玉は空に舞い上がり、大貫の右手の掌中に飛び込む。

掌は10円玉を握りしめたまま、銭の表か裏かで丁半の賭が決まるのである。銭が跳ね飛ぶ距離はポンと叩く強さで自在に調節するのである。立派な隠し芸であった。

 「みごとなものだなぁ…今度は職員室で先生方に君達の妙技を披露して貰うことにしよう…。だがお前たち!時と場所を間違えてはいかんな…。教室内では二度とならんぞ、よいな。…もうよいから席に戻れ」大の男は首を竦めながら自席に戻って行った。熊さん先生穏やかに、生徒に向かって

 「この校舎は安普請で壁はガラン洞になっている。嫌でも隣の教室の騒音は筒抜けに聞こえてくる。お互いに隣組同志…静かに授業を受けよう…な、みんな」と言い置いて熊さん先生引き上げた。

 「先生、ご迷惑をかけました」と言う大石先生の声を背中に受けながら…。

 

 各学年とも、年中行事の家庭訪問が始まる。特に一年の場合は家庭訪問には念が入る。未だ生徒の家庭の事情が何も掴めていないからである。一週間を切って、クラス担任は午後から町内を徘徊する。

 そんなある日、隣の机の大石先生から相談を掛けられた。例の深町のことであった。

 「深町君の家庭訪問のことなんですけど、先生に一緒に行って貰えませんか?」と言う。

 「この間の件で…ですか?」

 「いいえ、あれ以来彼等は神妙に反省しています。もともと生徒の信望もあるし、素直な生徒なんです」

 「…?」

 「何だか…私には彼の家庭の敷居が跨ぎ難くて…、これを見てください…」と言って、深町の個人調査表を見せてくれた。

 それに依ると、彼の両親は無く、身寄りは小学校5年の妹、保護者で後見人の叔母と三人で、職業の欄は[割烹料亭]であった。なるほど、普通の家庭とは事情が大分違う…ようである。若い女の身空では、昼間から割烹料亭の敷居はちょっと跨ぎ難い。

 生徒の家庭の事情を知って置くのも補導係の役目と思案、熊さん先生…若い女教師の介添役を引き受け同道することと相成った。

 人の世の、人の出会いは天意の悪戯だとしか言いようがない。

 大石先生の付け馬になって同道する先に、小説よりも奇々なる物語が待っていようとは、神ならぬ身の熊さん…夢想だにもしていなかった。その物語は次回に続く…

 

    六 猫にカツブシ・熊にサケ

 

 大石先生の付け馬で遣ってきた割烹料亭は、熊さん一家が寄寓する元高野医院のすぐ近くであった。

 その料亭の屋号は[松の井]といい、渋川でも屈指の料亭であった。

 見越しの松の枝を被った瓦葺きの門を潜り、打ち水をした敷石に導かれて旅館風の玄関に至る。

 母屋は入り母屋造りの総二階で、如何にも高級料亭の風格のある建物であった。赤提灯がよく似合う教員風情のO先生には、ちと敷居が高すぎる楼屋であった。

 松や梅の古木を巧みに配した坪庭は手入れが行き届き、凝った石組の池には緋鯉が泳ぎ、石灯籠が影を美しく落としていた。

 (これが深町の屋敷なのか…保護者の叔母は後見人だから、屋敷の主は彼(深町)自身だということになる…。料亭の方は、叔母さんが女将になって切り回ししているのであろうが…これだけの料亭を切り盛りするのは容易ではあるまい。…)などと、介添役のO先生こと熊さん…余計な心配をしながら、静かな庭の風情を眺めていた。

 家庭訪問には予め生徒を通じて訪問時間が連絡してあるので、大石先生が「ご免ください…」と来訪の声を掛けると、

 「はぁい…」と応ずる女の声がして、間を置かず声の主が姿を見せた。現れたのは…年の頃は二十歳代半ばか、美人とは言い難いが…丸顔で色白の、笑うと八重歯が覗く愛嬌の良い女性であった。熊さん先生は脳裏に、年増で仇っぽい料亭の女将を連想していたので、

飾りっ気のない若い保護者が意外であった。

 「私…貞之君の担任で大石と申します。お忙しいところお手間を取らせて申しわけなく思います…。こちらは同じ一年の担任でO先生、たまたまこの近くでお会いしましたので一緒にお邪魔させて頂きました。」

 「Oです…。未だ駆け出しで、初めての事で家庭訪問の要領も解からず、そこで大石先生に出っ食わしたものですから、のこのこ付いて来ました。よろしく…」と熊さんは調子を合わせる。

 この若い保護者、商売柄あまり人見知りはしないようである。先生など屁とも思っていない顔である。それでなくては、これだけの料亭は背負っては行けぬ。

 彼女は直ぐに地を出して、小太りした肩を揺すり、八重歯を覗かせてケラケラと笑う。…〈この笑顔は何処かで見覚えがある〉…熊さん先生頻りに思い出そうとするのだが、思考は脳裏を空転するばかりであった。

 会話も型破りで、一方的に彼女のペースであった。大石先生は専ら聞き役に回る…

 「熊さん先生って…O先生でしょう?…この間、学校から帰りましてね、家の貞之が…

(今日は熊さん先生に油を絞られた)と言いまして、ことの顛末の一部始終を手真似しながら説明したんですよ。家中が大笑いでした…」と、この保護者は熊さん先生を目の前にして…しゃあしゃあと臆面もなく笑い、続けて…こうも言った…

 「俺も調子に乗って馬鹿なことをしたものさ。受け持ちの女の先生を泣かしてしまって…、あの時、熊さんにぶん殴られたってしょうがねぇと思った。だけど熊さんは別に怒りもしなかったが…かえってああした仕置きの方が俺には応えた。…と言って本人、大分後悔してました」と。

 さらに、こんな家庭事情も打ち明けてくれた

 「本当のことを話しますと…私は叔母なんかじゃないんです。本当の名はS子、あの子達とは私の父方の従姉弟なんです。あの子達の母親は…[貞奴]という渋川切っての名妓だったんです。[渋川小唄]のレコードを吹き込んだのはその貞奴なんですよ。父親は魚の仲買業してまして、此の料亭を建てたんです。

 あの子達は未だ子供で、私が十八の時二親が相次いで亡くなったんです。その頃私はこの家に来たてで、未だ駆け出しの芸妓だったんです。あの子達の身内は私だけだったんで、やむなく私が店を引き継ぐことになり…あの子達の後見人を引き受けたんです。あの子達は私を“ねえちゃん”と呼び、今は三人で兄弟のように暮しているんです……」と

 「……」大石先生無言のまま、まが身と同じ年頃の保護者の言に深く頷く。

 「……」熊さん先生は、彼女の話を聞いているうちに…不図、子供だった頃の光景を思い出した。

 魚の仲買人の叔父…。深町・S子…。目の前で八重歯を覗かせて笑う丸い顔…。それらが一つになって、その光景に蘇ったのである。熊さん先生が富岡小学校で悪たれていた五・

六年の頃、深町S子という威勢の良い女の子が校庭ではしゃぎ回っていたのを思い出したのである。その子の父親も同じ魚の仲買人であった。

 「もしかして…あんた、富岡の出身じゃないですか?」と熊さん先生。

 「そうですけど…どうしてそれを…」知っているのか?といった顔で驚きの声を発した。

 「さっき、初対面の時…何処かで見た顔だ…と思ってたんです。私も富岡にいたことがあって、小学校の正門の直ぐ前に住んでいたんですよ…」

 「じゃあ先生は、あの餓鬼大将のOさん?金子文房具屋の隣の…。それじゃ私の家と直ぐ近くじゃあありませんか…。まるで夢みたいな話…」と言って鳩が豆鉄砲を喰らったような目をぱちつかせた。

 今日は生徒の保護者と教師の対談…しかも熊さん先生は脇役である。幼き頃の思い出話は尽きぬので、頃あいをみて、再訪を約して深町宅を辞した。そろそろ気の早い常連や酔客が遣ってくる時刻であった。

 世の中なんて広いようで狭いものだ。異な所で、思わぬ人と、意外な出会いをするものである。

 料亭[松の井]はO先生が寄寓する高野家からは指呼の間にあり、余りにも近すぎた。

 その料亭には教え子がいて、その料亭の女将が幼馴染みの保護者である。とすれば飲兵衛熊さん…鼻の先に鰹節をぶる下げられた猫…同然だった。

 補導係の怖い熊さん先生と雖も唯の凡夫、その足が…弦歌の色桜に魅せられて引き付けられるのも必然の成り行きであった。かくして料亭[松の井]に通う足が一回が二回、二回が三回となり、やがて常連へと変身するのもこれまた必定であった。

 〈飲兵衛〉は酔うほどに理性を失い(だから楽しい)、時間の感覚が麻痺するものである。熊さん先生の御帰還が午前様になることも、たまさかに非ずであった。

 翌朝になって理性が蘇ると(あぁ、俺という奴は愚かな男よ…)と、毎度のことながら空しい悔恨に苛まれ、そして(今日こそは酒は絶つ…)と発心するのだが、灯点し頃になると…そこはかと無く赤提灯が恋しくなり、夢遊病者の如く夜の巷にさ迷い出るのである。まさに[朝令暮改]とはこのことであった。

 料亭[松の井]では幼馴染みの貧乏教師から儲ける気は無いようであった。が、塵も積もれば山となるで、[松の井]はじめ[赤提灯]、[酒屋]への月末の支払は、給料の半分を占める始末であった。

 故に我が家では、運んでくる給料は十日とは持たぬ。右から左に先月の付の穴埋めに回され、家計は相変わらず火の車であった。

 大陸育ちで鷹揚な妻のM子も流石に、家計の遣り繰りに途方に暮れた。妻は、近所で知り合いの質屋の暖簾を潜る体験を強いられた…そうだ。

 こんな無様な生活がかなりの間続いたらしい。らしい…とはそんな放蕩三昧が半年か、それとも一年か?今は遠い昔のこととて…幸いに記憶に無いからである。

 そんなある日、大家の小母さんが困り果てた妻を見兼ねて…

 「先生…、いい加減がいいよ…M子さんを泣かすのも。男が外で遊ぶのがいけないとは言いませんがね、だけどそれは甲斐性のある男のすることで、女房を泣かせてまでの遊びは…いやしくも学校の先生のすることじゃない。先生はM子さんが困りあぐねて質屋通いをしているのを知っているんですか?承知の上で遊んでいるのなら、私は倅の友人として許しませんよ…」きつい調子で熊さんを詰った。女を押さえて男を立てる小母さんにしては珍しいことであった。

 「… …」熊さん先生返す言葉もない。

 「おとなし過ぎるM子さんにも責任はある…。私はねぇ…M子さんに[松の井]に乗り込んで亭主の首に縄を掛けてでも連れ戻しなさい、気の良い先生は[松の井]の女狐にいいように騙されて、今頃は鼻毛を抜かれているに違いない…と言ってやると、M子さんは…家の人は私の言うことには耳を貸さない…と言って諦めているんだもの、あたしゃねぇ…肝が煎れるってありゃしない」手厳しい忠告であった。

 男尊女卑を信奉して止まぬ明治生まれの大家の小母さんだが、妻のM子は贔屓であった。自分の子供の嫁よりも親身になって面倒を見てくれた。

 妻は、人使いの荒い大家の小母さんに対して、陰日向無く仕え、意に逆らわず、自分の母親の如く世話をやいたからである。

 

 そんなある日の夜中、一歳半の長男が失踪する沈事件が起きた。

 高野の小母さんが、山形にいる末息子のS君の新居を訪れるべく、夜の11時30分発の夜行列車で渋川駅を発った。その見送りに妻のM子が駅まで小母さんに一緒した。

 その隙に(僅か30分位の間)幼児の長男が失踪したのである。恐らく姿の消えた母親の後を追ったのである。その時電気は消えていた。

 妻は、小母さんの見送りから戻ると、子供は父親に抱かれて寝ているものと思い込み、足音を忍ばせて自分の床に入った。

 飲兵衛親父はいい気なもので…その間の出来事は、翌朝女房に揺り起こされるまで白河夜船で何も知らなかった。妻は色を失って…

 「お父さん!サトシは?」と異なことを聞く。

 「サトシがどうした?…」キョトンとして熊さん、血の気が引いた妻の顔を見上げた。

 「居ないんですよ…何処にも!」と言うではないか。

 家中の押入れの中も、風呂桶も、便壺の中まで…隈無く捜したが子供の姿は無い。此の時、玄関のドアは閉じられていたが、若しやと思い、庭の池も覗いて見たが子供の姿は見当たらぬ

 二歳に満たぬ幼児が、重い玄関のガラス戸を開け、それを閉めて家出するとは思いもつかなかった。

 神隠しにあったとしか考えられぬので、熊さん先生大いに動転しつつも、兎も角、警察に届け出しようと家を飛び出した。早朝で人通りは疎らであった。まさにその時、警察のスピーカーから緊急通報が流れた…。

 「迷子のお知らせです…。寝巻き姿の…二歳位の…男の子を…今警察で…保護してます。心当たりの方は警察か最寄の交番に連絡…下さい…」朝の冷気を裂いて、二度繰り返し放送が流れた。

 (家の坊主に違いない…)と信じつつ、熊さんはふらつく足を踏みしめて警察へひた走った。〈地獄で仏…〉とは此のことである。

 警察の宿直室で、布団の中に、泣き疲れて今寝付いたばかり…という我が子を発見した。

 当直の係官の説明によると…

 夜中の12時頃、新町の電車駅前で…たまたま通りかかった男の人が、泣きながらふらついていた此の子供を発見し、駅前の派出所に届けたという。派出所のお巡りさんは此の子を背負い、新町駅の周辺を明け方まで、子供の言うなりに(幼児の曖昧な口述に振り回されて)あっちこっち子供の家を捜したが、とうとう分からず、警察で保護したのだという。

 「それにしても呑気な夫婦ですね?…子供の失踪も気付かずに寝惚けていたとは。拾ってくれた人が親切だったから良いものの、もし攫われたらどうするつもりなんです…」と、耳の痛いお説教を喰らった。

 「いやはやどうも…面目もありません…」

と頭を掻くばかりの熊さんであった。

 此の一件があって以来、熊さん先生の[松の井]詣での足が遠のいた…ような気がする。妻はそれを否定するが…。

 

 小母さんが山形の末息子S君夫婦のもとへ赴いて以来…広大な高野家の住人は私達親子三人のみであった。S君は山形のとある薬品会社に職が決まり、病院専門の薬品販売を担当していた。

 高野家四人兄弟は、上の三人が医者で末弟のS君一人が薬屋ということになる。

 ところで…S君夫婦が生業としていた[貸し本屋]はそのまま妻が引き継ぎ、商売用の貸し本を読み漁りながら店番をしていた。[貸し本屋]の売り上げの何割かが我が家の収入になるので、多少ながら家計の足しになったようであろ。

 一方、熊さん先生の方は近隣の生徒の親からせがまれて、やむなく[寺子屋]を開いて、夜間子弟の補習をすることになった。

 幾人かの生徒が夜学に通って来たが、僅かな報酬しか貰わず、夜食に家内手作りのラーメンなどを振る舞ったりしたので、家計を潤す実入りは無きに等しかった。

 子供たちが勉強を終え家路に就くのは8時過ぎである。従って熊さんが晩酌を始めるのはその後で、時刻は大概9時近くであった。

 今でも当時の習慣が身に付いていて、熊さんこと私の晩酌は9時と遅い。

 教員になった始発から、問題を起こした熊さんであったが、どうやら二年目の教師生活もつつがなく済んだ。

 順当に行けば、慣例で二年の担任に持ち上がる筈であったが、新年度は三年の担任に特進させられた。理由は次年度の三年生、つまり今の二年生には問題児が多いので、補導係には[熊さん先生に]と…白羽の矢を立てられたからである。

 さて、それからの[デモシカ先生]の熊さんの教師振りが、いかように展開するものやら…神のみぞ知るである。熊さんとは私に付けられたあだ名である…念のため。

 

    七 自動車との出会い

 

 機械文明のスター[自動車]には関心はあったが、本格的に興味を覚えるようになったのは、私が中学校の教師になってから四年目頃からである。

 それまでは、兎も角一人前の教師になることで精一杯であったし、問題生徒の補導のこと、進学・進路指導のこと等で、他のことは考える余裕もなかった。

 昨年度(教師になって三年目)は、高校進学を控えた三年生の担任をもたされ、あまつさえ問題児を抱えた高学年の補導係に指名されてしまったものである。熊さん先生の教員生活で一番悪戦苦闘した年次せあったかもしれない。

 そして教職四年目(二十八年)に、再び一年生の担任になった。一年生は一度体験済みであり、生徒指導も比較的に楽な学年である。

 ようやく先生という職業にもなれ、生徒指導にも余裕が出来て、自分の存在感を意識できるようになったのもこの頃からである。そして同じこの頃、私は…

 (教員という職業の水にも慣れ、先生家業も満更捨てたものではない…。一層、このまま教員の椅子に居座ってしまおうか…)と思うようにさえなった。だが一方で…

 (宮仕えは…俺の性格には向かぬと勝手に断じ、四年間の赤城山に籠もり、あたら青春を開拓に託した俺の夢は一体なんだったのか…)という、疑問詞(?)が湧いては消え、消えてはまた湧くのである。

 デモシカ先生の胸中には、漠々たる煩悶が波の如く揺れ動く。所詮、凡夫の人生は水面に揺れ動く葦の如きもので、自分の天職を知る者は一握の達人だけである。

 仮に此処で…教員を辞めたとしたら、果たして女房子供を養っていけるのか…今の私には、まるきし目算は無い。だとすれば〈今の宮仕えを捨てて〉敢えて火中の栗を拾う愚を犯さず、折角与えられた教職に精進しながら時節の到来を待つしかないではないか。

 あれやこれや思案の末、辿り着いたデモシカ先生の結論は…

 (敗戦で我が国の軍需産業は潰れたが、これからの小国日本は工業で立国するしか生きる道はありえない…。国敗れたりと雖も、幸いにして…未だ我が国には世界に冠たる教育がある。必ず工業先進国になることも夢ではない筈。思うに…今の俺の信念を教育の場を通して子供達に伝えるのも…教師たる俺に課せられた仕事かもしれぬ)ことであった。

 そこで思いついたのが、男の子が一番憧れ、興味を抱くのは[動く機械]つまり[自動車エンジン]であろう。これを課外活動に取り入れる…私の思いはこれであった。

 この構想は、私の偶発的な思い付きではない。[自動車教育]に引かれる幾つかの要因は潜在的に私の脳裏にはインプットされていたのである。その要因とは…

一、桐生工専時代からの友人(専攻は異なるが)杵淵君が、織物工場を廃業して自動車整備工場を開業していたこと

二、富士重工の技術屋であった妻の兄が、現在東京で外車の販売・整備を生業としていたこと

三、私自身曲りなりにもエンジニア畠の出身であり、自動車整備技術を身に付けたいと思っていたこと…等である。

 中学では、放課後の課外活動(生徒会が統括する)に全生徒が参加する建て前になっていた。課外活動は[運動系クラブ]と[文化部系クラブ]があって、大半の生徒は運動系のクラブに所属していた。

 翌年(昭和29年度)、今の一年生を二年生に持ち上げてから、課外活動の文化部系クラブに[自動車クラブ]を新設することが正式に決まった。

 顧問教師は私とK先生であった。K先生はもともと理科クラブの正顧問であるが、自宅には当時としては珍しい三輪トラックがあったので特別顧問として協力してくれた。

 当時、国産の自動車は黎明の時で、国産の乗用自動車は皆無に等しく、木炭バスやディーゼル・トラック(石油資源の乏しい日本では、戦時中もディーゼルエンジンの開発には力を入れていた)以外の四輪ガソリン乗用車と云えばフォード、シボレーを代表とする外国車のみと言ってよい。

 乗用車は一般には高嶺の花で、タクシー会社で営業用に使う他は、医者の往診用か、余程裕福な家しか持てぬ道楽用の自家用車くらいであった。

 私自身、エンジニアの端くれであったが、自動車エンジンの構造的な知識はあっても、未だ分解・組み立ての解剖学的な実技は皆無であった。

 故に、対象が中学生なので自動車の仕組みを、解かりやすく、しかも興味深く指導したらよいか、前代未聞の分野なので私にも不安がないでは無かった。

 クラブの顧問会議に[自動車クラブ]の設置を提案した際も、何人かの先生が私の提案に共感してくれたが、何人かは奇抜な発想に驚きを越えて、時期尚早と冷視する者もいたことも事実。

 先の見えない船出であったが、難破は避けねばならぬ…熊さん先生である。一年生には無理なので、二年生と三年生を対象に、控え目な宣伝にとどめて部員を募った。

 [自動車クラブ]は男子生徒の間に意外な反響を呼んだ。文化部系では圧倒的な人気のある[美術クラブ](男女合わせて約50名)には及ばぬが[理科クラブ]、[電気クラブ]を押さえてクラスでもトップクラスの男子20余名の応募者があった。先ずはめでたしのスタートであった。

 “つき”とか“運”というものは余人の官能では予測出来ない不思議な現象である。自動車クラブが発足すると間もなく、その“つきとか運”という“天からの贈り物”が我が新生クラブに転がり込んだ。それというのは…

 平沢川の川縁に渋川町第五分団と称する消防団があった。そこに常備してあった消防自動車が、近火発生があり、いざ…!緊急出動という時にエンジンが掛からないトラブルが起きてしまった。原因不明の急性故障で整備士の手に負えぬまま放置されていた。

 動かない消防車なんて無用の長物で、粗大ごみより始末が悪い。噂に聞いた話だが、当の分団の団員達は始末に困って…

 「こんな目障りな瓦落多は、前の平沢川に放り込んでしまえ!」と、出動に遅れを取った忌ま忌ましさに息巻いていたという。

 それを聞いて早速、それなる粗大ごみの払い下げを所轄の町役場(であったと思う)に願い出た。学校教育の教材に役立つならば、無用の長物も満更[無益な瓦落多]ではない。町では[教材の寄贈]ということで即座に快諾してくれた。

 学校から故障車の駐留してある消防分団は、距離にして数百メートル、さして遠くはない。綱引き用の長いロープをフロントバンパーに結わえて、お祭りの山車を引っ張る威勢で、クラブ全員で赤い車体の故障車を学校まで運んだ。運転台には熊さん先生が乗り込み重いハンドルを握った。

 運行コースには途中、幾つかのクランク(直角の曲がり角)があるが、その度にハンドルを切るのだが、それが途方もなく重く…かなりの重労働であった。現在の自動車のような軽快なハンドルさばきとは比較にはならないものであった。

 故障してエンジンの掛からぬ自動車ではあるが、本物の自動車を目の当たりにして、指導に当たる顧問の私よりも部員達の方が喜んだ。

 この車の車名はダッチ、歴としたアメリカ製の舶来品である。製造年月日は1924年(大正13年)で、なんと私と同じ年生まれであった。三十年近くも稼動していたことになる。まさに博物館いりの超クラシックカーである。

 現在の車と違い点火スイッチ一つでエンジンを掛けることは出来ない。ラジエーター側からクランク棒を差し込んで、クランクを人間の腕力で回してエンジンを始動させるのである。

 エンジンは側弁式・直列4気筒、45馬力で教材には打って付けのガソリン機関であった。

 差し当たり、自動車クラブの活動は小屋作りから始まった。小屋(車庫兼作業場)は第一校舎と第二校舎に挟まれた中庭の西端に作った。

 新設のクラブなので、生徒会費で賄われる自動車部費は雀の涙程であった。最小必要限の工具を購入するのが精一杯で、小屋作りに掛ける予算はない。

 やむなく古材を掻き集めて、部員の手で〈雨露を凌ぐ程度の〉掘っ立て小屋を作ることにした。

 東を車の出入り口にし、三方を古板で囲んだ。屋根は釘穴だらけのなまこトタンを葺いて、黒ペンキを塗った。車の出入り口の三角妻に[自動車クラブ]の文字を…誇らしげに白ペンキで書いた。

 放課後を待ち兼ねるように…授業がはねると、部員が集まり暗くなるまで小屋作りの作業を続けた。不足の材料は部員達が何処からともなく調達して来る。大工仕事に取り組んでいる時の喜々とした生徒の顔は、普段の授業時間からは想像することは出来ない。

 ポンコツ自動車には似合いの車庫が半月位で落成した。

 

 学校の正門から駅に向かって三百メートルばかり下った所に、左手に私が懇意にしていた今井自動車修理工場がある。

 実際の分解・組み立てを見学するために、学校からの帰宅途中ちょくちょく立ち寄らせて貰った。工場の主は、風変わりな頑固親父であったが、これまた風変わりな学校の教師である熊さんとは妙に気が合った。

 私が、生徒の教育に自動車整備を取り入れる意向を伝えると、その工場主は…我が意を得たる如く、大いに喜び…

 「その時は…いかなる協力も惜しまない…」と約束してくれた。我が[自動車クラブ]も有難い後ろ楯を得て心強い限りであった。

 さて、大工仕事が一段落すると、いよいよ

[自動車クラブ]本来の活動が開始されることになる。

 現物の教材が手に入ったお陰で、今まで描いていた構想とは180度違ったクラブ活動の内容を再検討することになった。黒板を使った講義形式から実習方式への急転換である。

 自動車の仕組みの理解は百の講義よりも、一回の実技の方がはるかに効果が上がるのは必定である。

 熊さん先生は…既に何冊かの自動車修理書を読み漁り、実際の修理工場で作業現場を見学していたので、頭では理解しているつもりであった。

 が、いざ現物の料理はこれが初めての体験で、何処から手をつけたらよいのか甚だ心もとない。

 先ず、エンジンを解体するには、兎に角、重さ300キログラム近くのエンジンを車体から取り外す仕事から始めることになる。

 新規の活動計画では、一応…夏休み前にエンジンの分解を完了して部品の点検、故障箇所の修理迄を予定していた。二学期になってから組み立てと試運転が大まかな計画予定を立てていた。

 

 熊さん先生、試運転までに何とか運転免許証を手に入れなければならないと思っていた。前橋市北の郊外にある小さな自動車教習場に、日曜日ごとに通った。

 専属の教官は一人で、その人の名はHさんといい熊さんと同じくらいの年配であった。Hさんは懇切丁寧にして教導が旨く、時たま、狭くて細いクランクコースで、運転の妙技を披露してくれたものである。

 当時は教習場に通う人の数は少なく、一日にまとめて四、五教程(一教程は30分)もこなすことが出来た。

お陰で、約一月で21教程を終え、運転試験本番に臨んだ。自信はあったが…一回目は上がってしまい完全に失敗。運転試験場は敷島公園北の利根川の川原にあった。現在県営ゴルフ場のある辺りであろうか。

次に挑戦した時には、新設の運転試験場で、新前橋駅北側の今の場所に移っていた。試験車両はシボレー車で、試験官は中さん(元中日ドラゴンの中選手の父親)であった。二回目にしてようやく念願の運転免許証を手にした。この実技試験の合格の喜びは格別であった。

それからずっと後になってのことであるが、私が自動車整備士養成の講師を依頼された時に、たまたま講習場で、教官のHさんにお目にかかった。Hさんは自動車整備振興会の常任講師になっていた。懐かしい再会であった。

 

    八 ポンコツ車が走った

 

 狭い自動車小屋には部員全員を収容することは出来ない。

 部員を半分に分けてA・Bの二班編成にした。時によっては全員一斉の部活[クラブ活動]が出来ないことが生ずるので、その場合を見越しての策である。

 各班とも三年生と二年生が同じ割合になるように組分けした。班長は三年生から班の互選により選ばせた。自動車クラブを統括する部長は、顧問の私が三年生のS君を指名した。

S君は顧問の片腕となり、部員を束ね、部活動を円滑に運営するのに申し分のない才覚の持ち主であった。

 部活の実践内容も[実技]の分解整備と、室内ではテキストによる[自動車構造]の学習の二本立てとし、臨機応変に二班を交代することにした。座学には初歩の機械製図も取り入れた。ガソリンエンジンの構造を図解した掛け図を作る目的があったからである。

 

 エンジンブロック(本体)の車体からの取りはずしが済むまでは、三年生が中心となって全員総掛かりである。手はあっても工具の数が足りない現状では、ジャッキや特殊工具、不足の工具などは今井修理工場の好意に縋り借り受けて間に合わす。

 解体に当たり、組み立て順序を間違えぬよう、取りはずした部品に名称と番号札を付けさせた。これは主に二年生の役目であった。

 車庫の中での…ある日の、部員の仕事振りを覗いてみよう…

 消防自動車のボンネットとラジエーターは既に取り払われている。小屋の中は風通しが悪く、梅雨季のことで蒸して暑い。

 部員はこれといった作業服は無く、着古した学生服やワイシャツを素肌に纏ったり、頭には帽子の代わりに手拭を巻いていたり、思い思いの格好である。(作業中は怪我防止のため、ぢんな支度でもよいから必ず身に着けるように申し渡してあった)

 ある者はフロント左右のフェンダーの上から覗き込むように、ある者は車体の下に潜り、取り付け金具(ボルトナットの類)を外している。中には錆びついて固く締まったボルトにしがみつき悪戦苦闘する姿もある。時にはボルトを捩切って終うこともたまかでない。

 さすがに自動車クラブを志望した連中だけに、生徒達は器用なものである。忽ちに工具(スパナ・レンチ等)の扱いに慣れて、堂に入った手つきであった。お互いに話し合う言葉の他に、笑い声や鼻唄が聞こえる。こんな調子で…

 エンジン本体の取り外し作業に掛かって三日目には、(車体とエンジンを固定する)全ての取り付けボルトが除かれ、車体からの取り外し準備が完了した。

 さて、これからが大変な仕事である。重いエンジン本体をチェーン・ブロックで吊るし上げ宙に浮かせたところで車体をバックさせ、作業台の上に移し変える作業である。ところで…掘っ立て小屋もどきの車庫にはチェーン・ブロックを支える頑丈な梁はない。

 今井工場には、専用の三脚柱があり、それを拝借するしか手立てはない。その物は大人の体重程の重さがあるので、二年生が総掛かりで担いで運んだ。

 丈がかなり大きな代物なので小さな小屋に入るかどうか心配であったが、どうにかこうにか車庫に納めることができた。

 天井が一杯なので、三脚を開かせたまま皆で柱を支えて小屋に引きずり込む。支点がエンジンの真上に来るように三脚柱を据える。チェーン・ブロックのフックを二人掛かりで支点に掛ける。

 エンジン本体をチェーン・ブロックに吊るし、がらがらと鎖を手操ると重いエンジン・ブロックが徐々に引き上げられる。

 締め付けボルトの取り残しがないかを確認しつつ十分の高さにエンジン本体を宙に浮かす。その状態のまま車体をバックさせ、代わりに作業台を置き、その上にエンジン・ブロックを下ろす。これで解体最初の工程が無事完了したわけである。

 ながながと描写したが…これが忘れがたい当時の作業光景であった。

 いよいよこれから、エンジン本体の分解である。初めて目にする自動車エンジンの内部構造に、部員達は興味津々の体であった。

 解体された部品の保管と、部品の分解・組み立ての細かい作業は理科室を借りた。たまたま理科室の管理責任者が顧問のK先生だったので全てに好都合であった。

 エンジンを分解して見て判ったことであるが、故障の原因は、クランク軸の回転をカム軸に伝える一対のタイミングギア(調時歯車)の中、カム軸側の大歯車の破損であった。

タイミングギアは吸気ガス(ガソリンと空気の混合気)の点火時期を決める役目を担う歯車で、ガソリン機関では点火装置の重要部品である。

 この歯車はベークライト製(現在のものは合金製)で、その五分の一(歯数にして10数個)が欠落していた。不思議なことに欠落した破片を捜したが見当たらなかった。

 この歯車を交換せぬ限り、いかな修理の達人でもエンジンを復活させることは不可能である。

 ところで、この旧式な外国製車両の歯車の在庫は日本には勿論、アメリカにも存在しないであろう…。エンジンを再生させるとすれば、この歯車と全く同じ規格のもの(材質は鋼でもよいが)を特注して作るより方法は無いのである。

 ここまできてエンジンを復元させたいのは顧問の熊さん先生は勿論のこと、部員全体の悲願であった。が、引くべきか、進むべきか思案のしどころせあった。

 自動車クラブ費はきれいに使い果たして零である。生徒会費の予備費を当て込むにしても、一体…複製費がどれくらい掛かるものか?見当がつかない。

県内の歯切専門工場を捜したが特注を引き受けてくれる所は無かった。

東京にいる妻の兄が、その方面に造詣が深いので相談してみると、

 「歯切専門屋に知り合いがあるから、そこで作らせる。但し特注になるので日数は判らぬが、制作費はおよそ数千円は掛かるだろう…それで良ければ引き受けるから破損した現物を送れ…」と、いとも簡単に引き受けてくれた。

 学校は間もなく夏休みに入るので、組み立ては九月以降である。歯車はそれ迄に仕上がれば良いのだが、資金の調達に苦慮した。数千円といえばほぼ私の給料に匹敵する額である。生徒会の予備費から半分、PTAの助成金から残り半分を負担してもらうことで折り合いが着いた。

 たかが歯車、されど歯車である。

 発注してから三週間ほどで複製歯車が送られてきた。材料も同じベークライトであった。実際に支払った金額は当初の見積りの半額位で済んだ。学校の教材ということで…業者が特別に配慮して実費のみで奉仕してくれたからである。

 破損した歯車はこれにて一件落着した。これでポンコツになる運命の[名車ダッジ]も蘇る筈である。

 

 熊さんこと私は夏休みに入るとその日から、分解整備を習得する為に今井自動車整備工場に工員として入門した。エンジン組み立てに遺漏無きを期すためにであった。そしてその時、勃然と…正式に[ガソリンエンジン自動車整備士]の資格を取得することに発心した。熊さんの気持ちの何処かに、桐生工専を卒業したという機械屋魂が残っていたのかも知れぬ。

 整備士資格は運輸省令に定められた認定試験(国家試験)によって付与されるもの…である。但しその受験資格は実務経験が三年以上という条件があった。この条件をクリアーするには[自動車修理工場]で三年間働いた実績がほしかった。以来熊さん先生…冬の休みも、春の休みも弁当持参で…今井工場に詰めて整備の研修に明け暮れた。

 されば今井修理工場の主は、熊さん先生の自動車整備の師匠である。故に、これ以降は工場主を[親方]と呼ぶことにする。

 それから三年後のことだが…親方のお墨付きを貰い、国家試験を受けて一端の[三級ガソリンエンジン整備士]になった。

 さて、話を本題の部活に戻そう…。

 新学期になって9月一杯は部員全体で、分解部品のスケッチである。スケッチにはノギスで測定させた正確な寸法を記入させた。後日、各部品の図面を引く時の基礎資料作りに目的があったからである。

 分解した部品を点検したところ、欠損したタイミングギア程ではないが、磨耗や損傷の酷い部品が数多くあった。ピストンリングやシリンダー(ピストンが往復する円筒)などの磨耗が大きいが、交換するにも部品はない。元のものをそのまま再使用するしかない。その為に生ずる出力(馬力)の低下はやむを得ないことである。

 研磨したり、修正を要する部品は今井工場の設備を借りて処置をする。部員達は、例えば…〈弁と弁座の擦り合わせ作業〉という技術を、親方の指導の元で体験する事が出来たのである。

 捩切れたボルトの処置は私の手にも及ばず、今井工場の親方の厄介になる。折れたボルトを抜き取るには特殊工具と経験が要るからである。

 またボルトやナットの類(勿論中古品であるが)は、今井工場のような古い整備工場には掃いて捨てるほどあって、その中から不足分を補うことが出来た。

 この当時の自動車(その他の機械も同様)部品の寸法はアメリカ規格で、ねじの寸法はインチ・サイズであった。現在のミリ・サイズに規格が統一されたのはずっと後年になってからである。

 組み立てが完成近くなると今井工場の親方が時々顔を見せた。親方には、このポンコツ消防車には様々な思い出と愛着があってのことで、エンジンの仕上がり具合が気に掛かるのであろう。

 組み立ては、何分にも材料が老朽化しているので慎重を極めたが、おおむね分解の逆を辿れば良いので作業は順調に進行する。ただ一つだけ新調したタイミングギアも元の位置にぴたり治まった。

 エンジンの組み立てが終わると、次に車体に搭載である。この作業はエンジン取り外しの時と逆順に行うので、部員も要領を心得ていた。

 最終の点検と調整、それにエンジンの始動はベテランの親方にお願いする。

 潤滑油をオイルパン(油受け)に満たし、クランク棒(始動ハンドル)を回転させてエンジン各部に潤滑油が行き渡るとクランク軸の回転が重くなる。圧縮圧力が高まった証明である。

 ガソリンタンクは運転席の後頭部上方にあり、燃料は自然滴下(重力式供給)方式である。いよいよ点火スイッチを入れエンジン始動に移る。

 親方は渾身の力を込めてクランク棒を回す。この際、吸入ガスが十分に圧縮されないと点火爆発するに至らない。クランク棒を回転させるには骨(こつ)があって、力の入れ加減によっては…〈吹き返し〉による逆転〈ケッチング〉現象が起こり、思わぬ事故に遭遇する。その勘所が熊さん先生にはもう一つ掴めない。固唾を呑んで親方の所作を見つめる。

 流石にベテランの親方は一撃で点火に成功、エンジンが回転を始めた。瞬間、ぶるんぶるんというエンジンの騒音が中庭の空気を震わせた。生まれ変わった老朽車の産声であった。

 職員室に居残っていた先生の驚いた顔が一斉に窓から突き出た。中庭でテニスをしていたテニス部員が車庫の回りに集まった。

 閑話休題、その一…

 エンジン始動後…親方の運転で、一応走行テストを試みることになった。車両は先頭部から車庫に納まっているので、変速機のレバーをR(後退)の位置に入れやおら発進した。ところが後退する筈の車が前進を始めた為、慌ててブレーキを踏んだが間に合わず、小屋の板塀を突き破ってやっと停止するハプニングがあった。屋根が軽いトタン葺きであったので潰れずに済んだ。

 ブレーキの効きが甘かった所為もあるが、何よりも腑に落ちないのは[R]の位置が[前進一速]であった事である。この異常原因の調査と、ブレーキの効きの調整は後の課題として残った。

 その二…

 その後、走行装置の点検・調整を完了してから…、秋が深まり、放課後校庭から人影が無くなるのを待って、部員達の試運転が始まった。運動会が済むと、黄昏には校庭はがらがらになる。広い運動場は格好の運転練習場であった。それを知った物好きな若い男の先生が数人、自動車の運転練習に加わった。

 そんな或る日のこと、最後になったI先生が運転して自動車を車庫に収納する時に、ちょっとした事件が起きた。

 第一校舎と第二校舎を結ぶ渡り廊下に3メートル幅の開口(中庭への通路)がある。車庫へはその狭い開口を潜り抜けなければならない。I先生は運転を誤って支柱に衝突し、柱をくの字にへし折ってしまった。屋根はたわみ、衝撃で瓦が何枚か落ちた。

その後始末に、居合わせた先生と三年生の部員が夜遅くまで残り、ジャッキで梁を支え、折れ曲がった柱を元の姿に戻し当て木を添える応急処置を施した。

それ以来…運転練習は沙汰止みになった。

 

    九 渋川市の誕生と実業高校設置運動の再燃

 

 昭和二十七年十一月、[地方教育委員会法]の定めるところによって[渋川町教育委員会]が発足した。委員会は公選によるもの四名、議会推薦委員一名計五名による構成であった。委員長は議会推薦の兵藤議員であった。

 ところで、この二十七年は国際情勢がまことに多難な時で、四月サンフランシスコ講和条約に基づく、対日平和条約の締結と、これに伴う日米安保条約という歴史的な出来事があった。

 その五月のメーデーは、まさに血のメーデーで皇居前広場ではデモ隊と警察隊が激突する事件があり、国内情勢は容易ならざるものがあった。

 さらに七月には破壊活動防止法が公布され、保守と革新団体との対立はますます激しさを増した。風雲急を告げるとは…まことにこの時代を象徴するに相応しい言葉であった。

 安保条約、破防法の撤回を要求する革新勢力によるデモは日に大きく、日に激しさを増した。一方、政府はじめ地方自治体の行政機関は、かかる反対勢力の制圧にあらゆる手段を講じて対処した。

 教育界も当然この渦中に置かれ、県教育委員会と教職員組合が真っ向から対決し、一波乱は避けられない情勢にあった。

 このような状況下に地方教育委員会が発足し、最初にして最大の試練に直面したわけである。教育委員会本来の業務にも精通し得ない新委員にとって頭の痛いことであった。

 意義ある公選教育委員会はこのような重荷を背負ったまま二十八年に入り、地方財政再建促進法の基づく町村合併という…これまた大きな渦中に巻き込まれ、二十九年[渋川市]誕生を期に僅か一年有半で解消した。

 皮肉なことに初の渋川町教育委員会は安保騒動の後始末のためにつくられた結果に終わったのである。

 町村合併問題のため町内外の世情は俄かに騒然となり、町民の関心は挙げてこの問題に向けられるようになった。折角盛り上がった実業高校設立の動きも棚上げになってしまった。

 昭和二十九年四月、町村合併で伊香保町が新市に合併するかどうかで紛糾(市名の呼称を渋川にするか伊香保にするかで)を重ねたが、結局伊香保町を除く四ヶ町村が合併して渋川市が誕生した。

 この時の伊香保町長は横内甲子吉君で、私の中学時代の同級生で言うところの不良仲間であった。若干二十七才にして町長となり、当時全国版のニュースにもなった男である。

 わが渋川(町立)中学校も、渋川(市立)中学校になった。

 町村合併問題で棚上げ状態になっていた実業高校設立の運動も再燃し、教育界の動向が活発になってきた。新市議会常任委員会の[教育民生委員会]のメンバーに、各地域の教育行政に力を注いだ練達の士が顔を揃えたことが運動を再燃させた要因であった。

 新市の財政事情と議会の動勢から判断して、

教育民生委員会としては…工業高校設置を正面に掲げることは、徒に無益な混乱を引き起こすだけで、早期実現を計るには得策でないと判断した。とすればこの際商業高校でもやむを得ないのではないか…教育民生委員各々の見解には違いがあったが…一応商業高校設置に落ち着いたらしい。

 この頃、市内および近隣の町村の中学からは、実業高校の校種については工業高校を要望する声が潜在していた。それは進学生徒の実態調査の結果、商業高校より工業高校を志望する者の数が漸増の傾向にあること、就職する生徒の就職先も工業関係が圧倒的に多い状況から当然のことであった。

 渋川市教育委員会を含めた[北群馬郡教育委員会連絡協議会]は、学校側のこのような動勢から漸次工業高校設置案に結集していった。

 二十九年九月某日、当時の群馬県知事等を囲み[県民の声を聞く]地方行政懇話会が渋川地方事務所において開かれた。このとき市側から実業高校設置の建議がなされた。

 席上、建議案に関連して、誰が、どのような立場で質疑したかは不明であるが…早期実現のため商業高校の設置について県側の見解を聞いた。これに対して知事から

 「商業高校ならば普通課程の高校に併設して定員増を行えばよい。新設を望むなら、工業高校を考慮することが妥当である…」という内容の答弁であった。

 十月、渋川市第一回の教育委員の選挙があった。初代委員長に推されたのは永田氏で、氏は慧眼紙背に達する風格と、逞しい意思をその痩軀に秘め、人と良く接し、また良く和しまことに温厚篤実の誉れ高き人物であった。因に永田氏は、私が寄宿する高野家の末弟S君の姉さん女房Tさんの叔父である。

 内外の情勢から、市当局も新設校が渋川に必要であると判断し、三十年度の後半に至ってようやく実業高校の設置に踏み切る態度を固めた。校種については旗色鮮明にすることを避け、表向きはあくまで実業高校であった。しかし安全財政の政策を基盤とする市長の腹案には、商業高校設立があったようである。

 市は教育委員会に対し新設校設置に関する調査を依頼した。教育委員会側は茂木教育長が中心となり設立準備を開始した。

 校種、設置形態(県立か市立か)、敷地、建設費など諸々の問題について調査・検討し、具体的な試案をつくるため関係機関の意見を尊重する必要があった。それには…

 それら機関の代表者による準備委員会をつくって、夫々の問題点を検討しあって処理することが、拙速を避ける意味から適切であった。

 三十年七月、市教育委員会が中心となり各機関の代表を招集。設立準備会結成について協議し、名称を[実業高校設立準備会](以下設立準備会)とし本格的な設立準備のスタートを切った。

 同年八月九日、第一回の設立準備会が渋川市教育委員会事務所(現商工会議所)で開催された。その会議録によると…

一、設立準備会の結成についての趣旨説明と、その構成について

二、実業高校設置について資料の提出

  (一)今成渋川中学校長が、北毛地域対象学区の進学状況調査の結果について、詳細な説明を行い、進学希望者の入学難を緩和するために、北毛地域に新設校の設置が必要であることを述べ、更に、商業に比較して工業の希望者が多い実態から、校種には工業高校を要望した。

  (二)茂木教育長がこれまでの調査、準備の経過と現段階における校種・設置形態・敷地・支出経費など諸問題の状況について説明した。

三、この後質疑応答の結果、準備会として次のように結論をまとめた。

  (一)実業高校の校種は、一応工業高校を目標にする。

  (二)設置形態は県立を目標とする

  (三)敷地、支出経費、他地域との関係については、第一回の話し合いでは結論を出すことは時期尚早であり、今後の研究課題とする。

 この後、参考人としてこの会議に招聘した、県教育委員会の指導課長と財務課長に対して…議長より地域の要望を伝えると共に、今後の参考にするため県側の学校施策に対する方針について説明を求めた。県側の答弁は…

  (一)文部省設備基準について、指導課長より…

 商業、工業の高等学校設置について設備費の文部省設備基準を説明し、工業は商業に比べて施設費より設備費に多額の経費を必要とする。県内高校の校地保有量は文部省基準に達していない。新設校の場合は文部省基準に及ばないとしても、最低一人当たり一・六坪以上でなければ起債の対象にはならない。云々。

  (二)県財政の苦境について、財務課長より…

県財政の苦しい実態を説明し、高校の新設については地元の全面的な協力がないと実現不可能であることを強調し、特に工業高校の場合は普通科課程高校の約三倍近くの経費を必要とすること。運営のための通常経費は生徒数が最低三00人としても九00万円を要する。云々。

第一回準備会の後しばらくの間、関係者の会合は中断している。県教育委員会からの県情勢の説明は、工業高校設立で盛り上がった気運を少なからず後退させたようであった。

県財政の状況からみて、補助を期待することが極めて困難となった今、地元での資金繰りの見通しが立たぬ限り…これ以上の前進は考えられぬことであった。

 

また、大方の負担を地元独自で背負うとなれば、工業高校を断念して商業高校を設立することもやむを得ない…とする考え方が強まることも必至である。

こういう問題点が次回の準備会を遅らせた原因となったようである。

翌三十二年に入り、一月十日に[定例市議会教育民生委員会]が開かれている。この会合には参考人として狩野渋川中学校長と、今成渋川小学校長が列席している。

三十一年十一月に市内の小中学校長の人事異動が行われ、渋川中学校長だった今成氏は渋川小学校長に転出した。今成校長は工業高校設立の強力な推進者である。

 議題は実業高校設置に関する議案であった。会議録によると…

 一、市長より、第一回設立準備会開催当時に比べ県財政は幾分好転しており、実業高校(ここでは工業高校とはいわず)設立は最もよい時期である。

 二、委員長より、一つの案としてこの際、豊秋中学校に商業高校を設置し、渋川中学校と豊秋中学校を合併することを検討したい。

 三、今成小学校長より、再び進学状況調査結果の説明を行い、前回の準備会で決定された工業高校設立のことを強調した。

 この後討議の末、教育民生委員会として校種など重要事項について機関決定することには問題があり、更に強力な推進体制を作り、そこで十分検討して結論を出すべきであるとする意見が大勢を占めた。この委員会としては次の二点を決定している。

 一、渋川、北群馬、勢多の一部の市町村長、教育長の連名による陳情書を関係方面に提出する。

 二、準備会を更に強力なものにして、重要問題を検討し結論を出す。案としては北群馬郡、勢多郡三ヶ村、利根および吾妻郡の町村長、議長を含めた[設立準備委員会]を結成する…というものであった。

 このような経過を辿って、三十二年三月二十六日、第二回設立準備会が開かれた。

 議題は、[実業高校設立準備委員会]に関する件であった。

 提案理由として、茂木教育長から…県財政は前回の時よりも幾分好転しているとはいえ、依然として苦しい実情であり、新設校の実現に当たっては、建設費の大部分を地元で負担することになる。

 北毛地域全域に亘る協力が必要となった現在、北群馬郡、勢多郡三ヶ村および利根、吾妻郡の代表を加えた[設立準備委員会]を結成し、強力な推進体制を整える必要がある旨の説明があった。全員これに賛成した。

 なお、第二回設立準備会としては実業高校を設立することを確認することに留め、工業か商業かの校種の決定は[設立準備委員会]に一任することに決めた。

 以上のような変遷を経て、「設立準備会」は「設立準備委員会」と名称を改め、その組織は拡大されると共に市長の諮問機関から議決機関へと会の性格も変わったのである。

 昭和三十二年四月二十四日、[実業高校設立に関する陳情書]を県知事並びに県議会宛に提出している。これが「設立準備委員会」の初仕事であった。

 

    十 市立渋川工業高校の設立決まる

 

 この頃、教育委員会は行政上再び困難な事態に直面していた。教育界に衝撃を与えた勤務評定問題がそれである。教職員組合はこの問題をめぐり実力行使に訴えてこの撤回を求め、安保闘争以来の抵抗を示した。

 教育委員会は、この対策に勢力の大半を奪われ精根尽きた感があった。茂木教育長は不眠の労苦のため心身の衰弱甚だしきものがあった。

 八月に至り、遂に文部省は[勤務評定実施]について各教育委員会宛に通達した。教職員側に多くの犠牲者を出し、この問題も…燻る火種を残したまま終焉することになる。

 勤評闘争は、実業高校設立の準備の進行に停滞を余儀なくした。勤評問題も峠を越して一段落着いた頃、しばらく沙汰止みになっていた[設立準備委員会]を一刻も早く再開すべき必要に迫られ、九月九日第二回設立準備委員会を開催する運びとなった。

 出席者は市内関係の二十一名の準備委員と、参考人として松岡前橋商業高校長および市選出の篠原県会議員が同席した。佐藤市長が会長に推され議事を進めた。

 ここで注目されたのは、学識経験者として商業高校長の松岡氏のみを招聘したことであった。松岡氏は[県産業教育審議会委員]に教育界から商業高校関係者代表として任命された。

 工業高校関係からは田代高崎工業高校長が代表として同様に任命されていた。

 にも拘らず、審議会委員の代表として、特に商業高校関係側委員だけが招致されたことは、市当局に商業高校設置の配慮があったと憶測されてもやむを得ないことであった。

 当日の会議で、質疑が沸騰する原因がその辺にあったと思われる。

 松岡前橋商業高校長は佐藤会長の要請を受けて、県産業教育審議会の方針を説明した。

 審議会の方針に基づき、松岡氏の説明によれば、工業、商業の両課程の新設の必要性は説いてはいるが…二者選択となれば、商業課程を擁立することは松岡氏の立場としては当然のことであった。

 一方、松岡氏の商業擁護発言に対し、狩野渋川高等学校長は工業課程設立絶対支持の立場を明白にし、商業高校設置に反対した。

 今成小学校長(元渋川中学校長)の最近の進学状況調査結果の示すごとく、工業の志願者は商業志望者数の約二倍近くある実態と、今後の増勢判断から工業教育の拡充は必至であり、多少の困難は排しても工業高校の設置に踏み切るべきであると…市当局に強く訴えた。

 更に、商業高校だけから代表を呼ぶのは片手落ちである。工業高校からも代表を招聘することを強く主張した。設立準備委員会の意見はこの二つの主張に二分され、収集のつかぬまま議会は空転した。

 結局結論は次回に持ち越しとなる。

 九月十六日、第二回設立準備委員会再開。工業高校側から田代高崎工業高校長、商業高校側から松岡前橋商業高校長が出席。まさに呉越同舟の感があった。会場は六十有余名の委員で膨れ上がった。

 こうした中で、田代、松岡両校長から工業、商業学校設置に関して施設、設備に要する経費について専門的な立場から参考意見が述べられた。続いて、地元選出の篠原県会議員より…

 「目下、県教育委員会が抱えている高崎市営音楽センター、前橋市立体育館並びに桐生産業会館などの計画があるため、三十三年度の新規事業計画として渋川市の実業高校建設の助成を新たに組み込むことは困難が予想される…」旨の説明。

 引き続き質疑応答があり、協議に入ったが論議は平行線を辿り容易に結論は生み出せぬ状況であった。

 三十三年度の開校目標を間近に控えて、県の補助金の見通しは全く不明であった。あまつさえ、校種は未だに定まらずとあって市当局、教育委員会は深い動揺の色を隠し切れなかった。

 その頃、国内外の情勢は激しく変わり、科学、技術振興すべしの気運が高鳴っていた。

 折も折り、三十二年十月四日、ソ連がアメリカに先駆けて世紀の「人工衛星スプートニック一号」の打ち上げに成功したのである。この事実は全世界を異様な興奮のるつぼに落とし込んだ。

 わが国の上空に、この二十世紀が生んだ科学技術の結晶の正体を見て、我々もまた科学の偉大さをまざまざと思い知らされたのである。

 そして、この事実は各先進諸国をして…好むと好まざるとに拘らず、科学・技術水準の高度開発に対する思想を促すこととなった。勿論、我が国にとっても大きな刺激材であった。

 中央教育審議会が「中堅産業人の養成」えお建議し、続いて国が「科学技術教育の振興方策」を打ち出したのも丁度同じ時期であった。ソ連の人工衛星打ち上げに調子を合わせて行ったわけではなかろうが、まことにタイミング良く、効果的であった。

 九月十六日の設立準備委員会から僅か二ヶ月を経過した間に、世情はかくも大きく変動していた。このような情勢のなかで十一月八日、校種を決める特別委員会が開かれた。

 この日の会合は、予測された如く論戦は激しいものであった。しかし会議の雰囲気としては、工業を優先する新時代の流れに同調すべきである…とする意向が大勢を占めた。

 ここに至って、ある程度の経済的負担を覚悟しても工業高校の設置に踏み切るべきであると…全員賛成の議決がなされたのである。

 この日(昭和三十二年十一月八日)、長い間、商業か工業かで紛糾と混乱を重ねた校種問題もようやく終局をむかえたのである。

 早速、設立準備委員会の名称を[渋川地区工業高等高校設立期成会](以下期成会)と改め、県の意向を打診しながら、中央の施策方針をにらみ合わせて、工業高校設立の具体的な運動を進めることになる。

期成会の名において[工業高校設立陳情書]を次に宛て出願している…。

 一つは、三十二年十一月十八日付で県知事および建議会長に宛て、

 もう一つは、同年十一月十八日付で文部大臣および大蔵大臣に宛ててである。

 設置形態が最終的に「渋川市立」と決まった経緯を、三十二年十一月十四日に開かれた市議会全員協議会の議事録からその一部を抜粋してみよう…

 議長…「これより渋川市議会協議会を開催いたします。最初に工業高校設立についての件を議題と致します。

市長の説明を求めます。」

市長…「…。今般国の補助が文部省の予算に取り入れられ議会を通りますれば補助金が決定するわけであります。…(略)…まず課程でありますが、機械科・電気科の二課程であり、機械科をA組・B組に分けまして、A組は機械工作に重点を置くもの、B組は自動車工学に重点を置くもの、電気科A組は一般電気、B組は応用電気に重点を置くものであります。概要につきましては以上のようなものであり…(経費の説明略)…。

 また学校建設に際して、これを県立にするか市立にするかということでありますが、先般の工業高校設立期成会において、市立にするか市町村組合立するか十分話し合いました。その結果市立でやりたいという意向の方が強く、市町村長会でも市町村組合になると非常に複雑になりますので…市立でやって欲しいとの意向であります。これらの事情からも本日の協議会において、市立でやるよう決議願いたいのであります。」

茂木教育長…「工業高校設立計画の案について説明申し上げます。市長の説明による二科の課程の件でありますが、この地区の四大会社の姿を考えて機械科には自動車工学、電気科には電気応用を特色といたした次第であります。」

 議長…「以上で説明は終わりました。これに対して質問はありませんか?」

 七番(番号は議員の席番)…「…(略)…国の補助も決まり、三十三年度発足を考える時、ただ市立だとか県立だとか申されますが、市長の説明によれば市立でなければならない段階に来ているように感ずるが、その点について市長の気持ちを知りたい。また市立の場合に運営費について心配はないか」

 市長…「三十三年に開校できれば市立で始め、第一回の卒業生を出すまでには県立にしたいと考えている。運営費についてでありますが、市立でも賄って行けると考えています」

 十二番…「…(略)…大月市は、市立で短大を始めたところ卒業生の就職、入学希望者数等いろいろな問題に支障を来たしたそうだが、又卒業生にしろ、在学生にしろ、何かBクラス的意識を持つようになるので、地元負担を十分行ったら県立で始まるようにならないか」

 市長…「…(略)…県の今の情勢を考えるに県立では困難でありますので、市立で始め卒業生を送るまでに県立に移管したいとの意向であります。…(略)…」

 十番…「敷地もまだ決まらず…三十三年度開校に間に合うか?」

 市長…「三十三年度開校ということは当然校舎もありませんので、間借りすることになるが、出発することは出来る。敷地と開校は関係無いと考える」

 十六番…「…(略)…場所も決まらず、教室も無く来年度開校することは非常に困難と考えますが、地元の熱望を達成する良き機会であると信じ、万難を排してでも三十三年度の発足を望むものであります」

 …(途中省略)…

三十三番…「…(略)…前橋・高崎の工業高校志願者は、渋川中学だけの数字でも四十ないし五十名もあるそうです。前橋・高崎工業高校の入学希望者は二倍と聞いています。このように非常に入学難である現在、地元に工業高校がありますれば、これらの数も緩和されると思います。三十三年度に始めるとすれば…願書の受け付けも始めなければならないと思うが、当局の考えを聞きたい。技術的な点について教育長にお願いする」

 教育長…「…入試の期日も一ヶ月位遅らせて行えます。間借り校舎(渋川高等学校を念頭に)でも始まります。又一ヶ月遅れ分は夏休みを返上してでも単位を取れば良いわけであります」

 …(途中省略)…

 二番…「午前中より市長、各議員の熱意あるご意見を伺いましたところ、もしも来年度三十三年をもって推進するならば、既に他の高等学校では生徒募集をしていることを聞きますので、この際生徒募集をして頂きたい。又議員の皆さんも不賛成の者も無いと思われるので議会の議決を願うものであります」

 全員…これに異議なく賛成であった。

 議長…「工業高校につきましては万難を排して昭和三十三年度に開校するように、又計画、推進については当局に一任することに議決したいと思いますが、これに異議はありませんか?…(全員「異議なし」)…異議ありませんので左様決定します」

 このような実況の如く、議会の事情から察すると、地域住民の熱望に促されて、市の当局者は勿論のこと議会としても工業高校の発足を…たとえ市立としてでも、三十三年度に実現をさせる決意を固めたのである。

 地元選出の福田赳夫代議士は、当時政調会長の要職にあり地元と中央との大きなかけ橋であった。中央の打診は福田氏を通じて行われ、又地元の要望は少なからず中央に反映していた。このような点からも福田代議士の存在が、渋川工業学校の実現させた要因であったことは否定できない。

 安全財政を基調とする佐藤市長が、冒険を覚悟してまであえて工業高校の設置に腹を固めたのも、福田代議士の中央での援助を期待してのことであった…と想像されるのである。

 

 さて、[工業高校の設置]問題と[勤務評定]反対闘争で明け暮れた三十二年度は、熊さん先生こと私は三年生の受け持ちで、進学指導で頭を抱えていた最中であった。私にとって勤務評定は…反対する理由もなく、どちらでも良いことで、渋川市に新設高校が出来ることのほうが切実な問題であった。

 工業高校の設置が決まったことで、生徒の進路選択に大きな門戸が開かれた。まだ影も形もない渋川工業高校であり、入学の難易度も未知数であったが、私のクラスからだけでも(男子生徒二十五名中)五人が新設校への入学を希望した。内三名が機械科B(自動車工学)を志望した。

 因に我が中学校から志願した生徒の数は…機械科A二十一、同B二十一、電気科A十七、同B二十六合計八十五名であった。だいぶ高校入試の狭き門が広がったことになった。

 思えば自分の野望で…県下では初めて中学校に[自動車クラブ]なるものを導入したことであった。

 当時は、まさか新設渋川工業高校に自動車を専攻する課程が出来るとは夢にも考えなかった。が…

 何か宿命的なものを感じぬ訳にはいかなかった。

 開校を控えた二月の初め、茂木教育長から密かなる呼び出しがあった。場所は教育委員会事務所であった。そこで教育長から…

 「狩野校長先生には既に了解をしてもらっていることですが…貴方に新設の工業高校に転出して貰いたいのですが如何でしょう…」と。ある程度予測していたので驚きもしなかった。

 「自動車課程(機械科B)を工業高校の特色として入れることにしたのも先生の存在を念頭に置いたからです…」と、ずばり本音を聞かされた時は、さすがに熊さん先生も感激した。

 新設校の話が具体化した頃、雑談話に…そんな意味合いのこと(新設工業には自動車教育を入れたい)を、当時の今成校長が私に打ち明けたことがあった。

 いずれ…こういう話が持ち込まれるであろうことを予感していたので、別に寝耳に水とは思わなかった。

 私は拘り無く、有難く教育長の申し入れをうけたまわった。

 昭和三十三年三月三十一日付で八年間在職した渋川中学校を退職、同じ日付で新設渋川工業高校教諭に任命された。

 デモシカ先生は変じて「カモシカ先生」になる。人生まさに…万事、塞翁が馬である。

                完

 

 

 

 

   息子の添え書き

 

    一 本編誕生の秘話

 

 父記述の「わが紅の青春日記」自体は、父の説明があるので、お分かりになるかと想像する。

 それ(父の自叙伝)は、自費出版で100部のみ刊行され、親戚・知人のみに配布された全く「私的」な作品であった。

 しかし、内容的に現代日本の産業発展に微力ながらも貢献した事実を、広く知って頂きたく、公開する機会を伺っていた。

 たまたま、私自身、経験談や随筆を出版コンペに寄稿し、素人の作品であっても出版の道が開かれていることを知ったため、全編「盗作」ではあるが、故人に代わり(本当のゴーストライター?)原稿を作った。

 前述したが、たまたま父母の十三回忌を目前にし、これも一つの導きと捉えたのも切欠であった。

 著作権云々の細かい話は敢えて考えず、兎に角行動あるのみ、の心境で…。

 

    二 文字通りの「反面教師」

 

 父は三十年間教職にあった。

 その殆どの期間は、群馬県渋川市立工業高校「自動車科」に在籍した。

 学校から帰れば直ぐに机に向かい、勉強三昧で夕食後は、毎晩大酒を食らっての晩酌。

 虫の居所が悪ければ、母や私をよく殴ったもので、団欒の記憶は薄い。

 反面、モーターショー等へは毎年連れて行ってもらったり、教職員旅行へも良く同伴させてくれたりもし、喜怒哀楽の激しい人であった。

 卒業式が近付くと、卒業証書を書くのは父の仕事となっていた?

 今でこそ、氏名のみ書くのであろうが、父の頃は全文手書きであり、達筆ゆえ任されたのであろう。

 文部省や運輸省にも足繁く通っていた様である。

 本来、学校長もしくは教頭が為すべき役割もやっていたのかも知れぬ。

 父が保有する教員免許では高等学校の校長になれるらしかったが、父はそれを拒んだ。

 理由は「順序として教頭を経験しなければ、校長にはなれぬ。俺は教頭にだけはなりたくない。あんな小間使いな役は…」などと言っていたと記憶するが、事実その役をやっていたのに、不思議な人である。

 私自身、工業大学を卒業しており、教職課程の単位を取れば教員試験を受ける資格が得られたが、敢えて取得しなかった。

 「自己犠牲の上に成り立つ教員などなるものか」と、父を「反面教師」にしていたのだろう。

 今の「サラリーマン教師」には無縁の戯れ言かもしれない?

 

    三 せっかちな父

 

 せっかちとは「短気」「性急」の意味で使うことにする。

 自ら行動することを「習慣」にしていた父は、何でも自分でやった。

 それはそれでいいが、迷惑なのは息子の私である。

 便利な「てこ」として、よく顎で使われたが、思い通りに動かないと直ぐに怒鳴られた。

 高校生までは、恐さが先に立ち素直に従ったが、流石に二十歳になる頃は、私にもようやく自我が芽生え、「何がやりたいのか説明してくれ、俺だって考える頭はある!」と喰って掛かった。

 一瞬、父は驚きやがて嬉しそうに、自分の構想をこと細かく話し私のアイデアも聞いてくれた。

 現在実家にある約五十坪の庭園?も父子の作品がベースとなった。

 春夏秋冬四季に合わせ、見事な景観を見せたものであった。

 (今では自分で手入れが出来ず、家主である妹夫婦には「負の遺産」になっている様である)

 そんな父であるが故か、最大の心の支えであった母が他界した後、僅か四ヶ月で後を追った。

 後年、自叙伝中に出ている伊香保の横内さん(私の仲人でもある)が自叙伝を出版。

  暫くして突然他界してしまった。

  以降、父の友人達の間では「自叙伝を出すと死ぬ」と言う変な「暗黙の了解」が出来てしまったと聞く。

  大正十三年(甲子)生まれは、ねずみの如くせっかちな生き方をする人も居るのかと、穿った考えを持つのは私だけ?

 

    あとがき

 

 何度も読み返した「父の遺稿」であるが、改めて書き写すにつれ、激動の時代を生きた一人の男の姿が鮮明に浮き出てきた。

 厳格で短気な、恐いだけの存在であった父であるが、垣間見た「優しさ」の根幹が父の生き様から伺い知れた。

 私自身、子供の頃自給自足生活のため、庭先だけでなく借り受けた畑での野良仕事に借り出され、多くの作物を手掛けさせられたが、父の体験のほんの一部を教えられただけであった。

 

 家作りに当たっては、自ら図面を引き、集中暖房の配管は業者には任せず、親子で行った。

 私の記憶の中では、2軒であったが父にすれば生涯3軒の家を設計?しているのである。

 私自身、マイホームを作るに当たり、資金的にいわゆる「一般工業化住宅=既製品」を採用せざるを得なかったが、細部設計は自ら行い内装のパース(完成予想図)を作りメーカーに提示した。(こんな客は珍しいらしく今でも保存していると聞く)

 これも父の遺伝子かも知れない。

 

 モータリゼーションのトレンドをいち早く察知し、運転免許だけでなく、自動車整備士として三級ディーゼルエンジン、二級シャシーと二級ガソリンエンジンの資格を得、テレビや洗濯機も無い借家住まいでありながら、自家用車だけは購入するなど、世間常識からは掛け離れた思考の持ち主ではあったが、その先見性には今だ脱帽しきりである。

 群馬県渋川市立工業高等学校(現在は県立)は全国的にも数少ない「自動車科」を有する高校であった。が、県立でなかった故?に贅沢な設備を導入出来た様だ。

 当時、先進国であるアメリカ製の機器が配備された実習室は、やがて陸運局の認可を受け「民間車検工場」となる。(公立施設で「民間」の表現は不思議だが)

 

 東洋工業(その後のマツダ、現フォード)がロータリーエンジンを開発し、市販された頃、既に渋川工業の実習室には実物のエンジンが寄贈されていた。

 当時存在していなかった「原動機総合試験機」を当時の国鉄(記憶は定かでないが)を協同開発したこともあった。

 校庭には広い面積を持つ「運転コース」(父が設計)があり、生徒は卒業時には運転免許を取得していた。

 卒業生の多くは、自動車メーカーや関連の職業に就き、自動車産業の発展の一翼を担ったはずであろう。(父の教え子は、既にリタイアしている?)

 

 もう時効であろうから白状するが、私が自動車を初めて運転したのは十五歳の時。

 成田山新勝寺へ、初詣に行く早朝ドライブは私がハンドルを握った。(クラウンだったか?)

 やがて独立し、中古車を乗る様になってからは、「門前の小僧」ではないが、不具合は自分で整備したものである。

 エンジンを降ろしたり、トランスミッションの分解、ブレーキパッド、クラッチ板の交換等々整備士が行う作業は殆ど出来た。

 当然、車検整備も自ら行い、父の判を押せば正式書類が出来る。(費用は法定費用のみ)

 現在ではワンボックス(ワゴン)を4台乗り継ぎエンジンルームを見ることも無くなったが(電子化が進み古典的な整備は出来なくなっている事もある)車検は専門家任せになった。

何と出費が多いのかと思うのは、一般の人には理解出来ない気持ちであろう。(専門業者はそれが生業だから文句は言えないが)

 

 あとがきが長くなっては、本末転倒である、そろそろ筆を置くが、単に本を読むより書き写すことで感じることが違うことを実感した。

 それは、工業高校設立の経緯である。

 想像であるが、父がその場に居合わせる機会は無かったはず。

 にも拘らず、仔細に記述出来るのは「公文書」として残っていたからであろう。

 だから、公的記録として信憑性は高いと、これまた勝手に想像するが。

 お役所仕事の稚拙さが、ありありと目に浮かぶ。

 「会議」とは、会して議せず、議して決せず、決して行わず、行いて贖わず。が昔から現代まで変わっていないことである。

 父は「自ら考え、実行し、そして常に責任を取る」覚悟で一生を終えた。

 人は一人では生きて行けない宿命を持つが、自己を基本としながらも、時に「世間」と言う「外乱」に合わせ自己を押さえることの忍耐力を兼ね備える事。

 これを自分の背中を見せながら、私に伝えてくれたと今更ながら、感謝する次第である。

 それに益して、我侭三昧の父を支え続けた母の偉大さは、私で無ければ判らないものだが、不治の病に侵され余命いくばくも無い母のために書き綴った父の文面から想像して頂きたい。

 母は父の原稿は見ているが、製本されたものは見ることなく旅立った。

 ひつぎに添えられ共に灰になった「本」が来世への手土産となった。

 今、赤城の開墾村で生を受けた息子が、改めて原稿を起こし直した。

 十三回忌に当たり、天国で読んで欲しい。

 感謝の言葉と共に。

   合掌         荻原 敏